第九話 おうちで足湯2
琴吹さんは小首を傾げるようにして目をつむり、うっとりとしている。頬や首筋がほんのり色づいて、妙に艶っぽい。
対して俺はまったくリラックスできていなかった。
――間がもたない……。
この十五分、まったく会話がなかった。共通の話題になりそうな梨子のことは、序盤で早々に話し終えてしまった。それも琴吹さんは「そうですねえ」とか「なるほどお」などと生返事で、ほとんど盛りあがらず。
ぼこぼこと泡の音だけが部屋を満たしている。
「さあ、そろそろ左右を入れかえましょうか」
琴吹さんが声をあげてくれて、俺はなんだかほっとした。
持参したバスタオルで足を拭いた彼女は嬉しそうに言う。
「先輩、見てください! 足が真っ赤っか! ほかほかヘルシーですよ!」
自分のふとももを抱えるようにして足の裏を見せてくる。俺は顔をそむけた。
「うん、分かった。分かったから、足を下ろそうな?」
「ええ? ちゃんと見ました?」
「見た見た。すごい赤さ」
「ふふ~ん」
と、得意げな顔になる琴吹さん。
「スポーツ少女だったので新陳代謝が活発なんですよ」
彼女はベッドを下りると、まるで靴磨きの職人みたいに俺の前にひざまずいた。
「……なに?」
「拭きますから、足を上げてください」
「いやいや! 自分で拭くから」
「まあまあ、遠慮せずに」
と、膝の裏に手を入れて、強引に持ちあげた。そしてバスタオルでぽんぽんと優しく叩くようにして水気をとる。俺は恥ずかしいやら申し訳ないやらで、顔をうつむけるほかなかった。
左右を入れかえて座り、再び無言の足湯タイムがはじまった。
俺は耐えきれなくなって、琴吹さんに言った。
「よく我慢できるな」
「なにがです?」
「沈黙」
琴吹さんは首を傾げる。
「なにか話さないとって、焦ったりしない?」
「お笑い芸人さんじゃないんですから、無理に話す必要はありませんよ」
「でも、いたたまれない気持ちになったりとか」
「足湯に入っているときは、足湯を楽しむことだけ考えればいいんです」
「自然と不安な気持ちが浮かんでくるんだよ」
「泡の音に耳を傾けるんです。ぼこぼこ、ぼこぼこ。――ね?」
琴吹さんは俺の顔を覗きこむようにして微笑んだ。
――ぼこぼこ、か。
俺は足湯器に目を落とす。
琴吹さんは言葉をつづけた。
「それに、言ったじゃないですか。『わたしは先輩と一緒にいるだけで楽しい』って」
「……」
――……言ったっけ?
『先輩はそのままでも充分楽しい』ではなかったろうか。でも琴吹さんは自分の言い間違いには気づいていない様子だった。
そのとき「はっ……!」と息を呑む音が聞こえた。
言い間違いに気づいたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。額やうなじを手でこすったり、シャツの胸元を引っぱって鼻を差しこんだりしている。
「どうした?」
「はひ!?」
ぴょんと弾んで俺との距離が開く。足湯のお湯が跳ねて床を点々と濡らした。
「ご、ごめんなさい!」
琴吹さんは自分の足をバスタオルで拭い、床の水滴を拭きとる。
「なに慌ててるんだ?」
「い、いえ、気づいてないならいいんです」
「汗の匂いが気になったの?」
「気づいてるじゃないですか!?」
ほとんど泣きそうな顔になっている。
気づいてるというか、さっきの仕草で気づかされたというか。こういうところも琴吹さんは天然だ。
それに、慌てるほどじゃないというか、むしろ――。
俺は先ほどまで琴吹さんがいた空間を嗅いだ。
「ち、ちょ! やめてください……!」
琴吹さんは懇願のような声を出す。
「べつに気にすることないって」
「そんなにくんくんされたら気にしますよ!」
「だからそうじゃなくて、いい匂いだって」
きょとんとする琴吹さん。
「いい、匂い……?」
「なんか、甘いような、ライチっぽい……香気、っていうのかな。制汗剤使ってるんでしょ?」
「使ってません。というか、使ってないから慌てたんですけど……」
「じゃあこれ素の匂いなの? マジで?」
人間ってこんな匂いを発するものなのかと本気で感心する。
匂いを嗅ぐ俺をじっと見ていた琴吹さんは、おずおずと尋ねる。
「ほんとにいい匂いだと思いますか?」
「ああ。ほんとに」
「じ、じゃあ、わたしの匂い……、す、好き、ですか……?」
「好きだけど」
琴吹さんは両手で口を覆ってうめき声をあげた。目は潤み、顔は、足湯に浸かっていたときよりも赤く上気している。
「いまのもう一回言ってもらっていいですか?」
「いまの?」
「好きか嫌いか」
「好きだけど?」
膝立ちをしていた琴吹さんは、器用に足をばたばたさせた。
彼女は急に立ちあがり、バッグを肩にかけ、戸口へ歩いていく。その間も口は片手で隠したままだ。
「きょ、今日はもう表情がもどらないので帰りますっ」
「え、なにその帰宅理由」
「また楽しいことしましょうね、先輩」
言い残して、琴吹さんは部屋をあとにした。
べつにいやな匂いじゃないって言ったのに、お年頃の女の子は気にしてしまうものなのだろうか。
――俺が臭かったわけじゃないよな?
自分の脇の下を嗅いでみたが、とくに匂いはしない。そもそも汗をほとんどかいていなかった。
――どんだけ新陳代謝悪いんだよ、俺。
知らぬ間にゾンビに噛まれてしまったのかもしれない。
◇
その日の夜、というか翌日の未明。あまりはかどらない勉強を切りあげて、俺はベッドに潜りこんだ。
目をつむると、例の不安や焦燥が涌きあがってきて眠りを邪魔してくる。
今日も寝不足か、とため息をつく。
そのとき、ベッドサイドに置いた足湯器が目に入り、琴吹さんとの会話が頭のなかで再生された。
『足湯に入っているときは、足湯を楽しむことだけ考えればいいんです』
『自然と不安な気持ちが浮かんでくるんだよ』
『泡の音に耳を傾けるんです。ぼこぼこ、ぼこぼこ。――ね?』
――ぼこぼこ、か。
ぼこぼこ。
ぼこぼこ。
ぼこぼこ。
ぼこぼこ――。
ふと気がつくと、部屋が明るくなっていった。
身体を起こし、スマホの時計を確認する。
七時十五分。いつもの起床時刻。
同じ時間にベッドに入り、同じ時間に起きたのに、昨日とは打って変わって目も頭も冴えている。
――めちゃめちゃ熟睡した……。
ベッドから下りる。なんだか身体も軽い気がする。
俺はカーテンを開け、朝日を身体に浴びた。
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