誰も知らない物語
「リーダー、
「殺虫剤だと?」
アグニの元へ向かう道中で、俺はキレンから事の詳細を訊いた。山ほどある殺虫剤の中でそれがどれを指すモノかは分からないが、思ったよりも有り触れた存在に驚いた。
「正確に言えばガス兵器に含まれている、成分の一つらしい。リーダーは私達にも内緒で、それの原液を手に入れていたんだ。元は殺虫剤といえども、人間にだって立派に有毒な物質だ」
「それを遂にアグイは、人間達に使う事にしたのか」
恐らくそれはアグイにとって、意趣返しの思考もあったのだろう。俺達を殺す為に作った武器を俺達が奪い、ゴキブリのように人間を駆除する。それをアグイはいつかしてやろうと夢想していたに違いない。
店からツナギメへと向かう途中で、キレンは頭上を見上げた。頭上には薄汚れたパイプが網目のように絡み合っており、その内の一つから空気が漏れ出ている。
「あれがお前らの新アジトか」
「ああ。アンタのせいで、第一も第二も使い物にならなくなったからな」
「文句なら聞く気は無い」
「今はそれすらも惜しい。直ぐに副リーダーに会ってくれ」
そう言ってキレンは網目の一つを持ち上げると、俺達を中へ招き入れた。
中は入り組んで湿っており、どこか福星軒のアジトを思わせた。奥には光が見え、光の中心にはアグニがいた。
「アグニか?」
見慣れた姿に問いかける必要がある程に、アグニの姿は壊されていた。翅の片方はもぎ取られ、もう片方はひしゃげて飛び出ている。六本脚の内の四本が千切れており、ギイギイともヒュウヒュウもとつかないうめき声が漏れ出ていた。
「ベルムさん……」
「10日ぶりだなアグニ。元気だったか?」
「見た通りよ。もう身体のほとんどの感覚が残っていないわ」
「そうか……」
アグニは辛そうに顔を動かすと、俺の傍らに佇むキレンを見た。
「ご苦労さまキレン。もう下がっていいわよ。今までありがとね」
「副リーダー……」
「……最後に、何か私に言いたい事はある?」
「……え? いえ、何一つありません」
そう言うとキレンは下がった。キレンの顔にはやり切れない想いが込み上げているのが分かったが、俺は何も言わなかった。
キレンが去って行くのを見届けると、アグニは口を開いた。
「久しぶりね、随分と昔のようだわ。今日は貴方に、最後のお願いがあって来て貰ったの」
「最後の?」
「ええ。兄を、アグイを止めて欲しいの」
そう言うと彼女は語り出した。
「5日前。私達は新しいアジトを探しながら、組織の再改革を行っていた。宝石蜂の毒による改革が失敗して以来、組織は二つの主張に別れて瓦解しかねない状況だった」
「何故意見が割れる事に?」
「さあ。貴方が私達のアジトで叫んだ言葉に、惹かれた者でもいたんじゃない?」
そう言ってアグニはくすくすと笑うが、その笑みには嫌味な感じが一切無かった。
「やっぱりドレスから離れても、貴方は怪物ね。
「アグイ派とアグニ派か……」
「ええ。兄は変わらず私を慕ってくれていたけど、その目にはどうやって私の心を入れ替えさせるか思索しているのが分かったわ。結局分かり合う事は出来なかったけどね」
こんな事態になるとは俺も思わなかった。俺の言葉はアグニを闇から引きずり出す事に成功はしたが、代わりに兄弟の間に壁を作ってしまったらしい。
「そして2日前。私はヘマを打って人間に見つかり、こんな無残な姿になってしまった。それでとうとう兄は人間に対して抑え切れない憎しみに押し潰され、人間を攻撃する事を決めたのよ」
「それが箱舟計画……。武器は殺虫剤の原液か」
「ええそう。元々あれは兄が後天的薬抗力を手に入れる為に盗んだモノだけど、人間に対しても有効なのは研究所の様子で分かっていた。盗んだのは微々たる量だけれども、水で薄めても人間には強い中毒を起こす代物よ」
そう言うとアグニは俺を見た。
「兄はもう、後戻りが出来ない。もし計画が成功すれば、『人間は殺せる』という意志が地下に広がってしまう。残るのは兄をゴキブリのリーダーとして祀りあげる連中と、同調し人間を恐れず攻撃を仕掛けて死んでいく同胞だけになる。抵抗する同胞達もまた攻撃され、地下街は争いに満ちてしまうでしょう」
壮絶な彼女の言葉に俺もニコも黙り込み、俺はアグイの行く末を想像した。
ネズミを退けたフクですら英雄になるこの地下街なら、人間を殺したとなれば神に等しい扱いを受けるだろう。彼の元には人間を恨む多くの支持者に溢れて猛威を振るい、当然それに抵抗する者も現れる。地下全体がドレスのような凄惨な世界に代わり、俺達の歴史は崩壊するだろう。
「ベルムさん。私もまた貴方達や同胞達に酷い事をしたのだから、恨み事を言うつもりは無い」
「ああ」
「でも私はただ、どうしても知りたい。ドレスの復興をしていたあの頃、何故貴方は兄の元から、私達の前から消えたのか? それを知らなければ、死んでも死にきれないのよ」
アグニの言葉に、俺は小さく息を吐いた。このような状況になってもまだドレスの未来を憂う彼女の姿に、俺は真摯でいたく思えた。
「お前には知る権利があるのだろうな。……いいだろう。教えてやる」
俺はそう言って傍らのニコを一目見た。結局俺はニコに対して、ほぼ全ての過去を語る事になってしまった。
まあそれもいいだろう。俺の過去が未来へと繋がるのなら、俺の意志が誰かが継いでくれるのならば意味はある。
俺は一息ついてから語り出した。先程のは俺が怪物になるまでの話で、これは俺が下水道の便利屋になるまでの思い出だ。
これは誰も知らない、俺だけの物語だ。
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