第十話 おうちでキャンプ1

 午前七時十五分。いつもの起床時刻に目が覚めた俺は、階段を降りてキッチンへ向かった。


 梨子がパジャマ姿で、マグカップに牛乳を注いでいる。


「おはよう」

「おはよう」


 挨拶を交わし、梨子はペットボトルのミネラルウォーターを、


「ん」


 とだけ言って差しだした。俺は礼を言って受けとり、喉を潤しながら自分の部屋へもどって、勉強机についた。そして三十分間、数学の問題集を解く。


 毎朝こなしてきたルーティーンだ。しかし最近は問題集を開いたところで止まってしまう。機械的に手を動かすこともできない。


 はかどらない理由はもう分かっている。


 それは不安だ。熟睡できなかった原因と同じ。


 睡眠時に自然と浮かんでくる不安は『泡のぼこぼこ』でマスキングすることができた。でも勉強時はそれができない。泡のぼこぼこをイメージしながら数式は解けない。


 だからここ最近は、三十分間、問題集をにらみつけるだけ。机につくのは、もはや意地だった。


 スマホのタイマーが鳴る。三十分が経過したらしい。

 俺は嘆息して、登校の身支度をはじめた。





「先輩、わたしと楽しいことしましょう!」


 放課後、琴吹さんがやってきた。お決まりのスポーツバッグを右肩に、左肩には直径一メートルくらいの円盤状のバッグみたいなものをさげている。


「今日はまた大がかりだな」

「次回はもっと大がかりになります」

「予告!?」


 いったいなにを持ってこようとしているのか気にはなったが、ひとまず次回よりも今回である。


「それは?」


 円盤状のバッグのようなものを指さした。色はライムグリーンで、厚さは二、三センチくらいだ。


「これはですね~」


 琴吹さんは円周のファスナーを開けて中身をとりだす。


「ポップアップテントです!」


 フリスビーみたいに放り投げると「パン!」と乾いた音がして一気に広がり、丸みを帯びた四角錐のテントに変貌した。


「おお、便利」

「ふふん」


 なぜ琴吹さんが得意顔をしているかはよく分からないが。


「これでなにをするんだ?」

「これはですね」


 琴吹さんは姿勢を低くしてテントに入り、三角座りをした。

 そして「ふぅ~」と長い息をついたあと、俺を見た。


「こうです」

「え、なに? いまなんかしたの?」

「したじゃないですか。もう一回やりますから、ちゃんと見ててください」


 琴吹さんは目をつむり、自分の膝を枕にして頬を載せ、「ふぅ~」とまた吐息をした。

 そして俺を見る。


「ね?」

「え? いや、ごめん。分からん」

「答えは『テントに入って、落ち着いた』でした~」

「テントに入って、落ち着いた……」


 俺はしばらくぽかんとした。


「それってつまりなにもしてないのでは?」

「なにもしてないを、しているんです」

「なにその観光地の宣伝みたいなの」

「でもまだ完璧じゃありません」


 琴吹さんはスポーツバッグから茶筒みたいな形をしたナイロン製のバッグと、足踏み式の空気入れをとりだした。


「エアーマットです。さ、先輩」


 と、俺に差しだす。空気を入れろということらしい。

 勢いに押されて受けとり、大人しく空気を入れる俺。


 ――また知らんうちに参加させられてる……。


 シュコシュコとエアーマットに空気を入れる。実はこういう地味な作業は嫌いではない。エアーマットはみるみるふくらんでいく。

 琴吹さんは「おお」と感嘆の声をあげた。


「さすが先輩、早いですね!」

「そうかな」

「歴は長いんですか?」

「これに歴とかあるの?」


 それとも俺が知らないだけで『エアーマットに足踏み空気入れでいかに早く空気を入れるかを競う競技会』があるのだろうか。


 ぱんぱんにふくらんだエアーマットをテントのなかに敷き、スポーツバッグからタブレットをとりだすと、琴吹さんはつぎにカーテンを閉めた。


 部屋が暗くなる。遮光性の高いカーテンだからなおさらだ。


「え、なんでカーテンを」

「こうしないと雰囲気が出ないじゃないですか」

「雰囲気って……」


 ――なんの雰囲気……?


 琴吹さんはエアーマットに座り、かたわらを手でさするように示した。


「先輩、こっちに来てください」


 俺に微笑みかける琴吹さん。タブレットのぼんやりとした光に照らされて、濡れたような瞳がさらに艶っぽい光沢を帯びる。


 ――なんの雰囲気……!?


 俺の鼓動は早くなる。


 琴吹さんはスタンドにタブレットを立てかけると、iTubeアイチューブのアプリを起動して、リストから動画を再生させた。


『パチパチ』とか『パン』といった爆ぜるような音。画面に映っているのは三角に組みあわさった薪と、赤々した炎。


 たき火の動画だった。


「さ、早く早く。一緒にたき火を見ましょう」

「琴吹さんさ……」


 その思わせぶりな言動はわざと? と口から出そうになった。


 琴吹さんは小首を傾げ、俺を見ている。たき火の明かりで浮かびあがった彼女の顔には、色っぽさどころか、年齢よりも少し幼い無邪気さが見てとれた。


 ――なわけないか。


 計算でからかうなら訳の分からないグッズを持ちこむ意味はない。それどころかマイナスにしかならない。


 俺は琴吹さんの隣に腰を下ろした。

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