第十八話 アナザーサイド―姉小路さんは甘えられたい2
授業の合間の休憩時間や昼休みを、わたしは彼女の調査に割いた。
生徒名簿を閲覧し、彼女が『コト』と呼ばれていたのは、名前が『琴吹』だからということが分かった。ぴったりの名前だと思う。かわいいらしい音の響きも、字面も。
一年の階に二年のわたしが赴くとそれなりに目立つので、主な調査は昼休みとなった。
外のベンチでお弁当を食べる琴吹さん、友達と談笑する琴吹さん、教師と言葉を交わす琴吹さん、男子に話しかけられ受け答えする琴吹さん――。
写真に撮りたいという欲に襲われたが、校内での撮影は禁止されている。一般の生徒ならまだしも、会長であるわたしが禁を破るなんてことしてはならない。
五時間目の予鈴が鳴る。わたしは階段を上りながら、調査結果を脳内でまとめた。
琴吹さんはとても真面目で礼儀正しい。誰にでも丁寧に応対する。
ただ、注意深く観察していると、同じ丁寧でも距離感があることに気がついた。
気安い感じで話しかけてくる男子とは二メートル。
教師とは一・五メートル。
仲のよい女子とは一メートル。
梨子さんとはゼロ距離。
そして距離が近づけば近づくほど、琴吹さんはよく笑う。とてもかわいい笑顔。とくに口元がチャーミングだ。
つまり、物理的な距離と心理的な距離に強い相関関係が読みとれるのだ。
今朝、わたしが声をかけたときの距離は約一・五メートル。教師レベルである。笑顔も見せてくれなかった。
――ゼロ距離とは言わない、せめて一メートルに……。
琴吹さんの愛くるしさを間近で感じたい。
わたしは六時間目の授業が終わるまで、どうすれば彼女とお近づきになれるかばかり考えた。
得られた結論は、『地道にコミュニケーションを積み重ねる』。人間関係に近道などない。
放課になり、わたしは玄関へ向かった。琴吹さんがやってくるのを待ち、言葉を交わそうと考えた。
毎日少しずつコミュニケーションを繰りかえして、心理的な距離を――どちらかというと物理的な距離を――近づけたい。
――そのうち一緒に下校するようになって、おうちにお呼ばれしちゃったりして……!
にやにやしそうになる顔をなんとか抑えながら玄関に行く。
「!?」
わたしはとっさに柱の陰に身を隠した。なんとすでに琴吹さんが玄関にいたのである。
彼女は下駄箱にもたれ、ときおりちらちらと階段のほうを確認している。
――梨子さんを待ってるの……?
でも一緒のクラスなのに、どうして琴吹さんだけ先に?
いずれにしろ、いまが話しかけるチャンスだ。わたしは柱の陰から出ようとした。
まさにそのとき。
階段のほうを見た琴吹さんが、慌てたように下駄箱の陰に隠れた。
梨子さんが来たのだろうか。それにしては様子がおかしい。
わたしは階段のほうを見る。
やってきたのは赤羽利くんだった。どこか痛めたのか、ぎこちない動作で、ときおり表情を歪めながら階段を下りてくる。
わたしは下駄箱のほうに目をもどした。
琴吹さんはスマホのカメラで自分を映し、前髪をいじったり、タイの位置を直したりしている。
そしてスマホをバッグに仕舞い、胸に手を当てて大きく深呼吸すると、小さな声で、
「よし……!」
と、気合を入れて、下駄箱の陰から駆けだした。
「先輩! 偶然ですね!」
赤羽利くんはあからさまにびっくりした様子だ。
「こ、琴吹さん?」
「よかったら一緒に帰りませんか?」
「そりゃ構わないけど……、梨子は?」
「化学の先生に用事を頼まれたとかで、ちょっと遅くなるみたいです。それよりも――」
えい! と琴吹さんは赤羽利くんのバッグを奪った。
「先輩、筋肉痛ですよね? わたしがバッグを持ってあげます」
「いや、バッグを持てないほどじゃ」
「肩も貸しましょうか?」
と、赤羽利くんにぴったり身を寄せる。彼の顔が急激に赤くなった。
「ま、まずいって。こんなところ誰かに見られたら……!」
「ええ、なんでですか? 介助してるだけなのに?」
「介助って……」
「冗談です」
口元を手で覆い、「くふふ」と笑う琴吹さん。
「さ、帰りましょう!」
「今日はもうバッグになにか入ってるの?」
「はい! たいした大きさじゃないので入れてきました。中身は……まだ秘密です」
「また物が増えるのか……」
赤羽利くんは苦笑いしたけど、満更でもなさそう。
ふたりは並んで下校していった。
一方わたしは、柱の陰でうずくまり、顔を手で覆ってぷるぷる震えていた。いや、もう、腰が砕けて動けないと言ったほうが正確だろう。むしろわたしのほうが介助してほしいくらいだ。
胸がきゅんきゅんきゅんきゅんして止まらない。
――無理。
わたしなんかじゃ、琴吹さんのあんな素敵な表情を引きだすことなんてできない。
いや、多分、いま世界中で彼女のあの表情を引きだせるのは赤羽利くんだけなんだろう。
なら、わたしにできることはただひとつ。
ふたりの邪魔をしないこと。
彼らは彼らの居場所を見つけたんだ。彼らが気持ちを育む時間を奪ってはならない。
そろそろ下校する生徒たちが増えてくる。いつまでもこうしてはいられない。
わたしは膝に力を入れて立ちあがると、転ばないよう慎重に階段を上った。
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