岐路

「先程ぶりだな。ベルム」


「……ああ。久しぶりだな」


 俺はそう言ってアグイと向き合った。背中には意識の無いニコが背負われており、すやすやと眠っているようだった。


「やはりお前も、組織のメンバーだったか」


「メンバーではなく代表だ。この組織は俺が組み立てたものだ」


 アグイからは敵意は感じられなかった。彼は俺の前に立つと、労わるようにそっとニコを地面に降ろした。


「安心しろ、彼女には傷一つ付けていない」


 そう言うとアグイは話し始めた。


「研究所では俺達を効率よく殺す為に、あらゆる兵器が作られていた。宝石蜂ジュエルワスプの毒も元々は研究・改良し、俺達を自壊させる薬品としてテストしていたのだろう」


「ふざけた話だ……」


「そうだろう、チャバの若造? だがどんな薬品でも、テストをするにはゴキブリが必要だ。……ベルム、お前は〝薬抗力〟という言葉を知っているか?」


「薬抗力?」


「薬に対する耐性の事だ。これがあると本来なら死ぬような薬物に対しても、ある程度の耐性が持てて生き延びる事が出来る。ベルム、お前だって持っているだろう?」


 その言葉に俺は過去の記憶を振り返す。誤って毒餌を食い、地獄の苦しみにのた打ち回った記憶だ。あれのおかげで多少の薬物は効かない身体になったが、代わりに俺は子孫を残す能力を奪われた。


「お前の様に後天的に手に入れた奴は珍しいが、俺達の中にはそういうのを生まれつき持っている奴もいる。完全殲滅を目標とする人間にとって、そういった薬品抵抗力を持った同胞達を殺すには既存の兵器では意味が無い。人間はまず抵抗力を持つゴキブリを手に入れるか、産み出さなければならなかった」


 そう語るアグイの顔には嫌悪感が満ちていた。俺もまた彼が何を言おうとするかを察し、顔を歪ませた。


「ゴキブリ達を無作為に集めて狭所に閉じ込め、希釈した毒を巻き散らし、のた打ち回りながらも生き延びたゴキブリ同士を交配させ、更に強めた毒で生き延びたゴキブリを産み出していく……。外道極まる所業だが、人間は遂にその到達点を産み出す事に成功した」


「それが、ニコか」


「そうだ。彼女は俺達とは違い、桁外れの薬抗力を持ったゴキブリだ。既存の薬物兵器では、人間達はどんな毒や薬でも彼女を殺す事は出来ないだろう」


「……そういう事だったのか」


 確かに彼女はメトロと共に行った人家でも、致死量の神経ガスを浴びても生き延びていた。思えば初めて会った時も彼女は平然と毒餌を食料と認識し、フクの元へと持ち運ぼうとしていた。無知からではなく、あれは彼女にとっては食べられる物だったのだ。


「俺はあの地獄から仲間を逃がす算段をずっと考えていた。算段が整った俺は研究所の電気回路を食い千切って停電を起こし、その隙に囚われていた同胞達を避難させた」


「さすがはドレスの怪物だな」


「だろう? だが、俺はとんだ見当違いをしていた。人間達が彼女を産み出した理由は他にあったんだよ」


「何だ?」


「決まってる。俺達を殺す為だ」


 突然の言葉に呆気に取られた俺を介さず、アグイは話を続けた。


「完璧な薬抗力を持った彼女には、あらゆる毒物が効かない。だがそれはその毒によって彼女が死なないだけで、毒物が浄化される訳では無い。人間が考えた方法は彼女に強力な劇毒を持たせ、俺達の巣へと運ばせるキャリアの役目だった」


「そんな事を、人間は彼女にさせようとしていたのか……」


 俺ははっとしたが、アグイはそれを察知したように笑った。


「安心しろ。彼女を運び屋から受け取ったのは、我々にとっての怪物になる前だ」


 俺が胸をなでおろすと、アグイは続けた。


「同胞達を避難させた後、彼女──お前の言うニコは通りかかった運び屋に保護されていた。俺は彼に莫大な報酬と引き換えに口止めをさせ、第二アジトの管理者であり俺の右腕、福星軒のクロに彼女を保護させた」


 次々と明らかになっていく事実を、俺は黙って聞き続けた。絡み切っていた全ての事実が、一本の糸のように伸ばされていく。


「彼女はこの事は?」


「何も知らないさ。彼女は親も産まれ場所も、自分が何故この世界に生を受けたのかすら分かっていない。両親は既に薬物テストで死亡し、餌から糞便まで人間に全てを管理されて育てられた。名前だって呼べるものはせいぜい、『135番』というゲージ番号しかない。自分がこの世に産まれた理由が、同族殲滅の為などとは分かる筈も無い」


 悲痛な思いがした。彼女が俺達とはどこか違う事は分かっていたが、これは余りに残酷過ぎる現実だ。


 だがそれは逃れようのない現実であり、彼女もそれをいつかは知る機会がやってくだろう。アグニが世界を変えられないと知ってしまったように。


 俺はその時、彼女にどんな風にすればいいのだろうか。そればかりは俺にも分からない。


「あの子には……、何も言うな。それを知っているのは俺達だけにしよう」


「……いいだろう。俺だって別に彼女に恨みがある訳でも無い。だが、一つ条件がある」


「何だ?」


「この件からは手を退いて貰う。妹の暴走を知らなかったのは、代表である俺の責任でもある。捕らえた同胞達は毒気が抜け次第、直ぐに解放しよう」


 そう語るアグイの姿は凛々しくも、俺の知っている友の姿からはかけ離れていた。100日という時間は馴染みの姿も、意志すらも変えてしまうものなのだろうか。


「だがお前とそこのチャバは今日何も見なかったし、リヴィング・フォシルなんて組織は元より知らなかった。それでいいな?」


「ふざけんな! そんな事が──」


「コギタ、抑えろ」


 俺はそう言ってアグイを見た。


「いいだろう。その条件、飲んだ。お前達が囚われの同胞を解放すればな」


 そう言うと、アグイは仏頂面の顔に笑みを灯らせた。


「お前も変わっていないな、ベルム」


「何?」


「お前が消えた5日間の内に、何があってドレスを去る事を決めたかは分からない。だがお前は結局、弱者を見棄てる事が出来ないのだけは変わっていない」


「お前だってそうだろう?」


「いや、俺はお前とは違う。俺は同胞達を守る為なら何だってするが、他の生物、ましてや人間なんかに肩入れはしない」


 そう語るアグイの目には、人間への強い憎しみが宿っていた。ドレスの惨劇は大洪水で終わりではなく、その後の人間の所業も含まれている。彼の場合はそれによって歪んでしまったのだろう。


 歪みきったその目を見た俺もまた、アグイに言う。


「お前もそう変わっていないさ」


「何だと?」


「メッサーシュミットでのお前は嘘を付いていた。俺がリヴィング・フォシルを知っているか尋ねた時、お前がとぼけていた事は分かっていたよ」


 俺はアグイを見ながら、自分の触角をチョンチョンと触れた。


「お前は嘘を付く時、左の触角を揺らす癖があるんだ。覚えておくといい」


 そう言うと俺はニコを背負うと、コギタと共にツナギメへと向かった。


 俺の背中に向かって、アグイが口を開く。


「なあベルム。先程のは撤回して、お前が組織に入会するのが条件と言ったらどうする?」


 俺は脚を止めて、アグイの方へ振り向いた。


「俺は依頼と約束は守るが、それは相手も同じ誠意を持っていた時だけだ。約束を反故にするというのなら、その時は容赦しない。例え、お前でもだ」


「……分かった」


 そう言うとアグイは、寂しそうな目で俺を見た。


「どうやらまた飲む約束は、もう出来そうにないな」


「ああ、そうだな」


 そう言って俺達はアジトを後にした。足取りは重かったが、それはニコの重さだけではない。


 俺は今日、友を失ったのだ。親しかった馴染みの友らは、俺達とは違う道を進む決意をした。


 ゴキブリでありながら次に会った時は敵同士という、争いの渦の中に巻き込まれたのだ。

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