エピローグ ― おうちで……
ふれあいパークから二ヶ月ほどが過ぎ、八月となった。
琴吹さんが遊びに来なくなってからしばらくがたつ。
窓から見える青空を、白い飛行機がキーンと音をたてて横切っていく。
彼女は遠くへ行ってしまった。挨拶をする間もなく、突然に。
ため息ばかりが出る。
背後でドアが開いた。弾かれたように振り向く。
そこに立っていたのは、コンビニのレジ袋を手にさげた梨子だった。
「ガリゴリ君買ってきたから恵んであげる」
俺は窓に目をもどす。
「冷凍庫に入れといて」
食べる気がしない。
梨子が呆れたように言う。
「塞ぎこんじゃって、情けない」
「……そんなんじゃない」
「そんな顔をしたってコトは帰ってこないんだよ?」
「……」
梨子はまだなにか言いたそうな顔をしていたが、やがって「はあ」とこれ見よがしにため息をついて行ってしまった。
俺はまたじっと空を見つめる。彼女のいない部屋を見ると余計に寂しくなるから。
――こんな気持ちになるなんてな……。
彼女とした足湯、彼女と飲んだちゃんぽんの汁、彼女の手作り弁当……。思い出が浮かびあがってくるたび胸がつまる。
そのとき、またドアが開いた。
「なんだよ、ガリゴリ君ならいらないぞ」
と、イスを回転させて向き直る。
そこには悪戯っぽい笑みを浮かべた琴吹さんが立っていた。半袖シャツとデニムのショートパンツ、肩にはいつものスポーツバッグをさげている。
「こ、琴吹さん……」
「先輩、ただいま!」
彼女は「あ」となにかを思いついたような顔をして、握りこぶしの親指と小指を立てるハンドサインを俺に向けた。
「アロ~ハ!」
「どこに行ってたか一発で分かる挨拶」
「お土産たくさん買ってきましたよ!」
琴吹さんはスポーツバッグを床に置き、ファスナーを開けて、なかをごそごそやっている。
そんな彼女を俺はじっと見つめていた。会えなかった一週間分をとりもどすように。
琴吹さんは俺の視線に気づき、顔をあげ、小首を傾げる。
俺は慌てて、ごまかすように言った。
「い、いきなりハワイの写真が送られてきたときはびっくりしたよ。挨拶をする間もなく行っちゃうんだもんなあ」
「わたしもびっくりでしたよ。お母さんが急に『スケジュールが空いたからハワイに取材旅行に行きます!』って宣言して」
「でもさ、予定より帰ってくるの早くない?」
「はい、それが……。お母さんの担当編集さんから電話がかかってきまして、
「大変だったな」
「そのときのお母さんの顔は皮肉にも、ワイキキの海のように青ざめていました」
「叙情的に表現されても」
一週間ぶりの『琴吹節』が身体に染み入る。
「それにしても、一週間ハワイに滞在していたわりには焼けてないな」
「まんべんなく焼けているからそう見えるだけですよ。ほら――」
と、琴吹さんは膝立ちになって、ショートパンツのウエスト部分をぐいっとずり下げた。
白い水着あとがくっきりと浮かんでいた。
俺は弾かれたように天井に顔を向けた。
「パンツを! 上げろ!」
「え? でも日焼け――」
「パンツはよくない!」
「はあ」
琴吹さんはよく分からないといった声を出した。
「はい、もどしました」
「まったく……」
俺は視線をもどした。
琴吹さんはシャツの襟ぐりに指を引っかけて広げていた。水着の肩紐のラインが肩から胸元にかけて白く走っているのが見えた。あと、谷間とブラ紐が見えた。
「まったく!」
俺は「ぶん!」と音がするほどの勢いで横を向いた。
「シャツを! もどせ!」
「でも日焼け――」
「日焼け以外にもいろいろ出てるから!」
「はあ」
視線をもどす。琴吹さんは釈然としない顔をしていた。
俺はぐったりと疲れきっていた。
「どうしてそんなに日焼けあとを見せたがる……」
「ハワイに行ったのに日焼けしてないなんて、ハワイに申し訳ないじゃないですか」
「その配慮を俺にもくれ」
琴吹さんは首を傾げた。頭の上にハテナマークが浮かんでいるような表情をしている。
俺は苦笑いをしてしまう。
「まったく。――それより、バッグの中身は?」
「そうでした! まずは定番のこちら」
とりだしたのはマカダミアナッツチョコの箱。ハイビスカスの模様がいかにもハワイっぽい。
「ハワイと言ったらこれだよな。ありがとう」
「いえいえ」
「タコ――」
「入れません」
「早いよ!」
「言うと思ったので事前に」
「検閲……!」
口では文句を言いながら、内心、通じあっているみたいで嬉しかった。
「それではつぎのお土産です。ジャン!」
そう言って琴吹さんは、俺にピンク色のぬいぐるみを差しだした。
ゆるキャラ化したトカゲのような顔、三本の太いとさか。手足が長く、人間のように座った姿勢で角笛のようなものを吹いている。
「ロコペリです」
「ロコペリ?」
初耳の言葉だ。
「元はココペリというネイティブアメリカンの神様で、それがハワイに渡ってロコペリになったそうです」
「ラフカディオ・ハーンが日本に来て小泉八雲になった感じ?」
「そんな感じです」
「まじかよ」
俺はロコペリを受けとった。
「つぎはこちら!」
そう言って俺の目の前に突きだしたのは人形だった。二センチくらいの木の実に穴を開け、麻紐のようなもので三つつなげて人の形にしてある。二体が対になっていて、片方は、裂いた麻紐のスカートを穿かせているので、それぞれ男女を模していることが分かる。
「ボージョボー人形です」
「ボージョボー?」
これも初耳の単語である。
「正確にはサイパンの民芸品なんですけど、なんかハワイにも売ってました」
「大らかだな」
俺は人形を受けとった。
「ところでこれ、なんでからまってるの?」
男女の手足が結ばれている。
ほどこうとした俺を、琴吹さんは慌てて止めた。
「そ、それはそういうものなので! そのままに!」
なにか伝承でもあるのだろうか。まあ琴吹さんがそういうならこのままにしておこう。
「では最後に」
と、両手のひらに載せて厳かな動作で差しだしたのは――。
「お札です」
「お札」
木札に『出雲大社 守護』と墨書きされている。
「……ハワイ?」
「ハワイの出雲大社でございます」
「あるんだ」
「ございます」
お札を持ってるからって丁寧語にならんでも。
「ありがとう……ございます」
しかし俺も琴吹さんにつられて丁寧語で礼を言い、両手で受けとった。神仏に関わるものをなおざりにはできない。意識したことはなかったが、自分も根っこは日本人なんだなあと感じる。
俺は四つのお土産をクッションの上に並べた。
胸がじぃんとする。
――めちゃくちゃ嬉しいな……。
誰かからお土産をもらってこんなに嬉しかったことって今まであったろうか。正直、ボージョボー人形なんて若干オカルト系の臭いがするし、これをもし親父が買ってきたら突っ返すところだ。しかし琴吹さんのお土産なら、ベッドのヘッドボードにでも飾っておこうかなんて思える。
つまりそれって、やっぱり、好きってことで。
旅行に行った彼女とほんの数日会えなくなっただけで気分が塞ぎこんだのも、そう。
急に連絡がとれなくなって、浮かんできたのは不安や焦燥、寂寥などではなく、『もっとああすればよかった』、『こう言えばよかった』という後悔に近い思いだった。
いずれ帰ってくることが分かっている旅行ですらこうなのだ。ある日、ふっと彼女が姿を消したら、多分俺は正気ではいられなくなってしまう。
それに、琴吹さんは俺のためにいろいろと心を砕いてくれた。勇気を出して、俺のもとへやって来てくれた。
なら、俺も勇気で応えないと。
「気に入ってくれました?」
黙りこんだ俺を、琴吹さんは不安そうな顔で覗きこむ。
「あ、ああ、全部好きだよ。でも一番好きなのは――」
「あ、待ってください! 当てます」
くちびるに人差し指を当てて、「ん~」と考える。
そして端っこの箱を指さした。
「マカダミア!」
「はずれ」
多分、琴吹さんは当てられない。
「じゃあ、ロコペリ? 意外とかわいいもの好きとか」
「かわいいのは好きだけど、はずれ」
かわいいのはロコペリじゃない。
「じゃあ、ボージョボー人形ですか? これならストラップにして肌身離さず持ち歩けますし」
「それも違う」
いつも一緒にいたいのはボージョボー人形じゃない。
「ええ? じゃあもうお札しか残ってないじゃないですか。信心深いんですね」
「お札でもないんだ」
信じているのは神様じゃない。
琴吹さんは肩をすくめた。
「もう残ってないじゃないですか」
「まだ残ってるだろ」
「? なにがですか?」
心臓が暴れる。息が荒くなる。
俺は震える腕を持ちあげて、まっすぐ指さした。
琴吹さんを。
琴吹さんは首を傾げる。そして背後を見た。しかし後ろにあるのはドアだけだ。
顔が正面にもどる。
「なるほど、リリちゃんですか」
「……うん?」
琴吹さんは呆れたように笑う。
「たしかにリリちゃんはかわいいからなあ。ロコペリさんでも敵わないかも」
「え? あの――」
「でも、そんなにリリちゃんにべったりだと、彼氏を連れてきたりしたら大変そう。『うちの妹はやらん!』とか言って」
と、ころころ笑う。
「いや、ちが――」
「なんですか? 違うんですか?」
疑問顔で、じっと見つめてくる。
俺は目をそらした。
「い、いや、違わない、けど……」
「ですよね。リリちゃん愛されてるなあ」
――このド鈍感……!
愛されてるのはお前だ!
などと言う勇気はすでにない。心が折れてしまった。
「さあ、わたしそろそろ帰りますね」
琴吹さんはスポーツバッグを肩にかけ、せかせかと戸口へ向かう。
俺はそんな彼女を呼び止めた。
「大丈夫?」
「え!? なにがですか?」
すっとんきょうな声を出して振り向く。
「顔、赤いけど」
「そ、そうですか? わたし、そんな、全然……」
「帰りにドラッグストアに寄ったほうがいい」
「……え?」
「日焼けすると炎症を起こすタイプなんだな、琴吹さんって」
彼女はしばしぽかんとしたあと、
「そ、そうなんですよ。ヒリヒリしちゃって大変で」
と作り笑いをして、また逃げるように部屋を出ようとする。
「琴吹さん!」
ドアノブに手を伸ばした彼女の背中に、俺はまた声をかけた。
「また、来てくれるよな……?」
琴吹さんは立ち止まって振りかえり、やわらかく微笑んだ。
「もちろんです」
もう琴吹さんが俺に会いに来る理由はない。でもその笑顔を見たとき、彼女はまたきっと遊びに来てくれると思えた。なにせ俺は彼女を神様より信じているから。
俺たちはこれからもそんなふうに、煮えきらない想いを抱えたまま、なんとなく会って、なんとなく遊んでを繰りかえしていくのだろう。
いまはその焦れったい幸福を噛みしめていたい。
でも、いつかは……、なんて考える。
「じゃあ、先輩。明日もわたしと楽しいことしましょう」
明日も、多分これからもずっと、妹の友だちがなぜか俺の部屋に遊びに来ます。
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