鐘の鳴る夢

 騒動から5日経ち、俺は245日となった。5日間ずっと惰眠を貪って体調を取り戻した俺は、マスターの特製カクテルを嗜みながらあの日の事を思い出していた。


「ふう、やっぱり美味いなマスター。またこうして飲めるとは思わなかったよ」


「ああ、ありがとよ。にしてもお前、よく生きて帰って来たな?」


「ああ。……ほんと、人間はよく分からん生き物だ」


 人間がどうしてあんな事をしたのか、俺は未だに分からない。好奇心旺盛な子供ならまだしも、相手はれっきとした大人の人間だった。単に屋上の真ん中にゴキブリがいるのを嫌悪し隅へ捨てただけかもしれないが、それにしては掌に労わりの気持ちがあった気もする。


 それに去り際に人間は俺に対し、何か言葉をかけたような気がするのだ。人間の言葉は俺達には分からないが、何となく同情や応援に似た声だった気がするのだ。


 頭を捻る俺を見ながら、マスターは見慣れたボロ切れで器を磨きつつぼそりと呟いた。


「俺も人間の事はよく知らんが、案外情けをかけられたのかもな」


「情け?」


「あそこは病院だ。多くの人間が苦しみ、病と闘う場所だ。中にはそれに対して挫けてしまう者もいるだろう。……お前らは病院の屋上にいたのだろう? その人間は自分より遥かにちっぽけな存在であるお前が必死に生きようとするのを見て、応援したくなったのかもしれんな」


「応援ねぇ……」


 俺はブルフロッグを一口飲むと、息を一つ漏らした。


「今の俺に分かるのは、このカクテルが美味い事くらいだ」


 そう言って俺は、マスターにカクテルのおかわりを頼んだ。


 結局アグイの計画は水泡に帰し、地下は前と変わらぬ日々を送り続ける事になった。妹のアグニは必死に生きたが3日前に亡くなり、俺と共に介抱されたアグイはアグニの死を見届けると同時に姿を消して、どこにも現れなくなった。


 彼が死んだのか生きているのかは分からない。だが生きた化石の会リヴィング・フォシルの方にも姿を現す事は無かったので、奴は奴で新たな道を見つけて旅立ったのだろう。


 地下の騒動を纏め上げたのは、新たに活動を続ける穏健派リヴィング・フォシルのメンバーと、俺の助手であったニコだった。驚く事にニコはアグニが致命傷を負った原因のゴキブリを見つけだし、正義の鉄槌を食らわせたという話だ。


 今では地下の騒動も日常の一つとして切り取られ、どうしてあんな事があったかも正確に覚えている者はいないだろう。巷では怪し気な集団の作戦だっという話もあるし、怪物モンスターベムが乱心しただけだというのもある。俺は多くを語らず否定もしないので、今ではそっちの方が主流になりつつあった。


 何より群衆の目を引いたのは、ニコの演説だったという。それは実に堂々としたものだったらしく、俺はそれを見られなかった事を口惜しく思った。


 気が付くと俺は、メッサーシュミットの入口に掛けられた鈴を見ていた。鈴の音を聞くと心が落ち着き、自分が誰かが楽しく過ごす世界に居る気持ちになれる。あの清涼な音は俺だけでなく、妹の繋歩ケープも好んで聞いていた。


 だがどうやら散々に聞き続けたマスターが鈴を取り外したらしく、今は誰が来ても何の音もしない。騒がしい筈の店内に、俺は一匹取り残された想いがした。


「ベルム、どうかしたか?」


「いや、少し静かすぎてな」


「もしかしてお前、寂しいのか?」


「まあ、そうかもしれんな」


 騒動の後ニコは俺の元から離れ、新生リヴィング・フォシルの新リーダーとなった。今はドレスやツナギメの浄化計画を打ち立てており、少しずつこの地下街を改善していっているらしい。


「もう寝ぼけて脚を噛まれる事も無いと思うと、どこか不思議な気持ちだよ」


「お前にしては、随分と入れ込んでいたみたいだな」


「最初は彼女の謎さえ解消すれば、いついなくなってくれてもいいと思っていた。だがあいつがいる日常を知ってしまうと、いないといないで寂しいと気付いたよ」


「あら、そんな事思ってくれていたの?」


 その言葉に俺は振り向くと、そこには日光ニコがいた。


「あのねベルム。そういうのはしっかりと相手に言った方が、女性は喜ぶものよ?」


「ドレスで暮らしてるんじゃなかったのか?」


「例えドレスにいても、店くらい来てもいいでしょう? それにドレスはどこも住居が足りなくて、私だって今は仮住まいしか無いのよ」


 そう言うとニコは、微笑みながら俺を見た。


「ねえベルム。アナタ下水道の便利屋なんでしょう? 私にどこか、空いた物件を教えてくれないかしら?」


 その言葉に胸が高鳴る感触がしたが、俺はそれを抑え込んだ。男たる者女性には常にカッコいいいところだけを見せておくべきであり、弱い部分は見せるべきではない。


 だが今は、今だけは俺は、あえてその部分を見せようと思う。俺が安らげる場所は他の誰かが安らいでいる場所なのだと、教えていきたいから。


「……いいだろう、ただし条件がある」


「何?」


「部屋は別だ。隣に空きがあるから、そこに住むといい」


「ふふ、何だか懐かしい言葉ね」


「それだけじゃないさ」


 そう言ってから俺は続けた。


「もう二度と俺の脚を噛むな。それが条件だ」


 そう言うと少女はまた俺に笑みを零し、ベルの鳴る家へと向かって行った。



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humanism of Blattaria 田中 スアマ @t_suama

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