新しい門出
天井がガタガタと揺れた。ぱらぱらとパイプの錆が降り注ぎ、その内の一つが目の前のカクテルの中へと落ちていくのが分かった。
「地上はかなり荒れてるみたいだな」
マスターの言葉を聞きながら、俺はニコを見た。ニコはまるで離せば俺がいなくなってしまうかのように、真っ直ぐに俺の目を見つめて離さない。
「あの日の事は今でも頭に焼き付いている。人間が支配する世界を憎んだ俺は、アグイと共にやっきになって活動した」
「それがドレスの二大怪物?」
「そうだ。被災して荒れたドレスを、俺達はどうにかして統率しようとした。言いたくも無いような事だって沢山したさ」
「そう……」
そう言うとニコは黙り込み、じっと空の容器を眺めた。
「初めて会った時、ベルムは私と似たような身体をした奴を知ってるって言ったわね? あれは妹さんだったのね」
「ああ。ケープは脱皮不全を起こした出来損ないだ。過去と未来が混ざり合った肉塊にならずに生き延びたのは、奇跡だと言ってもいい」
「そんな妹さんだから、私と重ねたのね」
「……それだけじゃないさ」
俺は一つ息を吐くいてから言う。
「お前は似てるんだ。凛とした佇み、強い眼差し、不条理に負けない意志。身体だけじゃなく心まで、彼女に似ているんだよ」
そう言うと彼女はじっと黙り込み、容器が空と分かっていながらそれを煽った。
「
「いや、彼女が自分で付けた名だ。お前は知らないかもしれないが、そもそもゴキブリはそう自分達に固有の名を付けたりはしないんだよ」
ゴキブリは普通、子に名前を与えない。一度に三十近い子が産まれるのに加え、そこから生き残る数も踏まえて面倒臭がる傾向がある。付けるとしても一郎や二郎、ジョンやジャックやジェーンといった、最悪間違っていても互いに無理もないと思える保守的な名だ。
思うにゴキブリは名前を付ける事によって、思い出がどこかに刻まれるのを拒否しているのだろう。我が子といえども死ぬのが〝名無し〟ならば、残る傷も少なくなる。ましてや明日死んでもおかしくないような俺や不足の娘に付ける名などある訳も無い。
だが俺の妹は、わざわざ自分で自分の名前をつけた。死にかけの分際で『繋がり歩む』という相応しくない名を付け、寄虫扱いされて俺のような厄介者とつるむようになった。まるで与えられた運命に抗うかのように。
正確にはつるむしか無かったのだろう。ゴキブリは助け合って生き、孤独では生きられない。地上に住む多くの生物がそうではあるように、彼女にもその重要性は解っていたのだ。
「これが俺の話だ。
「うん。ありがとう、ベルム」
そう言うとニコはマスターに、ジャパニーズゲッコーを二つ注文した。
「乾杯よ。今日は私達の、新しい門出にしましょう」
「ああ、そうだな」
そう言って俺達は甘い液体の漂う、互いの容器を打ち付けた。
ゲッコーを嗜んでいると、乱暴に店の扉が開いた。酔っぱらいか厄介な連中かと思えば、その先にいたのはそれ以上だった。
現れたのはアグニの部下である、あのハキハキした喋りと不気味な笑みをするワモンだった。
俺はニコを背後にやって言う。
「お前、確かキレンだったか? また彼女を攫いに来たのか」
「今日は違う。ベルム、アンタに頼みがある……」
「他を当たれ。便利屋は絶賛休業中だ」
そう言うとキレンは、俺の目の前にあるゲッコーの容器を見つめた。カクテルを呑んでぐうだらしている奴に休業もあるかとでも言いたいのだろう。
「下水道の便利屋にだって、客を選ぶ権利くらいはある。自分が何をしたか忘れた訳じゃない筈だ。お前が俺にモノを頼める理由が一つでもあると思っているのか?」
「ぐっ……」
ぶっきらな言葉に殴りかかって来るだろうかと予想したが、驚く事にキレンは勢いよく床に這いつくばった。
「頼む、副リーダーの最後の願いだ! このままだと副リーダーは、アグニは……」
「あいつがどうかしたのか?」
「アグニが、人間にやられたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、またしても俺の時は止まった。
「殺されたのか?」
「かろうじで生きているが、もう長くはもたない。それよりも問題はリーダーの方だ。リーダーはついに、〝箱舟計画〟を実行することにした」
「箱舟計画だと?」
「ああ。……人間を抹殺する計画だ」
俺はその言葉に、嫌な予感をした。アグイとの別れ際に感じた嘘の感触が今、俺の中を大きく揺さぶっていた。
俺は背後にいるニコを見て躊躇したが、ニコは俺が言わんとする事を目で反論した。
「置いてけぼりになんてさせないわよ」
「ああ、分かってるよ」
俺は振り返ると、キレンを見た。
「直ぐに案内しろ。アグニの所だ」
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