花筏の行方

Wakei Yada(ぽんきち)

花筏の行方

 サイバー戦争の幕開けは、一つのエンターキーから始まった。およそどんな不可能に対しても、科学万能主義の台頭が目覚ましく、ついには存在論の領域にまで諸科学が浸透し、ありとあらゆる物質と霊魂の存在が定義されるようになったこの現代において、ある種の不可能性を打ち立てることは、極めて困難といっても過言ではなかった。

 叩かれるのはキーボード、すなわち演算盤の類ではなく、浮遊する単独のエンターキーであり、かの人が指を滑らせるのに合わせて、一つ一つのキーがその意志を汲み取ってモニタ上に出現し、あとは打鍵のスピードだけがその圧倒的な処理速度の高さを保証してくれていた。

 人の動くスピードはかの森林代理戦争以降、急速に遅くなっていった。渋谷の交差点では旧式の街頭路がいまだに点滅を続けており、およそあらゆる車というものの類は存在していなかった。代わりに人間の意志だけが飛躍的なスピードで情報を処理し続けていた。人間は脳を一つのシステムとして構築するところまで至っていた。こうした世界において、もはや人間は動くことを必要としなかった。代わりに倦怠を解消する飽くなき探求心と運動神経の開発に従事することとなった。

 というのも、森林代理戦争は、端的に言って石油の代替のためになされていたからである。技術の進歩と高級化が、建材としての森林の利用からエネルギー源としての森林の利用を後押しし、第一ターゲットはカナダ、第二ターゲットは日本に絞られていた。かつて松油を使ったエンジン利用を推進していた、旧来の日本の国防総省は、これを機に事態を重く見て、それまでのグローバリゼーションの流れに逆らう形として、完全な鎖国の徹底に乗り出した。


 日本産の木材の流通は、極めて独自の経路によって行われた。長崎の出島を経由した、リモートセンシングによる輸送である。当然のことながら、この技術の確立には存在論的な根拠が求められていた。人がただエンターキーを叩けば、物質転送によって勝手に木材が輸出できた。またエンターキーを叩けば、旧来の技術であれば高度すぎるとされる臓器移植も、簡単に実現することができた。

 「僕らはモジュールの中に生きている」という書き置きを僕はこのシステム画面に残すことにした。「僕らの存在は極めて単純であり、取り換え可能なのだということ。そのことを考えなければ、僕らの生活は破綻してしまうだろう。そういう意味では、僕たちは本質の中に生きているというより、虚構の中に生きている」僕は、そういうメッセージを送信することによって何か恐ろしい悪事をしているというよりは、ただなんとなく怪電波を発信しているのだという気がしていた。しかしながら、エンターキーがそういった僕の雑念を取り除いてくれた。透明なパネル上に粒子体が集結して発生するこのキーに、僕はただなすがままにパスコードを打ち込み、エンターをした。こうした心理的な過程は犯行声明文としてシステムの中に、登録された。

 人々は悪意を見ても、たじろぐことはなくただひたすら歩き続けるものだと知っていたから、僕は悪意を露呈させることに躊躇いがなかった。領土監視域に侵入した僕は、次はカナダと日本の流通経路の統合作業に入った。それはすなわち日本の領土をカナダと一体化させることを意味していた。このプロジェクトに僕が選ばれた理由はわからない。ただ政府に命令されているということもない。この仕事をなすべき理由はただ、アメリカに空間的な圧力をかけるということ、ただそれだけだった。

 シナリオは単調だった。長きにわたり続いてきた日米同盟の破綻をコーディングしていくのだった。そのためにはまず日本の国民感情がいったん別の事件――すなわち、日本国内におけるテロ事件――にぶち当たる必要があった。人々の紛糾する声が想像できた。そしてその想像は、まさしく想像以上にインパクトをもって迎え入れられた。人々の動くスピードは次第に遅くなっていった。

 僕がこの案件を受け取ったとき、これはもはや誰かの代理だということは示されていなかった。ただ目の前にある差し迫った課題だった。それはクオリアの問題を扱うときのような慎重な作業を僕に要求した。僕はひどく疲れ切った。脳髄が疲弊し、摩耗するのを感じた。

 いったい誰がこんな依頼を、と僕は思った。そして思っただけにして、忘れることにした。忘れることを覚えた人間は、いったん忘却を始めると止まらない。忘却することを好きでする人はあまりいないが、僕は忘れることが好きだったのだ。

 その依頼は丁寧な黄色の紙封筒で、こう書かれていた。「Emergency Attack phase

5 NEXT STEP : objection」僕はその依頼の封筒を丁寧に開封し、中のディスクを読み込んだ。バッファが始まり、僕の仕事の依頼としては大きすぎるほどの単位の仮想通貨が振り込まれた。コーディングを終えた僕は、エンターキーを押すと、ネット上の地図では長崎の出島とカナダの針葉樹林帯が同じ色になっていた。それを見届けると、僕の作業は一通り終わった。


 目黒川沿いの道を歩いていくと、桜並木が続いている。それも延々とだ。この桜並木の、桜の木々の一本一本が、夜光に照らされて赤く輝いているのを、僕はシャッターを切りながら思いやって、それでも思いやり切れなくて、ついつい偏屈な美しさを求めてしまう自分の性というものに、直面せざるを得ない。例えば川に浮かぶ花筏は、ちょうど僕が見つめたタイミングでは川いっぱいを埋め尽くしており、しかしそのいっぱいの花筏の中に、ぽつんと一つのプラスチックごみが浮かんでいて、誰が落としたのか知らないが、人々の意識の片隅に存在しているかのように、そいつは存在するのである。

 そいつ、つまりプラスチックごみと思っていたものをよく眺めると、それの内部には回路が詰まっていて、一つの演算盤となっていることが判明するのだが、僕にはその演算盤の意識を想像することが極めて難しい。これだけコンピューターが高度化し、情報文明が発達した今日においても、である。演算盤は、一つの計算結果をシミュレートする。その一つの計算結果は、もはや計算の過程において一つではない――すなわち一般解と特殊解の存在のように――それはもはや複合的で、非生産的な計算なのだ。しかし、一つの数学的見地に立って考えるならば、それはある種の意識プログラムと呼ぶことができるのである。かの川に浮かぶコンピューター、それは桜の花びらの一片一片を構成する花弁細胞にまで浸透し、それらの花びらの行く末を、細部に至るまで計測するのだ。それは決して失敗が許されない。花筏の行方は流体力学の基礎的な研究と密接に関係し、花弁のモジュラー性なるもの、いわゆる置換可能性に遡及するからである。

 そもそも桜は何のためにこんなにも咲いては散り桜でないものになってしまうのか? そして桜ではないものとはいったい何なのか? それを確かめるのが、この水上に浮かぶコンピューターの使命であった。かのコンピューターはサクラコンピューターと呼ばれ、人々に忘れ去られてもなお緻密に解析を続けていた。その計算結果は数百年後に海底から引き揚げられた際に、海底に沈んでからの花筏が深海魚に捕食され、血液から破骨細胞に至るまで桜の花びらの成分で構成されるようになる過程をも、まごうことなく予測し得ていたのである。

 例えばラブカなどはそのいい例であろう。太古の昔に滅びた祖先の形状を受け継いできたとされるこのサメの亜種は、サクラコンピューターが、水流発電を利用しつつ忙しなく稼働してこのサメの表皮細胞の構成成分に存在する微細なポルフィリン環を見出した結果、桜の成分がそのままラブカに置き換わっていることが判明したのである。ラブカに置き換わってしまったことによって、桜はまさに泳ぐ花弁となり、深海と桜との一つの結節点を見出すに至るのである。

 もはや読者はお気づきかと思うが、サクラコンピューターはもはや桜の一部となっていたのだ。すなわち、花筏の浮かぶ至るところ、そして沈んでいった花弁がある深海の至るところが、かのコンピューターの支配域である。

 僕がカナダと日本をブリッジさせられたのは、ある意味このサクラコンピューターのおかげなのかもしれない。かもしれない、と言ったのは物事には不確定要素がつきものだからである。そこまで言うのは、サクラコンピューターという概念自体が、そもそもダミーだった可能性があるからであり(それをもってサクラと呼んだのだ)、その概念の確定自体が、もはや拡張された排他的経済水域において、カナダ方面で生い茂る樹林帯の葉身の行方を知ろうとすることほどに、困難を極めていたのである。


 これも一つのエンターキーなのだ。僕はそう自分に言い聞かせ、シャッターを切る。

 僕はシャッターを切る度に、夜のシーンの一つ一つが切り取られていくのを感じる。

 表現には一定のリズムが存在するが、目黒川の流れにも心臓の鼓動のようなリズムが存在する。

 まるで水墨画のようだ、と僕は思う。

 あるいは、枯山水か何かだろうか、とも思う。

 もしくは、最初から計算され尽くした何かなのかもしれないと思う。

 だとしたら、きっとひどくつまらないものに、他者からは見えるのだろう、という気がしてならない。そんなことをうつらうつらと考えながら、サクラコンピューターに語り掛ける。君の眼にはどんなふうに見えているんだい、と。

 答えは最初からシミュレートされている。これが世界だ。

 世界よ、これが世界だ。

 こんにちは世界。

 おやすみ現実。

 そんなことを想っているうちに、だんだん思考が妄想の淵へと近づいていくのがわかる。

 僕が聴いているのは、カザルスの無伴奏チェロ組曲だ。

 タブレット端末を使って、歩きながら野外にけっこうな音量で流している。通りすがりの人が、驚いて振り返る。警察官は見て見ぬふりをする。

 繊細な響き。甘美なる眠り。それらは音に誘われてやってくる。音の幽霊のようだ。いや、幽霊という存在が、音なのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、本当の幽霊に出会った。


 遭遇してしまえば、もはやどうということはない。恐怖感とか、そういったものは何もなく、ただ現実に対する無味乾燥さに対して、ある種のスパイスを付け加えるようなものである。

 幽霊には姿がない。

 端的に言って姿らしいものは見当たらない。姿というのは、本来は形と色とが一緒になって現れるはずのものだが、比喩的に言うならばそいつには形があっても色がない。また別の比喩で言うなら、そいつには色があっても形がない。色と形という概念とが一緒になって立ち現れないので、そいつの姿は見えないのである。その代わり、景色の中に、すなわち風景の中から闇のように立ち上がってくる。

 しかし、どうせ一人なので逃げることも面倒臭い。

 幽霊は次のような言葉を投げかける。

 もし君に良心があるのなら、このプロジェクトからは手を引くべきだ。しかし良心がないのなら、良心の声が芽生えるまではこのプロジェクトに加担するべきだろう。

 このプロジェクトとは? 僕は問いかけるが、答えは決まっている。答えは最初からシミュレートされている。

 それは君が一番よく知っているはずだ。

 僕は知らないふりをする。しかし見抜かれている。

 君は知らないふりをしたね、という声。声は何から発されているのだろう。しかしその疑問も見抜かれている。

 君がラブカのことを考えたとき、君はラブカにその声を聴いたのだろう。君が桜のことを考えたとき、君は桜にその声を聴いたろう。君は目黒川を歩きながら、この声を聴いている。だからこの声は川の声、海の声、水底の声、深海の声なのだよ、と。

 どす黒い笑いがこみ上げてくる。深海よりもブラックで、ひどく明るい突き抜けた笑いが。

 きっと僕は現実に酔っているんだな、と思うことにする。

 僕は歩き出す。

 僕は空間のことを考える。

 この空間は何でできているのだろう。はたまた、すべてが疑問形に付される形となれば、この空間そのものが疑問からできているのかもしれない。

 僕のいるこの世界とはいったいなんだろう?

 その疑問が幽霊の声なのか自分の声なのか、僕にはわからない。わからないままそれを聴き続ける。いや、そもそもこの声自体が、僕のものであるという保証、僕のものという所有の感覚はどこにあるのだろうか?

 こうしてイヤホンもなしに音を垂れ流している現状、世界は私であり、私は世界である、そしてそうでないものは何か? そんなものが存在するのだろうか? 存在するとしてそれは世界なのか、私なのか?

 私?

 なぜ私はそもそも私という人称を使い始めた?

 私はなぜ他のない唯一無二の存在なんだ?

 私は途方に暮れる。私はいつの間にやら変わってしまった幽霊の声が、自分の中から発されているのに気づく。川の流れは心臓の流れであり、弁がしっかりしている限りは決して逆流することがない。しかしその弁が緩んでしまったかのような景色が映っている。川に浮かぶ花筏が逆流をはじめ、上流へと昇りつつあるのだ。

 私は気が付くと私という人称で思考している。そして世界の側――僕の側――はいつの間にか私の声に始終耳を傾け、沈黙してしまっている。

 こうして、私はいつの間にか幽霊と入れ替わっていた。


 今考えると、主体の分裂というものが客体の分裂に相当するのだと、なんとなく理解できる。しかし、昔は主体と客体、主観と客観とを峻別するものの感覚が、まったくと言っていいほど理解できなかった。

 私は理解可能な限り、自分の手近にあるものを理解可能なものに置き換えることにした。それまでの自分を定位していたものを認識しようとしたのだ。例えば手である。これはサイバー犯罪に加担したどす黒い手なのだ。今の私ならこの手をそっと差し伸べて、木材の獲得権を操作することができるだろう。しかし、私はあえてそれをしないことにした。アメリカとカナダの境界線を、互いの力関係から犯したくないという想い、それを打ち壊してしまうほど、私の行為――すなわちそれまで僕のものであった行為――は強くはないだろうから。

 私は入れ替わるだけでもひどく労力を消費してしまったので、もはや何をする気も起らなかった。仕方ないので、ベンチに腰かけて音楽を聴いた。グレン・グールド演奏、レナード・バーンスタイン指揮のチェンバロ協奏曲第一番。バッハ。対位法を意識して奏でられるこの旋律の節々に、腰痛のような痛みを覚える。この痛みは音楽の痛みだ。音楽に入った罅だ。亀裂なのだ。そう言い聞かせると、やがてそこに自分の存在の感覚のようなものが立ち現れる。私はそれを僕と呼ぶことにする。またその僕の声が聴こえる。僕の声は幽霊の声だ。今では幽霊になってしまった僕の声だ。

 僕はチェンバロ協奏曲を聴きながらまた別の曲を聴きたいと思う。そして僕はついに声を発しない。僕は声を発しない。

 そんな僕の声を聴く。

 私は少し驚き、しかし自然に受け止める。

 またあの幽霊だ。

 そんな僕の声をまた聴く。

 私は仕方なく、サカナクションの『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』をかける。


  バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心

  バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心

  月になれた僕がなぜ 月に見とれたのはなぜ

  歩き出そうとしてたのに 待ってくれって服を掴まれたようだ


 月になれた僕が、なぜ月に見とれていたのだろうか。月になってしまったというのに、どうして月に見とれる僕を維持し得たのか。

 私は僕という存在の偏在感覚を確かめる。

 僕は今どこにいるのか。

 私が訊きたいぐらいだ、と思う。

 しかし少し考えればわかる気もする。私が僕と入れ替わったのと同じことなのではないか。

 幽霊と入れ替わった僕がいたように、幽霊から僕になった私がいたのである。


 数日後、発表された週刊誌には木材炉の爆発の原因を書き立てる記事が載っていた。これが未来のことなのか、現代のことなのかはわからないが、もはや書かれた内容はなんの体もなさない形骸であり、そしてまた一種のメディア自体によるポジショントークであり、それを知ってのことか人々はもはや恐るべき対象を見出せなかった。

 テロルは現実のものとなっていたが、その記憶者はいなかったのである。表現も、その記憶のはざまに閉じ込められたまま現実に浸りつこうとしていなかった。サイバー戦争の夜明け、それは抹消された一つの記憶から始まったのである。

 週刊誌は必死で事件性を強調しようとしていたが、もはやネット上に上がっている爆破動画と犯人像のカメラワークのキャプチャー映像の方がずっと早く現実に辿り着いていた。誰一人読もうとしないその週刊誌の名前を、覚えてはいたが思い出すほどの些事ではないと判断して何もしなかったのだ。

 それ以上に深刻だったのは日本の木材の流出事件だった。カナダ産の樹材が大量に盗伐に遭い、それが日本経済にも波及して深刻な影響を及ぼしていたのである。しかし、人々はまさかそれが異国の出来事だと知る由もないから、とにかく先決にこの事件が収束することを祈ってばかりいた。しかし実態としてサイバー戦争が起こっているのは事実で、この戦争が森林代理戦争であることを知っているごく一部の人だけが、標的たる国を攻撃するべきだと主張するに留まった。

 もちろんサイバー戦争に対する代理攻撃を仕掛けるというのはちょっとおかしな話かもしれないが、それがいよいよ現実味を帯びてきていたのだった。すべてが爆発して終わりになればいいという終末観はもはや通用せず、終わらない日常と延命措置だけがこの飽くなき倦怠を生み出していたのだった。

 そんな中、サクラコンピューターはただ黙々と深海を制圧していた。サクラの花びらの行方を調べるだけであったのが、もはやどんな領域にもその支配域を広げ、北は北極、南は南極、そしてその流氷の中にある凍った桜の花びらとなって、人類史の記憶を開発していたのである。

 その後何世紀分かの人類史を書き換えることになるこのサクラコンピューターが最後に開拓したのは、桜の延命であった。風倒木になりかねないと切り出されることが確定した桜の木々に対して一種の命令系統を形成し、木材炉で爆発するようにすべてを仕込んだのである。

 その甲斐あってかこのサクラコンピューターは何名かの犠牲者を出し、それによって林業人口をいくらか減少せしめ樹木伐採の憂き目に遭うことを防いだのである。政府は風倒木の対応以上に、木材の流出の原因を探るべく対策を迫られていたが、まったくもって流出経路がわからないどころか、そもそもどこに流出したのかがわからないということもあって、闇雲に異国船打払令を振りかざすわけにもいかないというのが現状であった。それはもはや技術流出であったのだ。


 僕は僕自身の中に生じる微かな問いに応えようとする。そのとき振動が生じ境界的な私と僕の狭間に間隙が、また花筏の逆流が始まる。

「なぜ、桜は一斉に咲くんだ? なぜ、同一のタイミングで散るんだ?」

「それはね。サクラのDNAの汚染が起こっているってことなのさ。日本に存在する桜の大半は同一周期に合わせて咲き同一周期に散るようプログラミングされている。それは桜の開花時期が、人の目覚めの時期と重なるかのようにね。開花が目覚めのメタファーなら、散りゆく花筏は海底のメタファーになる。その本質を、今君は理解するだろう」

 そこまでの話が、満月の下の目黒川を流れるサクラコンピューターから聞こえてきて、耳を澄ましているうちに時は満ち、曙が儚げな表情を空に浮かべる。

「あそこにあるのも、桜色じゃないか」と僕は口にする。それを知りながらもサクラコンピューターは答えない。何故ならそれは最初から虚構であり、存在しないものの象徴だったからだ。「夢ならば覚めないで欲しい」僕はそう呟いて、宙返りするといとも簡単に空を舞う。そのまま月へと向かっていく。その光景が映し出されたのを、また見ているのは私だ。

 結局僕は私はどちらでもよかったのだ。分裂しゆく言語の空壁に照らし出した月光のせせらぎの音を静かに聴いていればよかったのだ。グレン・グールドのゴルドベルグ協奏曲に端末を切り替えて、僕は歩き出す。そして静かに意識の中に刻み込む。


 この頃には、国土の管理というものはすべてにおいてAIの仕事であったため、国土を巡る人間の運動だけが形骸化して残っていた。しかしその運動も、何者かによるシステムエラーによって引き起こされた森林代理戦争によって、一瞬にして沈静化したのである。

 樹木から石油を作る技術が出来上がっているこの現代においては、カナダと日本の広大な領土のブリッジの結果、日本は石油大国になっていた。ドローンによる全自動樹木切断によって安全に石油を採掘できる今日、もはや日本はエネルギー輸出大国になっており、結果としてかつて石油の産出国であった国々は効率的な植樹のためのプログラム言語の開発に追われていた。

 幽霊は言わんとする言語域から短波長の電波を発した。

 おのがじしの運動は徐々に沈静化しつつあります。細微的な存在の周辺部にもまだ活性が見られますが、現在はそれも落ち着きを見せ始めています。米貨幣価値も徐々に下落していくでしょう。

 私は答えた。

 おのがじし、なんて古い言い回し、どこで見つけてきたんだい。

 幽霊は答える。

 あなたの中からです。世界の中からです。永すぎたプログラム言語の結末からです。それはあなたの言語の中に最初からコーディングされていました。あなたの中からやってきて、あなたが最後に消したのです。

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花筏の行方 Wakei Yada(ぽんきち) @yuichiminami

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