悉乃の過去②
えっ、と四三は目を丸くした。無理もない。普通の反応だ。
悉乃は、覚悟を決めた。というよりは、開き直った。
この人に嫌われたところで、何も自分の損にはならない。
どうせ、もともと二回しか会っていない人。縁もゆかりもないのだから。
「私、今は浅岡の家に引き取られて、女学校に通わせてもらっていますけど、元々花街で働く母の子だったんです。遊びに来た父との間に私を身ごもったというわけで。当然、父には家がありますから、私は母と二人で暮らしていました。でも、その母も病で亡くなって。私、人相書きだけは得意だったから、通りすがりの人の似顔絵を描いてお金をもらったり、歌舞伎役者の絵なんか描いて売ったりしていたんですけど。それだけじゃ足りなくて。スリをやっていました」
四三は、何を言うでもなく黙って話を聞いていた。悉乃はここまで来たら同じだ、とそのまま続けた。
「とうとう捕まって警察のお世話になりました。皮肉ですけど、そこで父親が誰なのかわかったんです。男爵家の浅岡氏だった。父は、財界や政界に顔を広げたくて、そういう家の人と自分の子供を結婚させることに躍起になっているような人でした。だから、駒が多いに越したことはありませんでしょう。私は、浅岡の家に引き取られて、言葉遣いから所作振る舞いまで厳しく教育されました。高等女学校に入るには一つ年嵩だったのに、父の見栄のために特別に二年生から編入したんですのよ」
四三は、ぽかんとした様子で話を聞いていた。
「金栗さんの思うような、お嬢様なんかじゃありませんの。むしろ、川原の草のにおいも、金栗さんの汗のにおいすらも、なんだか懐かしかった」
「わあ、やっぱり臭かったとですか?」
今度は、悉乃が驚きにぽかんとする番だった。
「今の話全部聞いて、最初の感想がそれですか?」言いながら、だんだん可笑しくなってきて悉乃は思わず口元を緩めた。
「ああ、すんまっせん。いや、苦労されたとですね。なんだか、俺なんかがあーだこーだ言えるようなことじゃなかばってん……あれ?それが、お友達との喧嘩にどう関係あるんですか?」
四三はそこまで言うと、あっと腑に落ちたような顔をした。
「俺のせいですか?俺のせいで、悉乃さん自身がスリをやっていたのが知れてしまったと……?」
「金栗さんのせいじゃありません。ただ、あの時私から事情を聴取した警官が、女学校の同級生のお父様で」
それで今は、学校内でつまはじき者にされているのだと。悉乃はとうとうすべての経緯を四三に話した。
「本当は、先週、偶然高師の寄宿舎の近くを通ったわけじゃないんです。なんとなく、誰か、学校と関係ない人と話したくなって。それでわざわざ金栗さんに会いに行ったなんて、ご迷惑ですよね。ごめんなさい。会ったばかりの方に、こんな重苦しい話」
膝を抱え俯く悉乃に、四三は「そんなことなか」と声をかけた。
「やっぱり、悉乃さんがそんな目に合ってしまったんは俺のせいたい。申し訳なか。俺が、悉乃さんの話し相手になることで悉乃さんの気休めになるんなら、俺はいくらでも話、聞きます」
「そんな、謝らないでください。ありがとうございます。金栗さんは、私とは関わりたくないとか、思わないんですか?こんな、前科者の卑しい女……」
「そんな風に思うわけなかとね。だって、悉乃さんがスリをやってて、あの時見つけてくれたから、俺は助かったんばい。悉乃さんにどんな過去があろうと、俺にとっては恩人なのには変わりありません」
「金栗さん……」
悉乃の目から、また涙が溢れてきた。
スリをやっていてよかった、などと言えるはずはないけれど、変えられない自分の苦い過去が少しだけ救われた気がしたのだ。
「なあ悉乃さん。そのお友達にも話してみたらどぎゃんですか。今の悉乃さんのことをちゃあんと知っとるお友達でしょう。俺は、大丈夫だと思いますよ」
目を拭っていた手ぬぐいを顔から離した悉乃と四三の目が合った。
「万が一、悪い方に転がったら、またこうやって気分転換したらよか。俺はいくらでも付き合いますけん」
悉乃は何も言わず微笑んだ。
不思議と、大丈夫だ、とそんな気がした。
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