絶望

 災厄が訪れるよりもずっと昔、俺は父母と多くの兄弟に囲まれた普通のワモンだった。父はいつも餌取りと挨拶回りに忙しそうな男で、母は三十匹近い子供らの世話に翻弄され続けた女性だった。


 多くいる兄弟の中でも、俺はいわゆる鼻つまみ者だった。わんぱくで、怖いもの知らずで、勝手に外へ抜け出しては家族の肝を冷やし、ついて来ない連中を臆病者となじる悪童だった。


 周囲から末は野垂れ死にか荒くれ者共の頭目かと言われ続け、機械的に日々を過ごす家族を見ながら俺は嫌悪を深め続けた。生き延びる為にあらゆる生物から身を隠し、媚びへつらうように人間のお零れを恐々と拝借し続ける。そんな日々が俺は嫌だった。


 この世に産まれたからには、何か特別な事をしたい。少しの歩幅と考え方を変えるだけで、俺は俺を見下した連中から逃げられる気がしていた。


 だが俺のゴキブリとしての命運は、思いがけぬところで転げ落ちた。


 当時、俺の一家は物陰暮らしハイドシーカーをしていた。住まいは古びた木造の建物で、部屋の中央ではいつも人間がテーブルの上で石ころを並べて遊んでいた。


 石並べの家は俺達の他に、もう一つの家族が住んでいた。子供の年頃が近く種族も同じワモンだった事もあり、俺達は互いに持ちつ持たれつの関係を築いていた。


 だが俺はある日家族に無断で外出をし、禁断の黒い果実に手を出してしまった。人間が俺達を殺す為に仕掛けた、毒餌の罠に引っ掛かったのだ。


 240日生きてきたが、あれ以上の痛みと苦しみは経験した事が無い。俺はもんどり打って内部を破壊される苦しみにもがいたが、幸い俺は一命をとりとめる事が出来た。


 だがそのせいで俺はゴキブリにとって最重要能力である生殖能力を失い、良かれと思って餌を配った友と三匹の兄弟の命を奪ってしまった。


 あまり争い事をしない俺達でも、息子が殺されたとなれば別だ。俺達一家は俺のせいで物陰暮らしを止め、地下へと引っ込む事になった。父も母も俺を邪険にし始め、兄弟達はこぞって俺をゴミ扱いした。


 その中でただ一匹、俺を昔と変わらずに慕ってくれる者がいた。三十近い兄弟の中で最後に産まれ出た妹、繋歩ケープだった。


 俺の悪魔の所業にも「ばかだね、兄さん」と言っただけで、俺への態度も目線も何一つ変えなかった。思うに自分をぞんざいに扱う兄弟達より、俺が何処かへ行ってしまう事の方が嫌だったのだろう。


 ケープは脱皮に失敗して翅を失い、飛べなくなったゴキブリだった。未熟に発達した翅はやや白みがかっており、周囲の連中や兄弟すらも彼女を嘲笑った。両親も彼女が長く生きる可能性は考えてもいなかった。


 慣れない地下暮らしを助けてくれたのは、当時ドレスを仕切っていた阿久比アグイの父だった。彼は種族の違う俺達を暖かく迎え入れ、地下での暮らし方を教えてくれた。


 食事の調達法、安全な水飲み場、ネズミのテリトリー。彼らがいなければ温室育ちの俺達など、とうにネズミにでも食い殺されていただろう。


 父母も兄弟も役目が出来るにつれ、俺とケープは完全に放置されるようになった。放任と言えば聞こえはいいが、実際はネズミに食い殺されたとて気にも留めなかっただろう。


 取り残された俺達は自然なうちに、アグイとアグニの兄妹とつるむようになった。俺とアグイは悪童同士直ぐに意気投合し、アグニは身体の事でケープと通じるものがあったので仲良くなった。


 アグイは俺と同じ悪童でありながらもどこか理知的な面を残しており、冷静に現状を傍観する事の出来る余裕を持ち合わせていた。ヤマトゴキブリの種族的な価値観とは違う、彼固有の視野の広さが俺には眩しく思えた。


 毎日が幸せだった。あの頃の楽しかった日々は、今でも鮮明に思い出せる。楽しい事や喜ばしい事がある時、俺の目はいつも何処かにアグイとアグニとケープの三匹がいないかと探してしまう。


 だがそれもあの大雨、後にドレスの惨劇と呼ばれる事になった大洪水が、俺の生き方もアグイの余裕も流れさせてしまった。



 俺が71日を迎えた日に、それは起こった。地上では稀に見る大雨と突風が降り続き、パイプが軋む音とゴボゴボと水の流れをき止める音が殺戮の合図だった。


 本来なら自然に流れていく排水を絶え間ない水と積もった汚物が堰き止めてしまい、雨水は排水場所の近いドレスをみるみる内に埋め尽くした。


 同胞達は出来る限り遠くへと逃げ出そうとしたが、ゴキブリの脚力を以ってしても洪水のスピードには敵わなかった。


 俺の家族は全員流されて、あっという間に死亡した。別れの言葉を交わす事すら許さず、雨水は多くの家庭を一瞬で呑み込んでしまった。汚物も同胞も俺達の史跡も全てを一つに纏めて流していく様は、人間の使う便器の渦を思わせた。


 轟音と共に襲い掛かる濁流の前には、悲しむ余裕すら無かった。横への退路を塞がれたゴキブリ達は、地上へと目指した。一団の中には俺とアグイの他にも彼の家族やケープもいて、汚水と離散フェロモンの臭いが混じり合った地下を俺達は懸命に走り続けた。


 だが俺達はその時、ゴキブリにとって最も重要である危機感を失っていた。迫りくる濁流に意識を朦朧とさせ、地上にいる支配者が誰であるかを忘れていたのだ。


 先頭のゴキブリが逃げ出た先は、よりにもよって人間が大勢いる地下施設だった。大雨により多くの人間が足止めを食らっていた場所に、その愚か者は飛び出てしまったのだ。


 先頭のゴキブリが出ると同時に、爆発のような人間の叫び声が広がった。命からがら逃げだしてきた俺達に、またしても絶体絶命の境地が待っていた。


 一度は人間達も大勢やって来た俺達に慌てふためいたが、冷静になると俺達を片っ端から駆除し始めた。


 あの地獄絵図は雨を見る度に思い出す。踏み潰され、叩き潰され、熱湯を掛けられ、大量のガスによってバタバタと仲間達が死んでいく黙示録のような光景。俺を世話してくれたアグイの両親や兄弟もそこで殺され、アグイは生き残ったアグニを連れてどうにか水の届いていない地下へと逃げ込む事が出来た。


 阿鼻叫喚の地獄の中で、俺は唯一残された肉親であるケープを探した。仲間の屍を越え、踏み潰さんとする人間の足を躱し、必至で彼女を探した。


 遠目に白く輝く翅が見えた。ケープは仲間の死体に縋り付きながら、おろおろとしていた。


 見れば身動きも出来ず、かといって逃げ出す事も出来ない、完全な死への恐怖に支配されていた。彼女が僅かばかり長生きできたのも仲間の潰された死体に縋り付いていたのと、潰れたようにはみ出た翅のおかげだったのかもしれない。


 だがその彼女の頭上に、人間の大きな足が降り注ぐのが見えた。人間が彼女の怯えた動きに気付いたのだ。


 俺は死ぬ気で走った。彼女を救えるなら死んでもいいとすら思った。


 だが彼女は走り寄る俺を一目見ると、身体から力を抜いて死を受け入れてしまった。


 その時俺は、目前の全ての光景が緩やかになるのが分かった。死が迫り切っている時に世界が遅くなるのは俺達にとってはままある事で、それが俺の元にやってきたのだ。


 だが俺自身はその時、特に死を意識していなかった。人間達は俺を恐怖しながらも、俺の速度に追い付けていない。俺は何としても生き延びるつもりだった。


 俺の世界が遅くなったのは俺のせいではなく、目の前にいるケープの死が同調したのだ。


 緩やかな世界の中、ケープは虚ろだった目に一度だけ光を灯した。頭上には闇のように黒い靴底が迫っており、文字通り俺は死に物狂いで走った。


 だが俺も心の中では分かっていた。あの状況で妹が助かる可能性など、万に一つも無い。


 彼女は死ぬ。確実に死ぬ。世界が俺に残酷にも与えた猶予が終わり次第、彼女は割れて散らばったガラス瓶のような残骸に成り果てるのだ。


 俺は泣きたくなった。そして世界のありとあらゆるモノを呪った。雨を呪い、人を呪い、ガス兵器を呪い、俺達をこんな場所に導いた馬鹿なゴキブリを呪い、こんな世界と運命を用意した神を呪った。


 だがそんな俺を見てケープは笑い、静かに口を開いた。


「兄さん、私は幸せだったよ? ありがと──」


 瞬間、嫌な音を立てて、ケープはこの世界から駆除された。


 その後の事はよく覚えていない。大声を上げながら走り回った事だけは覚えているが、それが怒りに任せて人間に立ち向かったのか、あるいは泣き叫びながら逃げ出したのかは分からない。


 気が付いた時には俺は地下の片隅でアグイに介抱され、泣き続けるアグニの触角をそっと撫でていた。ケープの死から何一つ覚えておらず、自分が生きて存在した理由も、存在する理由すらも分からなくなっていた。


 何もかも失った俺が覚えていたのは二つだけだった。


 人間とこの不条理な世界に、強い憎しみを覚えた事だけだった。

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