第八話 おうちで足湯1

「先輩、わたしと楽しいことしましょう!」


 琴吹さんはいつもどおりスポーツバッグを肩にさげていた。今日は一段と重いらしく、ずり落ちないようベルトを両手で持ち、身体を傾けながら俺の部屋に入ってきた。


「大変そうだな」

「はい、今日は――って、どうしたんですかその顔!?」

「なんか変か?」

「クマがやばいですよ」


 俺は下まぶたに触れた。


「クマやば?」

「略す意味は分かりませんが、はい」


 いつか梨子としたのと同じやりとり。しかし今回は、前のように「ちゃんと寝てるんだけどな」とは言えなかった。


 眠れていないのだ。睡眠に割く時間は四時間にもどした。しかし布団に潜ると、学校での孤独感や勉強がうまくいっていないことがぐるぐると頭のなかを巡り、なかなか寝つけない。どうにか入眠しても眠り自体が浅く、ちっとも疲れがとれない。


「ちょっと寝不足で」

「ちょっとの濃さじゃないです。ラベンダーみたいな色ですよ。なんかやつれてますし」


 琴吹さんはバッグを床に置いた。


「そんな先輩にちょうどいいものを持ってきました」


 バッグからよっこらしょととりだしたのは、たらいのような形をした機械だった。


「なに、これ」

「足湯器です。保温、バブル機能搭載!」


 たしかに底のほうが足の形状にくぼんでいる。


「バケツをお借りしてもいいですか?」

「いいけど」


 俺は納戸からバケツを探しだし、風呂場でお湯を汲んだ。そして階段の途中で待ち構えていた琴吹さんにバケツを渡す。いわゆるバケツリレーだ。


「さすが先輩、仕事が早い! バケツリレー界の貴公子ですね!」


 貴公子はバケツリレーなんてしないんじゃないかと思ったが、ともかく褒められて気分はいい。俺は急ぐ必要もないのにちょっと小走りになって、彼女へバケツを運ぶ。


 三回の往復で足湯器はお湯で満たされた。コンセントをプラグに差しこんでスイッチを入れると足湯器は、ウーン、と小さなうなり声をあげた。


 琴吹さんはバッグからなにかを取りだした。

 それは個包装の入浴剤だった。五つの入浴剤を扇みたいに広げて俺に見せる。


「どれにしますか?」


 ふだんシャワーで済ませてしまう俺は入浴剤に興味を持ったことがなく、どれも似たようなものだと思っていた。

 しかし。


「岩塩の入浴剤なんてあるのか。こっちはミルク? へえ」


 琴吹さんが持ってきた五つの入浴剤はバラエティに富んでいて興味をそそられた。


 しかしあまり突飛なものを選んで失敗したくないと考え、無難なものをチョイスする。


 選びとったのは紫色の袋。


「ラベンダー……」


 琴吹さんは口元を隠して「ぶっ」と吹きだした。


「自虐ネタですか?」

「濡れ衣ですけど!?」

「わたしのために自分を犠牲にしなくてもいいんですよ? 先輩はそのままで充分楽しいですから」


 ――濡れ衣だって言ってるのに。


 なんでちょっと慰められてるんだろう。


 ――というか「そのままで充分楽しい」ってかえって傷つくんですけど……。


 笑いをとるつもりもないのに楽しいって、それ天然だろ。俺ってそんな痛い感じなの?


 ヘコむ俺をよそに、琴吹さんは鼻歌を歌いながらお湯にラベンダーの入浴剤を混ぜていた。





『こういうのはあまりよくないのでは』


 足湯器は当然ひとり用なので、俺と琴吹さんで片足ずつシェアすることになった。


 しかし、ふたり並んで座れる場所がベッドしかない。

 琴吹さんはさっさとベッドに腰かけ、隣をぽんぽんと手で叩いた。


「さあ、来てください」


 そこで先ほどの俺のセリフというわけである。


「なにがですか?」


 なにを言っているのか本気で分からないといった顔だ。


「だから……」


 若い男女がベッドに並んで座るなんて、もし間違いが起こったらどうするんだ、ということなのだが、琴吹さんは首を傾げるばかり。分からないふりをしている様子もない。


 ――俺、間違ってないよな!?


 彼女のリアクションを見ていると自信がなくなってくる。さっきは俺が天然呼ばわりされたが、琴吹さんのほうがよっぽど天然ではないだろうか。


 いずれにしろ、正論を吐いているくせに内心はいやらしい妄想でいっぱいの俺のほうが不純な気がする。


 そんな気持ちを悟られたくなくて、俺はなんでもないふうを装い、琴吹さんの隣に腰を下ろした。


「なんでそんなに離れてるんですか。もうちょっとこっちに来てください」


 琴吹さんは腕をからめ、ぐいっと引っぱった。腕に柔らかな感触。


「ちょっと!」


 俺は思わず裏声で叫んだ。


「そういうのはまだ早いっ」

「?」


 琴吹さんはいったん腕を離し、今度はゆっくりとした動作で腕をからめてきた。


「そういう速いじゃねえよっ」

「はあ」


 ぽかんとしている。

 まただ。仕掛けてきたのは琴吹さんのほうなのに、俺のほうだけが不純みたいになっている。


「と、とにかく、もうちょっと近くに座ればいいんだろ?」


 俺はくっつくかくっつかないかの位置に尻をずらした。


「はい、じゃあ、足を入れましょう」


 そういって彼女は身を屈め、俺のスウェットをするするとふとももの半ばまでたくしあげた。くすぐったくてぞわぞわする。


 ――リアクションしない、リアクションしない……。


 つぎに琴吹さんは、自分のスカートをたくしあげて股にはさむように固定した。そしてほとんどつけ根まで露わになった右脚を持ちあげて、つま先からお湯に沈めていく。


「ふう……」


 気持ちよさそうなため息を漏らす琴吹さん。


 ――り、リアクションしない……!


 健康的な脚も見てないし、切なげな吐息も聞こえない。

 俺は腕を組んで、ぎゅっと目をつむる。


「あれ? 先輩。顔が真っ赤じゃないですか。もう効果が出たんですか?」


 琴吹さんは視線を下ろした。


「まだ足、入れてないのに」


 俺は慌ててお湯に足を沈めた。


「わあ、あったまるぅ」

「やっぱり先輩は楽しいですね」


 琴吹さんは口元を押さえてくつくつ笑った。

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