最終話
幼き日々の記憶
「なあベルム。人間ってどう思う?」
「は? 人間だと?」
薬品の香りが漂う屋上で、アグイは俺に言った。いつものくだらぬ冗談かと思えば彼の顔はやけに緊張で強張っており、俺に真剣な返事を期待しているのが分かる。
ここは俺達の、お気に入りの遊び場だ。昔の俺達はこうしてよく、こっそりと地上に出ていた。根っからの悪ガキで後に大人達からは〝ドレスの二大怪物〟と呼ばれる程であり、度胸試しにネズミの巣を突っつき回したり、おとぎ話に出てくる大蜘蛛を探そうと走り回っていた。
「ツナギメの先に400超えのワモンの爺さんがいるだろう? 彼に訊いたんだが、あいつらは俺達の百五十倍近く生きる事が出来るらしいぜ」
「百五十倍って、どのくらいだ?」
「単純に計算して、ざっと30000日だ」
「30000日! そんなにもか?」
途方も無い日数に俺は驚愕した。人間にとって〝京〟や〝垓〟が馴染みないように、俺達には〝千〟や〝万〟が馴染まない。ましてやそれが生存日数となれば、想像の余地すらも無い。
俺はこの時初めて、人間という存在に畏怖を覚えた。どれだけ悪ぶろうとも、自分達が生物界において下層にいる事は解っている。同胞達から揶揄されようともネズミ一匹にだって勝てやしないのが現実であり、圧倒的な体格差と寿命は覆せないのは事実だ。
多くいる天敵の中でも最高位が人間なのは間違いなかった。人間はほんの数世代で地上の支配種に収まり、陽の当たる地上を棄てて何世代に渡り暮らした俺達は、未だ地下のほんの一部分すら手に入れていない。
互いに太古より生き続けたにも関わらず、何なら昔は自分達と大差無い
それでも俺は頭の中で、どこか希望を持っていたのだ。人間達はあの図体で俺達を恐れ忌避し続けてきたのだから、彼らに対して切っ先となるようなモノを持っているのだと思っていた。
人間に作用する毒か繁殖力による猛攻か、あるいは変わりないからこそ築かれた意志の差とでも言うべきものが俺達の中に存在し、いつか人間の喉に食らい付くのだと思い込んでいた。
だがそれはどうやら、俺の浅はかな勘違いでしかなかったようだ。彼らは俺達を恐れているのではなく、単にどうしようもなく嫌いなだけなのだ。心の底から死んで欲しいと願う気持ちだけで、俺達を追い詰めているのだ。
「……アグイ」
「何だ?」
「ズルいな、人間は」
俺は思わず呟く。人間は俺達を害虫扱いするが、俺達にとっては人間が害の極致だ。俺達を追い立て、殺し、根絶しようとする存在の絶大さに、俺の心の中で何かが折れたような気がした。
「なあベルム、俺は人間が死ぬほど嫌いだ。憎んでいると言ってもいい」
「それは別にお前だけじゃないだろう? 俺だって大嫌いだ」
「ああ、だがそれだけじゃない。……お前にだけは告白するが、俺は少しだけ羨ましいんだ」
「羨ましい? 人間がか?」
俺は驚愕し、アグイを見返した。人間を羨ましいなど普通のゴキブリは思いついたりしない。ましてや由緒正しきヤマトの血族の彼には似合わない言葉だ。
「奴らには天敵もいないし、膨大な時間も与えられている。……なぁベルム。明日食う食べ物にも天敵の存在にも悩まされず、ただ流れる雲を見上げて過ごす一日を惜しまない生涯があるってのは、どんな気持ちなんだろうな」
「そんな事、俺に分かる訳が無いだろう?」
「ああ、それもそうだな」
そう言って俺達は笑い合った。
今となっては懐かしい、友との日々だ。
長く続いた雨も止み、地下の空気もじんわりと暖かくなってきた。頭上には久方ぶりの太陽が輝き、俺の歳は240日となった。
太陽は5日間空を取られていた怒りを晴らすかの如く、煌々と日射を地上に浴びせていた。俺達は寒さを好まないが、暑過ぎるのも考えモノだ。
俺は水を一杯飲むと、傍らで眠っているニコを見た。ニコはだらしない表情を浮かべながら、もぞもぞと触角を揺らしている。
「ニコ、朝だぞ」
「ウーン……」
「もう十分眠っただろう。セミにでもなったつもりか?」
「ウゥン、ウン……」
寝ぼけているのかと思えば、ニコは険しい顔を浮かべながら唸り声をあげていた。どうやら夢に
俺はそっと彼女から離れると、悪夢に効くと言われているネズミの髭を持ってきた。何故かは分からないがこれを枕元に置くと、大抵のゴキブリはスッキリと目が覚める。恐らく恐怖心からだろうが、悪夢の世界でネズミにバリバリ食われるよりはマシだろう。
ネコや人間が夢を見るように、ゴキブリだって夢を見る。ゴキブリの夢は基本が悪夢であり、天敵に追いかけられたり餓死したりする夢が大半だ。安らいだ夢を見た者は誰もいないだろう。
これは同胞らの間では、夢の世界での予行演習だと言われている。明日起きるかもしれぬ命の危機に素早く対応する為に、創造神はゴキブリの頭に仮想訓練場を用意してくれたのだという。
どうせ創造するなら生物間の争いの無い世界を産み出してくれれば万事解決したのにと思うが、何故か誰も言わないから驚きだ。
ネズミの髭でニコの触角をくすぐると、彼女はすっくと起き上がった。
「ベルム、くすぐったい! ……あれ、ここは?」
「俺の家だ。随分と魘されていたが、鬼軍曹にでも追いかけられてたか?」
「分からない。どんな夢だったんだろう……」
そう言ってニコはふらついた足取りで、水の流れる壁沿いへと顔を洗いに行った。彼女の様子を逐一見ては、心の隅にかかった蜘蛛の巣が厚くなっていく感触がする。
だが彼女には、アグニ達に連れ去られてからの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。恐らくアグニが彼女を攫いやすくする為にしこたま強いカクテルを飲ませたのだろうが、それでも彼女の記憶は一向に蘇る気配が無い。
しかし当人はそんな事知る由も無く、生涯初めてであろう二日酔いに悩まされていた。言ってもその酔いは既に7日目に突入しているので七日酔いだ。
「なぁ、ニコ。メッサーシュミットに行かないか?」
浴びるようにして水を飲む彼女に言うと、俺の言葉にニコは嫌そうな表情を浮かべた。タダ飯タダ酒の場に誘われてこの様な表情をする彼女を見るのは初めてだ。
「悪いけど、カクテルなら暫くはこりごりよ?」
「マスターは店主だけが仕事じゃない。情報通で、あらゆる事に通じた地下の生き字引だ。悪酔いを吹っ飛ばす薬くらいは持っているかもしれない」
そう言うと、ニコの表情に仄かな温かみが戻ってきた。実際は放っておいても彼女の抵抗力なら明日には綺麗さっぱりと消え失せていそうだったが、気分転換も兼ねている。
「それ、いいかもしれないわね」
「だろう? じゃ、出掛けるから準備しろ」
「ご飯と薬を貰いに行くだけでしょう? このままでいいわ」
「そうか、なら行こうか」
そう言って俺達は家を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます