過去への追走

 扉を開けると、リリンと鈴の音が広がった。心地良い音だが今日はやけに扉が重く、この薄い身体を以ってしても中に入る事が出来ない。


「おい、マスター?」


 店からの返事は無い。


「おいマスター、ベルムだ!」


「その声、ベルムか? ちょっと待っててくれ」


 扉の向こう側でゴソゴソと音がした後、ようやく俺達は中に入る事が出来た。


 入った瞬間、俺はぎょっとした。辺りの床一面に、多くのゴキブリが伸びていたのだ。クロイにコギタ、ニコに下品なジョークをかます常連のワモン共に、ダンゴムシモドキの連中……。ここらで見慣れた顔の一面が、一列に並んで転がっていた。


「今度は何があったんだマスター? ガスでも撒いたのか?」


「違うさ。……あれだよ」


 そう言ってマスターが指し示した先には、テーブルにチョコンと乗っかった小さな容器だった。中には数滴と言ってもいい微量な液体が注がれており、夥しい骸の上に君臨しているかのようなおぞましさを醸し出している。


「クロイの奴が嬢ちゃんに勝つ為に特訓をしていてな。店で一番強いカクテルを寄越せと言ったんだ。飲んだら奴はぶっ倒れて、面白がって挑戦した奴らもこの通りだ」


「何を合わせたらそんな代物が出来るんだ?」


「味にキレが増すかと思ってな。蚊の目玉程に少量だが、ブラックケーキを砕いて入れておいた」


 ブラックケーキとは人間が家屋に設置する毒餌の一種だ。見た目が黒色のカップケーキみたいに見える事からそう呼ばれている。


 俺が批難すると、マスターはけらけらと笑った。


「伸びてる奴も全員ガキじゃない。直ぐに痺れも切れるだろう。お前もどうだベルム? お前なら伸びたりはしまい」


 そう言うマスターの目は悪戯を仕掛ける子供じみており、俺はテーブルに置かれた容器を睨み付けた。


 正直言って興味はそそられた。見れば若干の濁りはあるが、食指を失う程に悪くはない。僅かだがサツマイモのような香りもするし、そこまで死屍累々を産み出すようにも見えなかった。


 睨み続けていると横から白い身体が割り込み、目の前の容器からそれを吸い上げた。


「おい、ニコ!」


 ニコは転がすように口をもぐもぐとさせた後、ふうと息を漏らした。


「確かに、これは今までで一番強烈ね」


 ニコの言葉に、マスターはまたけらけらと笑う。


「さすがだな。フレンジーヒューマンですら、嬢ちゃんを泣かせる事は出来なかったか」


「迎え酒のつもりか? お前は病み上がりなんだぞ」


「なんだ嬢ちゃん。嬢ちゃんでも悪酔いをするのか?」


 マスターはカウンターの下に潜り込むと、薄っぺらい緑色の物体を取り出した。何らかの葉のようだが染みるようなキツイ臭いを漂わせており、俺もニコも目を背けた。


「シソの葉だ。臭いは強烈だが、噛めば気分が良くなる」


 俺はマスターから葉を受け取ると、ニコの口に突っ込んだ。ニコは涙目になりながらも、もぞもぞと咀嚼した。


「そういえば聞いたぞベルム。お前、またお手柄だったらしいじゃないか」


「何の事だ?」


「とぼけるな。ツナギメの誘拐事件を解決したのはお前だろう?」


 そう言ってマスターは転がっている連中の中から、コギタを指した。口の軽い奴だと悪態を付きたかったが、当人が伸びているので文句も言えない。


「ドレスに住んでいた頃と何も変わらないな。相も変わらず無茶ばかりだな怪物坊主め」


「そう言うマスターも、一体どうして老けないんだかが俺には分からんよ」


「なに、気持ちが若ければ老いからも逃げられるのさ」


「俺が50の頃から容姿が変わってないぜ? アンタの老いはカタツムリ並みに遅いらしいな」


 俺とマスターのやり取りを見たニコが、まどろんだ目で見つめる。


「二匹は知り合いなの?」


「ああ。コイツが嬢ちゃんよりもチビだった頃から知ってる」


「へぇ……」


 そう言ってニコは俺の顔をまじまじと見た。目には明らかにからかいの色が浮かんでいる。


 詮索される前に話を変えようとすると、天井がズンと音を立てた。音が店内中に広がり、空の容器をカタカタと鳴る。


「地震か?」


「いや、恐らく外の震動が伝わってきたのだろう。ここは管の中だからな」


 震動は小刻みながらも店を揺らし続け、その音に伸びていた何匹かが目を覚ました。


「かなり鳴り響いてるな。地上で何かあったのか?」


「恐らく流行り病のせいだろう。地上じゃ最近、人間の子供がバンバン倒れているらしい。ここの管は町医者の家に繋がっているから、医者か病人が走り回っているんだろう」


 俺は病気と聞いてつい、宝石蜂ジュエルワスプの毒事件を思い出した。


 アグイとアグニ、そしてリヴィング・フォシルのメンバーは誘拐した者らを解放した後、完全に行方をくらませた。ツナギメのアジトは放置され、アグイらもドレスの住まいには戻っていなかった。


 彼らを探しに久しぶりに訪れたドレスは、まさしく醜悪の一言だった。


 湿気がスモッグのように身体に纏わり付き、動物のハラワタの中を潜っているかのような臭いが地下中に広がっていた。やけに脚を取られると思えばあらゆる所に同胞らの無残な食い残しが転がっており、その光景に俺は絶句するしかなかった。


 100日近くぶりに訪れたアグイの家は、彼が放棄すると同時にホームレスの隠れ家と化していた。


 ゴキブリといえどもマイホームは持っている。パイプの錆の塊だったり壁の隙間だったりと他の生物ほど小奇麗なモノではないが、ドレスの社会的弱者はそれすら持たざる者がいる。


 そこにいたのは、まだ卵から出て間もない稚児のクロだった。親の代わりに留守番をしていたようだったが、彼は突如現れた俺に殺気の籠った目で睨み付けた。俺はそれに何も言えず、ただその場を去って行くしか無かった。


 俺を見るあの子の目は、侵入者への敵意では無かった。あれは俺達が山ほどの御馳走に出くわした時に見せる、喜びの目だったのだ。餓えた家族の為に、このワモンゴキブリを逃してはならぬという決意だったのだろう。


 アグイやアグニの言う通り、ドレスは地獄と化していた。思わずあの飢えた目を思い出し、呟くように言う。


「子供が死ぬのは、嫌なものだな」


「はは。人間の子供まで心配するゴキブリなんて、お前くらいのものさ」


「世界は広い。俺みたいな博愛主義のゴキブリがいたっておかしくはないさ」


 そう言うとマスターの笑みは、小さく柔らかいものになった。


「安心しろ。病と言っても死ぬような病気じゃないらしい。長引いているのも、元々病気がちで弱っちかった子供ばかりだとよ」


「弱っちい子供ね……」


 人間の子供と言ってもほとんどが、俺達より遥かに頑健な肉体を持った年長者だ。そんな連中をダウンさせる病気が蔓延していると考えると、地上も地上で雲行きが怪しい。


 人間の子供というのは不思議なもので、俺達を見ても怖がらない者もいる。無知故か好奇心が恐怖を凌駕しているのかは知らないが、俺達を見て目を輝かせる生物はこの世にあいつらしか存在しないだろう。


 身体が妙にムズムズし、大蜘蛛のいた家で人間の手に掴まれた感触を思い出してしまう。人間の体温は俺達にも心地良い温度を保っているが、あの人間の掌は湿っぽくて気持ち悪かった。


 俺はマスターにカクテルのおかわりを頼むと、静かにそれを煽った。鎮まった店内でただ、マスターがボロ切れで容器を拭く音だけが広がる。


 沈黙を切り裂いたのは、ニコの小さな吐息だった。


「ふう、やっとすっきりしてきたわ」


「もう大丈夫なのか?」


「ええ、大丈夫よ」


 その言葉を聞いて、俺は一つ息を漏らす。


「これに懲りたら、もう深酒はやめるんだな」


「ええ。もう宝石蜂の毒は御免だわ」


 自然に吐かれたその言葉を聞いた途端、俺の身体が硬直するのが分かった。あまりに自然に体内へと流れ込んだせいで、ネズミや鬼軍曹にも動じなかった俺は完全に力を抜かれてしまった。


「その様子からして、私の見てた夢は現実みたいね?」


「……すまん」


「何を謝る必要があるの?」


「俺は、ただ──」


「私が人間に飼われていたから? 愛も生活性も無い実験から産まれた化合物だから? それとも、自分とは違う本物の怪物モンスターである事を隠していたから?」


 彼女の言葉に俺は何も言えず、ただ黙るしかなかった。


 彼女は怒っている訳でも、自分の生に絶望している訳でもない。むしろ全てを現実として受け入れて、その次へと進もうとしている。そんな彼女に対して、俺の腰は引けたままだった。


「俺は、お前に何を言えばいいのか分からない。お前が求める答えを用意出来るまで、黙っておくつもりだったんだ」


 ニコはそんな俺に対し、フンと息を漏らした。


「アナタの隠し癖には慣れたつもりよ。自分が周囲と違うのだなんて、私は嫌という程分かっていた。ゴキブリですらない可能性だって考えていた。だからこの現実は私にとって、ある意味では死よりも辛いかもしれない」


 力強かった彼女の瞳が、急激に弱くなっていく。それを見て俺はどれだけ強がろうとも、彼女がまだ少女であるという事を思い知らされた。


「だからこそせめてアナタには……、輪紋ワモン鐘夢ベルムにだけは隠していて欲しくなかったわ」


 その言葉に俺は、心の奥が痛む思いがした。ただ静かに息を漏らし、声が漏れ出るのを抑えた。


「私は自分のこれからを覚悟した。だから、今度はアナタが覚悟して?」


「覚悟だと?」


「店での様子を見れば分かる。私を助けたアナタと研究室から私を攫ったアグニさん達には、何か強い繋がりがあるのでしょう? それを今、私に教えて」


 はぐらかす言葉は幾つも浮かんだが、ニコの真っ直ぐな目が俺を射止めて離さない。


「ねえ教えて。どうしてアナタは怪物モンスターになってしまったの?」


 そう呟く彼女の目を見た途端、俺の意志は覚悟を決めた。


「面白い話でもないぞ」


「そんなの、アンタの態度を見れば分かるわよ」


 そう吐き捨てる彼女を一目見てから、俺は話し出した。


 俺がドレスの怪物と呼ばれるまでの、忌まわしき過去の記憶だ。

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