1話 おはよう。

 顔に直接降り注ぐ日光で目覚めた私は、体に巻き付くように絡まった薄いタオルケットを体から剥ぎ取る。じっとりと汗で湿気ったタオルケットが、気持ち悪かった。


 外からは騒音と表現しても良いような蝉の大合唱に、排気ガスをまき散らしながら走り去る自動車の群れ。ついでに、人でいっぱいになった電車が家の裏を通り抜けていった。


 頭痛を訴える頭に手を当ててみれば、大量の汗がこれ見よがしに手のひらにへばりついた。これが暑さによる生理現象か、冷や汗なのか、私にはわからない。だが、これだけは言える。


 不愉快なほどに、夏らしい夏だ。


「ああ、嫌な夢を見た。」


 じりじりと脳を痛めつける偏頭痛をこらえ、私は狭いベッドから起き上がる。すがすがしい朝というには暑すぎるし、早すぎる。

 部屋の壁に掛けた灰色のデジタル時計が、今が午前5時であることを教える。ああ。早く起きすぎた。でも、薬を飲んで眠るには、不健全な時間だ。


 サイドテーブルに転がった蓋の閉まった薬瓶をつかみ、私は立ち上がる。急に立ち上がったせいで、頭から血が引くような感触が広がる。ああ、貧血だ。思わず薬瓶を右手から取りこぼし、左手がベッドの鉄製の柵をつかんだ。朝から、気分が悪い。首にかかったネックレスが、チャラリと金属質な音を立てる。


 手から転がり落ちた薬瓶は、部屋の隅に置いた資料置き場と化している本棚にあたって、そしてその動きをとめた。


 ああ、だから、朝は嫌いなのよ。


 ある程度収まった頭痛に、私は深くため息をつく。もう、ここ数年このありさまだ。若さはいずれ失われるものであることは理解している。だが、何もここまで体が衰えるとは思わないだろう。


 私は、黒田くろだ 沙由梨さゆり。年は今年で34歳。本業は在宅の雑誌記者。主に少女向けの雑誌のコラムを担当している、退屈な女だ。

 今日の予定を確認するために、サイドテーブルに置いたスマホを手に取る。電源をつけて、短い四桁のパスワードをたたけば、初期設定から変えていないホーム画面がうつりこんだ。


 数少ないアプリの中から、カレンダーを開けば、今日はの予定は、午前中にコラムの進捗の報告、執筆、お便りの確認作業。そして、午後からヒーローとの合同強化練習会の見学らしい。


 ここ半世紀。通称ヴィランと呼ばれる異形の怪物が世界各国に出現するようになった。出現理由は不明。ヴィランの中には、明らかに生命として破綻しているような、__例えば、内臓器官がまるでなかったり、物理法則を完全無視していたり__そんな化け物が人類に敵対したのだ。


 ヴィランが現れた当初、世界は大規模なパニックを起こした。軍事機能はマヒし、秩序は崩壊し、混沌に陥りかける。そんなときに現れたのが、これまた人の理を無視したような存在、通称ヒーローだ。


 超能力というべき力を持ち合わせたヒーローも、出現理由は完全に不明である。力を手に入れた理由は、生まれつきであったり、神からもらったと証言したり、気が付けば使えるようになっていたりなど、各人によって完全に異なるためだ。


 そして、彼らヒーローは、自ら手に入れた力を、世界平和のために使うことを選んだ。つまり、ヴィラン退治を担うようになったのだ。


 しかし、ヒーローたちは、ヴィランと同じように、物理法則やら人類の限界を超えたような存在である。そのため、ヒーローたちの台頭は、差別の連続であった。

 なにせ、登場当初のヒーローたちは、完全な善意のみでヴィラン退治を引き受けていたのだ。完全な善人であった彼らに浴びせられたのは、賞賛だけではないのは当然のことだろう。……いや、お金をもらってヴィラン退治をしたところで、世間の評判は変わらないか。


 人を超えた力を持つ、ヒト型の化け物。ヴィランの出現から半世紀たった今でも、その評価は変わらない。変われない。

 だが、変える努力をすることはできる。


 偏頭痛をこらえながら、私は特に連絡も来ていないスマホの電源を落とし、作業机の前に腰かけた。卓上ライトとペン立てだけの、ほとんど物のない机だ。飾り気のある物は一切おいていない。


 ヒーローの合同強化練習会の見学に行く理由は、雑誌に書くためである。ヒーローには、イケメンが多い。そして、私の書いている雑誌は、少女向けである。

 まあ、そこから考えられることは、お察しであろう。イケメンで世間を釣って、一ミリでもヒーローたちに対していい感情を覚えてもらおう、というわけだ。決して、イケメンが出ると雑誌の売れ行きが良くなるとか、そういった理由したごごろではない。ああ、決してそうではない。


 そんな風に雑な自己肯定をしてから、私はノートパソコンを開いた。まだ朝早すぎて、食事をとる気にならなかったためだ。趣味のない私にやることといえば、仕事くらいしかない。


 使い古したUSBメモリをノートパソコンにつなぎ、電源を入れる。ゲームも何もインストールされていない、これまた初期の壁紙のままのデスクトップ。私は、マウスを操作してワードファイルを開く。


 なれた作業だ。なにせ、もう十年近くこの仕事をしているのだから。

 ベッド横のサイドテーブルから眼鏡ケースを取り出し、ブルーライトをカットするらしい眼鏡をかけてから、キーボードすら見ずに甘ったるい文章を書き連ねる。


 やりがいも何もない、退屈な作業だ。

 よい編集者なら、『これを書くことで、読者の皆様に、面白い、楽しい、と思ってもらえたらすごくうれしいです』と言うべきだろうが、そんなわけがない。短い締め切りに、中身もくそもない原稿。何回も食らうであろうリテイクをあらかじめ予想しておかなければ、在宅での作業など、できたものではない。


 無表情でキーボードをたたき続ければ、デジタル時計がようやく七時であることを無言で伝えてきた。そのころになって、ようやっと体が空腹を訴えだす。


 適当なところでショートカットキー+Sボタンで原稿を保存し、ノートパソコンの電源を落とす。あとは文章の推敲だけだ。朝ご飯を抜く必要があるほど急ぎの仕事はもうない。椅子から立ち上がり、私は狭いキッチンに向かう。


 空腹を満たすために冷蔵庫を開けてみれば、中にはあまり物がなかった。とりあえず、賞味期限が近そうな卵を二つ使って目玉焼きをつくり、レタスとトマトを水で洗う。レタスを適当な大きさにちぎって皿に盛り、切ったトマトをレタスの上にのせ、ドレッシングをかける。冷蔵庫に一枚だけ残った食パンを焼けば、朝ご飯は出来上がりだ。


 電子レンジで温めた水に、インスタントコーヒーの粉と砂糖を混ぜ、牛乳を流し込み、作った朝食とともに作業机の上にのせる。一人暮らしの私の家には、作業机以外の机はサイドテーブルくらいしかない。


 ノートパソコンを机の端に寄せ、朝食を真ん中に置いてから、手を合わせて食事を始める。

 口の中に広がる、『普通』。おいしくも、まずくもない。強いて言うなれば、『おいしくはない』。食事を胃に収め、インスタントコーヒーで飲み下せば、退屈な朝食と言うべき栄養補給は終わった。


 口元をティッシュペーパーでぬぐってから、食器類をキッチンのシンクにおいて置く。……残りの仕事を、しよう。


 睡眠薬の入った薬瓶は、いまだに部屋の隅の本棚の前に転がっていた。

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