2話 散歩と会敵
進捗の報告は、会社内の連絡ツールにURLを張り付けるだけの簡単な作業だ。ずさんな人ならばそれを投げるだけで終わりにするが、一般的にはその前か後に一言添えるのがよしとされている。
張り付けたURLの後にあたりさわりのない言葉を羅列し、私は再度ノートパソコンの電源を落とす。これで、午前中にすべき仕事は、全部終わってしまった。時計を見れば、時刻はまだ十時前を示している。早く目覚めすぎた弊害だ。
やることもなくなった私は、ジーンズにシャツというやる気も飾り気もない服装に着替え、バックをつかんで玄関に向かう。散歩……もとい、副業でもしようと思ったのだ。
外に出る前に、少しだけ立ち止まり、服の下に隠れた首飾りに手を伸ばす。
黒くて細い革の紐。その紐で出来た首飾りに通されたのは、金色の真鍮製の小さな指輪。シンプルなデザインのそれには、四葉のクローバーの飾りがついている。
私は、その指輪に触ろうとして……そして、やめた。
意志も、力も、精神も、何もかにも弱い私が、強い彼女の遺品に触れるべきではない。触っては、いけない。
目をきつく閉じ、唐突に襲ってきた偏頭痛をこらえる。
落ち着け。思い出すな。受け入れろ。
どれだけ私がそう考えても、脳は愚直なほどに素直だ。焼き付いた、十数年前のあの記憶がよみがえりかける。
止めろ。よみがえるな。死んだまま、脳の端っこでずっと居残っていてくれ。前に、出てこないで。
強烈な頭痛をこらえ、胃から逆流しそうな朝食を飲み下す。手のひらをつめの痕が付きそうなほどにきつく、きつく握りしめることで、ようやくその苦痛から逃れる。
家に引きこもりたい気持ちが胸の中に広がるが、一日に一回くらいは太陽を浴びなければ。体と心はリンクするものだ。これ以上体を弱めてはいけない。
私は玄関のドアノブを握り、押す。そして、ドアの隙間から流れ込んでくる湿り気のある熱を、体全身で受け止める。
やかましい蝉の声と電車の音が鼓膜を揺らし、いっそ嫌がらせのように澄み渡った青空が私を迎えた。少ない荷物を持ち合わせた私は、扉にカギをしめてから、あてもなく夏の町へと出て行った。
夏休み前の平日の昼前ということもあり、外にはほとんど人がいなかった。近所の小学生はまだ教室で授業を受けていることだろう。居ても騒がしいだけなのだが。革製のバッグを片手に、私は近所の公園に向かう。特にやることもなかったからだ。
だが、到着した公園で時間を潰すことは叶わなかった。保育園か幼稚園(もしくは、小学生低学年)の遊び場と化していたためだ。いくら公園が公衆のものであるとはいえ、平日の昼間にいい大人がたった一人で公園に居座れば、警察に通報されたところで文句は言えない。
私はあきらめて買い物へ向かう。確か、洗濯洗剤がそろそろ切れてしまうはずだ。入ることすらできない己の年齢を恨むべきか、運の悪さを呪うべきかを迷いながら歩く。
公園から完全に背を向け、歩き出した、その時。
「きゃあああああああああ?!」
女性のものと思われる、甲高い悲鳴が背後から聞こえてきた。
反射的に振り返れば、そこには、子供たちをかばう女性の姿。おそらく、彼女は幼稚園か何かの先生なのだろう。
彼女が必死になって子供たちを守る理由。それは、不審者が出たわけではない。包丁を振り回すイカレた犯罪者が出てきたせいでもない。
黒く、どろどろとした粘液の付着した、そびえたつ体躯。かろうじて二足歩行で歩くその異形は、形容するならば黒い化け物である。
ねばねばな粘液で覆われた体は全長3メートル近い体躯で、崩壊しかけたグズグズな人型。腕には鋭いカギ爪をもち、全身を筋肉にも似た構造が覆っている。頭には目も鼻もなく、口だけがぬらぬらと真っ赤に広がり、のこぎりの刃のような鋭く、ギザギザな歯がびっしりと生えていた。
脊髄がぞくりと震える。
あれは、あれが、ヴィランだ。
「……近くに、ヒーロー事務所があるから、戦わなくても平気そうね。」
一応は一般人である私は、避難と人命救助を優先する。ヒーローたちが戦うのに、観衆は邪魔になるだけだ。
私は、公園とその周囲にいる人々に大声で呼びかける。
「ヴィランが出ました! 今すぐ逃げてください!」
足がすくんで転んでしまった小さな女の子を担ぎ、そのほかの大人や子供たちを誘導して、私は全力で公園から離れる。前に足を踏み出すたびに、胸元の革ひもを通った冷たい金属の輪が体にぶつかる。
声を出して誘導し、身振り手振りで周囲に危険を伝える。本職のヒーローや警察官は、現場にいなければどうしても初動が遅れる。そこを補えるのは、その場にいた一般市民だけなのだ。
十分離れたところで、担いでいた少女をほかの職員らしき女性に預け、ヴィランが現れた現場の方へ走る。……ヴィランが現れたところには、基本的に近づかないほうがいい。命の危険があるからだ。
だが、私は副業がある。その副業をするためには、どうあがいてもヴィランがいるところに向かう必要がある。
公園が見えるところまで近づいたところで、あの半分液体のようなヴィランが何かと交戦していることに気が付いた。生身をヴィランに襲われるわけにもいかないため、路地に隠れてから様子を見てみれば、そこには四人のカラフルなドレスを着た、中学生程度の少女たちがいた。
いや、カラフルなドレス、という言葉では語弊がある。
一人目は、パッションピンクのふわふわな髪の毛の少女。桜らしき植物をモチーフにした、過剰装飾ともとれるフリフリなレースを全身にあしらったドレスを着ており、手にはこれまた桜の花がモチーフの一メートル弱の謎素材の杖が握られている。
二人目は、パステルな水色のボブカットの少女。大人っぽい雰囲気(中学生にしては、という意味だ)の彼女は、ツユクサらしき植物がモチーフの、これまた過剰装飾な着物のようなドレスをまとっている。どうやら彼女は、ツユクサがモチーフの和弓を持っているらしい。
三人目は、目が覚めるような黄色の髪の毛をみつあみにした少女。元気いっぱいそうな彼女は、向日葵がモチーフのアラビアンな踊り子風のドレスをまとっている。これも、過剰装飾なことには変わりがない。彼女は向日葵がモチーフのサーベルのようなものを握っている。
四人目は、燃えるような赤色の髪の毛をベリーショートにした少女。運動が得意そうな彼女は、バラがモチーフらしいチャイナ服を着ている。当然のように、これまた過剰装飾だ。彼女の武器は、バラがモチーフの大きな槍だった。
「……植物がモチーフなのはわかるけれども、もう少し露出の少ない格好をすればいいのに。」
私はおばさん心で思わずそう呟く。そんな私の存在を知らず、彼女たちは律義に自己紹介を始めだす。
「友情の姫、プリンセスチェリーブロッサム!」
「知性の姫、プリンセスデイフラワー!」
「元気の姫、プリンセスサンフラワー!」
「愛情の姫、プリンセスローズ!」
「「「「四人合わせて、魔法少女プリンセス!」」」」
「一人だけ名前長いわね。バランス悪くない?」
思わずそう突っ込んでしまったが、気にしてはいけないのだろう。あと、スマホで調べてみたところ、『デイフラワー』とは、ツユクサのことだった。わかりにくいな。
……こんなことをしている暇じゃあない。私は、首元に揺れていた金色の指輪に手を伸ばしかけ……そして、甲高い声を聴いて、その手を止めた。
「気を付けるフワ! あいつの体は、溶解液でできて居るフワ!」
あの声は……
よみがえる偏頭痛に、私は思わずこめかみに親指を押し付ける。
落ち着け。思い出すな。だめだ。だめだ。
「てやぁああああああ!」
愛らしい少女の声をBGMに、私は思わず口を押えてその場にうずくまる。
あの、裏切り者の声だ。あの、クソ使い魔の声だ。
ピンク色の毛玉のような生物。イラつく語尾。冗談みたいに高い声のその怒りしかわかないあの存在。
「フワリィ! プリンセスロッドに力を!」
「了解だフワ!」
私の親友を見殺しにした、張本人。フワリィだ。
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