繋ぎ目

 誰もいない部屋の中心で、俺はそっと息を整えた。微かな呼吸音ですら反響するこの部屋も、今は雨の音に掻き消されていく。


 一匹でいる部屋は静かすぎて、身が痛む程だった。ニコが来てからのここは騒がしさが壁に染み込み、安寧を求めて飛び出した事は一度や二度ではない。


 だが今の俺はその安寧を楽しむ事が出来ない。安寧を阻む雨の音が癒しにすら感じる程に、俺は身に怒りが込み上げるのが分かった。


 俺は手際よく身を整えると、家の戸を開けた。ニコなら家を出るのにも数十分は掛かるだろうが、俺なら十秒も経たない内に準備を済ませられる。


 開けた戸の鈴の音は家の中で反響した。静かに広がる音がどこか俺に寂しさを感じさせる。


 扉の前には小柄なチャバの男が立ち塞がっていた。コギタだ。


 コギタは怒りのような不信のような視線を寄越し、その姿を見て俺は息を漏らした。


「……事情が変わったんだ。お前まで来る必要は無いぞ?」


「アンタのツレが攫われようが、元は俺が先だ。俺は自分の目で確かめるまで、のうのうと待つ事は出来ない。この目でアイツの生死を確かめるまでは、アンタに付いて行くよ」


「そうか、なら好きにすればいい」


「最初からそのつもりだ。……ところでベム。それは一体、何のつもりなんだ?」


「これか? どうだ、似合ってるか?」


 コギタは俺の身体を一通り見てから、怪訝そうに言った。今の俺の身体には黒ズミと機械油が塗りたくられ、傍目にはドブ川から命からがら飛び出て来たかのような風貌だ。こう見えても俺達は綺麗好きなので、コギタはゾッとした顔を浮かべている。


「これでも俺は地下では名が通ってるからな。組織の連中だろうと街の住人だろうと、鐘夢ベルムだと気付かれるのは面倒だ」


「だからって何だよソレ……。傍らを歩く俺の気持ちも考えろよ」


「だから一緒に来なくていいと言ったんだ」


 そう言って俺はメッサーシュミットまで向かい、地面に連なるフェロモン跡を指した。


 俺達の持つフェロモンは二種類ある。その内の一つが今俺達の追っている、集合フェロモンだ。集合フェロモンはゴキブリの体内に含まれており、餌場の案内や救援等に用いられる。このフェロモンは間違いなく案内のものだろう。


「フェロモンも匂いも、時間が経つと薄くなる。駆け足で行くからついて来い」


「言われなくても、そのつもりだよ」


 コギタはそう言って加速し、俺を追い越して行った。小柄なチャバにしては中々の速力だ。伊達にドレスを生き延びただけの事はある。


 俺はそれを見てふっと笑うと、地下の奥へと潜っていった。


 

 ツナギメに到着すると、丁度フェロモンはツナギメの中心地にて途切れていた。同胞達の行き交いで掻き消されたようだが、よく調べればわざとここで消した痕跡が見える。


「ここからは自分達で探せって事か」


 ツナギメには多くの同胞達がいた。歓楽地なだけあって俺達と同じワモンやチャバだけでなくクロやヤマトもいるし、見た事の無いような種族もいる。


「さすがにここから探すのは骨だ。どうするべきか──」


「おい、ベム……」


 コギタが脇腹をツンツンとするので見てみると、ずんぐりとした集団の塊の一匹が俺と目が合った。


 ずんぐり男は物凄い形相で駆け寄って来ると、片言な言葉と身振り手振りで何かを伝えようとした。訛りが強く詳しくは分からなかったが敵意は全く感じられず、動作の一つ一つに何やら感謝や感激に似た様子が浮かんでいるのだけは分かった。


 そのダンゴムシのような見覚えのある風貌に、俺は例の鬼軍曹の姿が思い浮かんだ。


「もしかして、あの時のダンゴムシモドキか?」


 そう言うと、ダンゴムシモドキは頭が千切れんばかりに頷いた。あの時は命の危機からさして注目しなかったが、よく見れば彼も自分達と同じような身体の造りをしているのが分かる。恐らくシロアリなんかと同じく、遠い国からやって来た近縁種なのだろう。


 どうにかして翻訳すると、彼はメトロらと行った家での生き残りで、逃げ込んだ先のツナギメで定住出来たらしい。向こうには俺の存在に気付いた何匹かがブンブンと身を振って俺にアピールし、感謝の意を示している。


 俺はこれ幸いにとコギタを頭突いた女性の事を聞くと、彼らはずんぐりとした頭を必至で捻らせていた。だがここへ来てからまだ7日程度しか経ってない彼らに分かる訳も無く、彼らは死ぬ程申し訳なさそうな顔を浮かべた。


「気にしないでいい。それよりもここらは最近物騒になってきたから、出来る事なら引っ越した方がいい。頼る相手がいないならメッサーシュミットという店を頼れ。入口のデカブツに、ベルムとコギタの紹介と言えば通してくれる」


 そう言うとダンゴムシモドキらはまた感激した表情を浮かべ、平身低頭しながら去って行った。


 連中の背中が雑踏の中に消えた後に、コギタは口を開いた。


「あんな得体の知れない連中の世話なんてよくするな。あのドレスの怪物がよ」


「俺は可能性を提示しただけだ。連中があの後しっかり生き延びるかまでは、それこそ俺の知った事ではない」


「ふん、勝手に俺の名を使いやがって」


「これも世渡りの一つさ。使えるモノは何でも使うのが、俺のやり方だ」


 コギタは小さくなっていくダンゴムシモドキの背中をじっと眺めていた。アテも無く言葉も通じず、大蜘蛛用の餌として飼われ続けながらも彼らは必死で生き、それでいて他者を信頼する事を忘れていない。


 どうやらコギタには、それが眩しかったようだ。侮蔑染みた視線を送りながらも、どこか羨ましそうな目で彼らを見届けていた。


「約束の時間までもうすぐだ。コギタ、そこらにいないか? 向こうは何度も騙されてると思ってるから、辺りで注意深く様子を見回している可能性がある」


「……いや、そうでもないみたいだぜ」


 その言葉に俺は、コギタが見つめる方を見た。遠くからはくたびれた触角で風を切りながら、大股で歩いてくるチャバの女性がいた。


「あれだよ、俺を頭突いたのは」


「あの……、レディがか?」


 口から出かけた不躾な言葉を、俺は呑み込んだ。チャバのレディは待ち合わせ場所であるここに、つまらなそうな顔を浮かべながら歩いてきた。


 最初は俺と目が合っても、彼女はすぐに視線をずらした。実際俺は彼女とは違う種族なので、見合いの相手だと思ってもいないのだろう。


 だがレディはコギタには見覚えがあったようで、彼に気付くなり酷く蔑んだ目を浮かべて近寄って来た。


「またアンタ? もしかして頭突きの仕返し?」


「そんなんじゃねえよ」


「嘘おっしゃい。女相手にワモンのボディーガードまで付けて女々しいわね。女一匹に仕返しするのにも、他の虫の手を借りなきゃやれないのかしら?」


「なんだと──」


 咄嗟に俺は二匹の間に割り込んだ。この二匹を話し合わせていると、拗れに拗れて取っ組み合いになりかねない勢いだ。


「失礼、チャバのお嬢さん。今日は何も、君を傷つけに来た訳じゃないんだ」


 俺の言葉に、レディは顔をしかめる。


「汚らしいワモンね。それに100を超えた女に向かって、よくそんな口が叩けるわね?」


「君に会いたくて、身体を洗う暇すら惜しかったんだ。それに君達にとっては知らないが、俺達からすれば100なんて稚児のようなものさ」


「あら、そうなの?」


「ああ。実際君の肌の艶やかさは、俺達ワモンの女には真似が出来そうにない潔白性を感じさせるよ」


 そう言うと険しかったレディの顔が綻んでいくのが分かった。ゴキブリというのは蔑まれるのに慣れているせいか、一直な誉め言葉には弱い傾向がある。


「先程はこいつが失礼した。彼と彼のツレは俺の弟分なんだがね。聞けば君に大層な失礼を働いたそうじゃないか。今日はそれを詫びたくて、君に会いに来たんだよ」


「あら、そう……」


「こうしなければ君に会えないとはいえ、君を二度も騙すのは心底苦しかった。お詫びの印に一杯奢りたいんだが、どこか落ち着ける良い店は無いかな?」


「なら……、なら丁度良い店があるわ! そこに行きましょう」


 そう言って俺の背をドシドシと押す彼女に対し、コギタは小さな声で呟いた。


「アンタ、やっぱ怪物だよ」


「覚えておけ。これも渡世の一つだ」


 俺はそう言うと、レディの押されるままに歩みを進めた。

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