お礼に②
自転車を取りに行くからと、小石川高等女学校と東京高等師範学校の中間地点で一時間後に落ち合うことを悉乃は提案したが、待っているのも退屈だからと四三が女学校までついてきた。さすがに敷地内に入るのはためらわれるからと、四三は校門の近くで待ってくれていた。
悉乃は寄宿舎の入り口近くにある用務員室に顔を出し、二時間程自転車を借りたい、と台帳に名前を記入した。用務員が自転車の鍵を用意するのを待っていると、バタバタという足音と共に誰かが入ってきた。目を向けると、そこに立っていたのは悉乃の天敵・倉橋であった。
「誰か!大変ですわ!表に変な男の人が立って……!」
まずい、と悉乃は思った。表に立っている男――変かどうかはさておき――とは四三の他に考えられない。早く四三と共に学校を出発してしまおうと思ったが、鍵の用意に時間がかかっているようでなかなかこの場を出られない。こうしている間にも誰かが表の様子を見に行ってしまったら面倒だ。早く、早く行かなきゃ――気持ちが急く。
もちろんそんなことは知らない倉橋は、悉乃の姿をみとめるとふっと口角を上げてみせた。
「あら、浅岡さんじゃありませんこと。ちょうどいいわ。ちょっと様子を見にいってくださらないこと?不審者の対応ならお手の者ですものね。そうだわ、犯罪者同士仲良くなれるかもしれませんわ」
改めて、面と向かってこんな風に言われては、悉乃の中にもふつふつと怒りの気持ちが湧いてくる。だが、こう言われたのはある意味渡りに船だ。様子を見に行く振りをしてさっさと出かけてしまえばいい。どちらにしろ、こういう時に激高しては負けだ。悉乃は淡々と答えた。
「わかりましたわ。本当に怪しい人だったら、またあなたのお父様のお世話になりますわね。その時は、どうぞよろしく」
悉乃はさらりとした調子で言ってのけると、ようやく用務員が持ってきた自転車の鍵を受け取り、足早に立ち去った。
残された倉橋は訝し気な表情で悉乃が去っていった方向を見ていた。
幸いにも、四三は他の誰にも見つからず、怪しまれることもなかったようだ。「ああ、借りられましたか?」と何事もなかったかのように聞いてくるので、悉乃はほっと胸をなでおろした。
「それじゃあ、行きましょう」
四三は、悉乃にストップウォッチを手渡した。
「ここから上野公園までが、だいたい一里なんです。一里走るのに今は二十分かかるばってん、目標は、十五分です」
「二十分?十分速いじゃないですか。この前も、さーっと走っていってしまうものだから、全然追いつけませんでしたわ」
四三は、「ははっ」と笑った。
「それでも、まだまだですたい」
四三が走り出すのと同時に、悉乃はストップウォッチのボタンを押して、自転車で追いかけた。
半歩ほど、後ろからついていく。悉乃は自分なりに速く漕いでいるつもりだったが、時折遠ざかりそうになる四三の背中を見失わないようにするのが精一杯だった。
やがて、上野公園の辺りに差し掛かった。公園の桜は、桃色の花から今や青々とした葉に変わっていた。
木陰の下を走ると、少しだけ温度の低い風が頬を撫でる。それがなんとも心地よかった。
四三もこの風が好きなのかもしれない、と悉乃は思った。そして、この時間がなるべく長く続けばいいのに、と。一生懸命に走る彼の背中を、もっと、ずっと、見ていたいとも思った。
「十八分三十二秒」
上野公園一番奥の広場に到着すると、悉乃はストップウォッチを止め、今のタイムを告げた。
「すごい、二十分より速いですわ」
「んー、でも十五分には程遠かぁ……」
「どうしてそんなに早く走りたいんですの?」
素朴な疑問だった。十八分なら、人力車の車夫だってびっくりの速さである。そんなに速く走ってどうしたいのか。
「今年の春、高師の長距離走大会で優勝したとです。来年も勝ちたかですよ。手ごわか後輩も入って来とるし、気が抜けんばい。それに」
四三はニッと微笑んだ。
「走る、いうのはですね。剣道や柔道と違って段とか免許とかがないですろ?走るのを極めるっちゅうんは、より速く、より長く。それだけですたい」
ああ、この人は本当に走るのが好きなんだ。悉乃は微笑ましくなって、つられて微笑んだ。
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