ゴキブリは死に、天使は昇る。
故郷、恩師、親族、愛すべき妹。全てを奪われた俺は憎悪に満ちていた。地上の生きとし生ける全ての生物を憎み、その対象は同胞達にも向けられていた。
元を正せば愚かな一匹のゴキブリの早急さから大勢が死に、凄惨な現状の中で勝ち目が存在するのは同胞しかいなかったからだ。全てを失った俺はもう、止まる術を知らなかった。
俺はアグイと共に、ドレスに住まうクズ共に制裁を食らわし続けた。食料を牛耳る存在や子供を餌としか見ない変態も一匹残らず食い殺し、溜まった腹のモノを人間の家にばら撒いていた。
そんな日々の中で、〝彼〟は俺の前に現れた。
彼とは言ったが実際の性別は分からない。子供といえども人間の頭は俺達では見上げる事も出来ず、肉体の力強さと感じ取れる意志から男であると認識していたに過ぎない。
あれはいつものように、俺が地上で無茶をやらかした時だった。アグイから離れて人間に効きそうな病原菌を採取している中で、俺はドブネズミの集団に出くわした。
怖いもの知らずの俺でも、五匹のネズミの相手は不可能だった。悪態を吐き散らしながら逃げ切るのがやっとであり、生きていただけでも奇跡だった。
脚がもげ取れそうな苦痛の中、俺は道のド真ん中に倒れ込んでしまった。俺達が普段利用する溝道ではなく、人間が整備した道路の上だ。普通なら数秒の内に人間や自動車に踏み潰されてしまう。
案の定俺の前に、人間は現れた。俺は天高くそびえる顔を見て己の運命を呪い、そして悟った。
目上にいたのは大人ではない、小柄な人間の子供だった。
ゴキブリでなくとも虫ならば、人間の子供の残酷さはよく聞かされている。捕まれば最後、脚を一本一本引き千切られ、翅はもぎ取られ、バケモノミミズのような指先で内臓を掻き出されて殺される。それで死ねるならまだしもその状態で放置され、己の無駄な頑健さを毎秒呪いながら死んでいく奴だっている。
これが俗に言う天罰なのかもしれない。誰かの為とはいえ、俺は多くの命を犠牲にした。そうして手を汚してもちっぽけな地下の片隅の平穏すら掴めぬ無力な俺には、これが相応しい死に様なのかもしれない。
抵抗しようにも脚一本とて動かせない。俺はふっと息を漏らすと、迫りくる凄惨な死を覚悟した。
だが人間の子供は何故か、そっと俺の身体を小さな掌で包んだ。そのままクシャクシャに握り潰されるのかと思えばそうではなく、彼は俺を労わるようにして何処かへと運んで行った。
奇妙な事だったが、人間の掌の中は心地良い暖かさだった。あれ程憎んでいた人間の身体は、疲労し緊張していた俺の身体をゆっくりと暖めていった。次第に俺も緊張が解れ、ゆりかごのような感触に身を委ねていった。
暗闇の中に光が差した時、俺は透明なケースの中にいた。目の前には大きな人間の頭と嵌め込まれた目玉が俺を追っているが、不思議と嫌な気分では無い。
人間の子供は俺を見ると、口をパクパクと動かして声を鳴らした。何を喋っているかは分からないが、喜びや歓迎に似た音を出しているのは分かる。
子供はケースに手を伸ばすと、そっと掌から何かを零れ落とした。
リンゴだった。俺達が普段食べているような腐りかけの生ゴミではない、新鮮なリンゴがそこに置かれた。染み込んだ匂いからどうやらこの子供の食事だったようだが、彼は何故かそれを俺にくれたようだ。
俺は察した。どうやらこの子供は、俺の世話をする気らしい。新鮮な果実も無邪気な愛嬌も、全ては俺に媚を売る為と考えれば納得出来る。
だが納得は出来ても、理解が出来ない。その行為がどれだけこの世界の道理に合わないかは、生きていれば嫌でも分かる事だ。この世にゴキブリを世話する人間がいるとは思えなかったのだ。
人間の子供を見ると、いつまでも果実に手を付けようとしない俺に訝しみ始めていた。単に動揺しているだけだが向こうは大事に感じているようで、好みに合わないか怪我や病気を疑っているのかもしれない。
仕方なく俺はリンゴを一口齧ると、人間の子供は歓喜の声をあげた。単純なものだと思いながらも、俺はどこかその様子に温かみを感じていた。子供というのは無邪気なものだが、人間といえどもそこは変わらないらしい。
こうして俺は5日の間、人間のペットとなった。最初は逃げ出す事ばかり考えていたが、身体も思うように動かず子供にも害意は無かったので、俺は緩やかに人間の営みをケースの向こうから眺めていた。
ガラス越しに眺める人間の子供の日々は悪夢のようだった。彼の両親と思われる二人は俺を見ると奇声を荒げ、岩石みたいな握り拳で彼を殴った。
最初はゴキブリを飼育する愚かな行動を非難しているのだと思ったが、彼は俺がいない所でもよく殴られ続けていた。家には5日間居たが、最後の日を除いてずっと殴られ続けていた。
俺は不思議な気持ちでそれを眺めていた。両親はどうやらあの子供の事が嫌いなようだが、それでも殺したりする訳では無い。生物としての子殺しは珍しい事では無く、俺達でも親が子に害する事はよくあるし、混乱や食糧難から食らう奴だっている。
だが人間は違った。人間はよほどの事が無い限り同族殺しをしないらしいが、代わりに自ら死にたくなるよう相手を追い詰めるのを好んだ。
だがあの子供はそんな目に遭いながらも俺を見ると、痣だらけの顔をくしゃりと歪ませた。あらゆる生物はおろか同胞達にすら忌み嫌われた俺を、何故かこの人間だけは好いてくれた。
それを見た俺の中で、ゆっくりと何かが溶けていく感触がした。俺の心の中に意志と暖かいものが産まれたのは、この時が最初だったのだろう。友や妹を失い腐っていた俺の心に、清らかな鐘の音が響いた気がした。
だが神様はそんな俺を赦してはくれないようで、二度目の暖かな日々もあっという間に終わってしまった。
いつものように俺はケースを抜け出し、部屋を散策していた。この時にはもう人間の子供は俺に心を許し、ケースの蓋すら外していた。そうして俺は気ままに部屋を歩き回ったり、床に落ちた新聞や絵本を読んでいた。
幾つかの人間の家に入り込んだ事のある俺でも、この家は特に居心地が良かった。どこもゴミに溢れて身を隠しやすく、それでいて毒餌も置いていない。まさに俺達の為に用意された楽園のようだった。
その楽園の中心で、彼は寝転がっていた。夜になるとあの子はいつもああして眠っている。それでいて俺の気配や両親の帰って来る足音には機敏に反応して起き上がる、小動物のような危機察知の力を身に着けていた。
だが今日は俺が近付いても、一向に目が覚めなかった。痣だらけで肌色が少なくなった顔には、残された暖色も消え始めていた。
俺は彼の顔によじ登ると、鼻の辺りでギイギイと声をあげた。普通の人間なら発狂するような行為だが、この子供はそれを平気で受け入れている。
だが今日はそれをしても、何故か一向に目が覚めない。見れば鼻からも口からも風が漏れ出ておらず、呼吸そのものをしてないらしい。
あの時を思い出すと、今でも自分が憎らしくなる。無知だった俺は、人間は呼吸をしなくても生きていける生物なのだと思った。人間は最強の生物なのだから、それくらいは平気ですると思っていた。
だが実際はそんな事は無い。人間だって俺達と同じ生物である限り呼吸は必要だし、食べ物だっている。死から逃れる事は出来ないのだ。
俺が子供の死に気付いた時には、もう外は真っ暗になっていた。不意に外から足音がし、あの
俺はその場を離れると物陰に身を隠し、両親の姿を見た。コガネムシみたいな輝きで身を飾った両親は子供を一目見ると片脚で蹴っ飛ばしたが、反応が無いのに訝しんだ。
ふいに母親の方が強烈な悲鳴をあげた。今になって我が子が死んでいる事に気付いたようで、彼の頬や腹を揺さぶったり叩いたりして確認していた。
俺はその光景に驚いた。何故あの人間は、子供が死んでいる事に驚いているのだろうか。ろくに食事も与えず暴力で生活を色漬けた存在が、何故今日も元気に生きていると信じていたのか。
その時俺は心の中で、どうしようもない程に強い哀れみと達観の感情に支配された。俺達を一捻り出来る強い人間でも空腹や暴力には勝てないし、あっけなく同族に殺されてしまう事もある。その姿が、俺のドレスでの行いと大きく重なってしまったのだ。
俺は一体、今まで何をしていたのだろう。あの子供は人間でありながら俺を愛した。正確には愛そうとしたのではなく、俺のような存在にしか縋り付けなかったのかもしれない。誰からも忌み嫌われた俺に対して、あの子供は救いを求めていたのだ。
ケープだってそうだ。彼女は最期の最後、身体が潰れるその瞬間まで俺を愛し、心配してくれていた。自分の死を悟りながらもただ俺が心配しない為に力を振り絞り、笑顔のまま死んでいったのだ。
ああそうだ。彼らはこの俺に、こんなゴキブリの俺に、全ての生物から唾棄される俺に救いと喜びを求めたのだ。
ようやく分かった。俺は決して無力などではなく、正しき力があったのだ。言葉は喋れずとも、身体は小さくとも、あの子を救う方法は幾らでもあった。それはケープを失った時も同じであり、俺は俺を愛してくれた存在を、またしても救う事が出来なかったのだ。
それに気付いた時、思わず俺は慟哭した。ケープが死んだ時と同じくらいの音量で叫んだ。
気付いた時には俺は人間に向かって走り出していた。突如現れた俺の姿に両親は我が子の死すら忘れ、俺への嫌悪で埋め尽くした。
怒りに包まれながらも、頭の片隅は冷静だった。きっと俺はケープが死んだ時も、こうやってがむしゃらに走っていたのだろう。身体の場所構わず這いずり回る俺に人間の両親は発狂し、突風みたいな大声をあげた。
その声に反応して知らない人間が部屋に入って来ると、床に転がる亡骸を見て狂気の声をあげた。狂気は狂気を呼んで様々な人間がやって来て、両親は大柄な男に連れられて部屋から出て行った。
やって来た人間は俺に気付いても一瞥くれるだけで、何の反応も示さなかった。彼らは一介のゴキブリよりも、哀れな子供の身柄を選んでくれた。
残された俺は暫くの間、子供が亡くなった床の上に佇んだ。
俺を慕った者はまた、俺の目の前で死んでいった。その相手は俺が心の底から恨んでいた人間であり、人間でありながら俺達のように生きた存在だった。ゴキブリのように生きてゴキブリに縋り付き、ゴキブリのように叩き潰された彼の姿がくっきりと浮かんでくる。
祝福を受けてこの世に産まれ、世界に最も愛されていると信じていた人間は、神も仏も無いような死に様を迎えた。人間とて最強でも万能でもなく、俺達と変わりない、些細な切っ掛けで骸を晒す悲しい生物なのだ。
全てが虚しくなり、自分が今までやってきた事の全てがちっぽけに思えた。
俺達が必死に明日を望むように、人間だってこの世界で必死に生きている。決して対等とはいえなくとも、不平等だと切り捨てる程でもない。
俺は立ち上がると、その部屋を出た。その脚のままドレスに向かうとアグイらは猛反対したが、俺はドレスから去る道を選んだ。
一つはもう、誰かの死を見るのが嫌だった事。数多の死によって俺の心は、誰かの死に対して強い嫌悪を産むようになってしまった。例え長として、あるいは
二つ目は俺の心の中に、人間への憎しみが完全に消えてしまった事だ。ドレスの復興にしろ現状維持にしろ、要となっているのは人間への憎しみだった。同じ敵を憎み合う者同士が同じ舟に乗るのを拒否し、互いに殺し合うのは俺には出来ない。
そして三つ目は、俺は何が何でも生きてみたくなったのだ。希望も何も無い筈のケープやあの子供が最後まで生にしがみ付き、この苦しいだけの世界で何をしたかったのか。何を残したかったのか。未来の無い俺はそれが知りたくなった。
俺は古い知り合いを尋ねると彼から仕事を紹介して貰い、日々を食つなぐ事になった。元々無鉄砲かつ腕の利く俺に便利屋の仕事は肌に合い、正気な者には出来ないような依頼ばかり舞い込んできた。
だが便利屋をして誰かに感謝をされる度に、俺の心にあの時の温かい気持ちが蘇った。生きていて良かったと思えた。ケープやあの子が体験したかった事は、このような喜びに包まれる事ではなかったのかと想像する事もあった。
俺の目の前で、俺は一人と一匹のゴキブリを失った。一匹は人間のように感性豊かな俺の最愛の妹であり、もう一人は人間でありながらゴキブリのように死んでいった幼い少年だった。
あの一人と一匹がゴキブリとして死んだのならば、俺は人間のように生きてみようと思う。そうしてこの世界が一体どのような生き様を見せるのか、じっくりと見させて貰おう。
そうして俺はドレスの怪物を棄て、下水道の便利屋となった。
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