生きるのぞみ
「当時、俺達は10も超えていないガキだった。あの大洪水で俺と友の家族は一匹残らず濁流に呑まれて死に、どうにか生き延びても次に待っていたのは、劣悪化したドレスでの生活だ」
濁り切っていたコギタの目に、またしても強い憎しみの色が浮かんだ。一言語る度に怒りを募らせ、俺達を睨み付ける。
「アンタ達もあそこに居たんだってな? 俺も生き延びる為なら何でもやったよ。孤児同士で徒党を組み、
コギタの告白に、俺もアグイも何も言い返せなかった。アグイもまた彼と同じくドレスの惨劇で家族を失い、あの凄惨な世界を妹と共に生き延びてきた。俺もまたあの濁流とその後の地上での悲劇は心身に刻まれ、一生忘れる事は出来ないだろう。
「さあ殺せ、死んだ家族やアイツが待ってる」
コギタの言葉に、アグイは自ら目を逸らした。だが今度は、コギタが彼から目を逸らさない。
「どうした、さっきまでの威勢は何処にいったんだ? ヤマトは強く逞しく、怒りを忘れない種族じゃなかったのか? それともまた妹を馬鹿にすれば殺してくれるか? そんな姿でも、長生き出来て羨ましいと言えばいいか? さあ殺せ! 殺せよォ!」
悲痛なコギタの叫びは、店内中に虚しく広がった。アグイの怒りに満ちていた目も同情に似た憐れみに変わり、遂にはどれだけ罵倒されようとも自ら背を向けてしまった。
コギタはアグイから目を逸らすと、生気を失くした目で俺を見た。
「なにが誇り高いヤマトだ、意気地なしめ。……ベム。アンタは依頼を何でも請け負う、下水道の便利屋なんだろう?」
「……それがどうした?」
「俺を殺してくれよ。それが依頼だ。アンタの伝説なら幾つも知ってる。惨劇後のドレスを生き抜いたアンタなら、幾らでも殺し方は知っているだろう? 俺を家族のいる元へ送ってくれ」
俺は何も言えなかった。何故ならその目は本気だったからだ。本気で死を望み、死を受け入れている目だった。ネコやネズミに涎を垂らした食指を向けられた同胞達のように、友の死を知ったメトロのように、彼は生きる事を完全に諦めていた。
その目はドレスで暮らしていた頃に、何度も見てきたモノだった。ここで楽にしてやる事こそ最期の手向けと思える、強い悲痛に満ちた瞳だ。
ドレスの惨劇は多くの同胞達の一生を歪曲させ、今も蝕み続けている。秩序と安定を壊されたドレスの者達は生きる為なら何を犠牲にしても構わないと考えるようになり、争う事を受け入れるようになってしまった。
気付けば店内の喧騒が遠のき、雨の音が聴こえ出していた。これが幻聴なのは分かっている。雨の音に混じって聞こえてくるのは、やはり彼女の声だ。
(兄さん、私は幸せだったよ?)
その優しくも響き渡る声は、弾ける水音のようで彼女に相応しかった。優しく暖かく、それでいて確固とした強さを持ち合わせていた。
思うに俺が雨を嫌いになったのも、大洪水のせいだけではないのだろう。この音のリズムとアクセントが嫌いなのだ。この優しいリズムが、
ケープ……。俺の大切な妹。兄弟を死なせて生き残り、生き恥を晒していた俺を死ぬまで兄と慕ってくれた、心優しい俺の最愛の存在。
兄弟を殺し、ドレスで罪を重ね、お前を見殺しにした俺を、お前はいつになったら許してくれるのだろう。俺は雨が降る度にお前を思い出し、耐えきれぬ罪の重さを知ってしまう。
きっとお前は、俺が死ぬ事を許さないのだろう。例え未来の無い俺でも、お前はきっと俺に生きて欲しいと願い続けるのだろう。
全部分かっているさ。だから俺は生きているんだ。俺はお前の兄だから。
見上げていた顔を降ろすと、幻聴は止まっていた。彼女の姿が浮かぶのは、いつだって誰かが苦しんでいる時だけだ。今際の彼女の姿が浮かぶ度に、俺の心に強い衝動が沸き上がる。
俺はコギタの顔を見た。死を受け入れて、今はもう安らいでいる顔だ。この顔を見るだけで俺は神を恨み、俺達に与えられた運命をぶち壊したくなってくる。
「俺は殺しの依頼は受けない。誰かを殺すのもそうだし、死にたい奴の手伝いだってしない」
「依頼を選り好みするのか?」
「するさ。するから俺の元には、面倒で厄介な依頼しか残らない。俺達を殺す事ほど、容易な依頼は無いからな」
今度は俺が自虐的に嗤う番だった。
そうだ。俺達を殺す事ほど容易な事は無い。この世界には夥しい数の天敵と、俺達を殺す為の人間の悪意が山のように敷き詰められている。そもそも彼らからすれば俺達を殺す事など、悪意すら感じる程のものでも無いのだろう。
俺達は狩られ、殺され続ける運命だ。ネコやネズミに追われて地下に潜り、人間に至っては食べる為に殺意を向ける訳でも無い。今では同胞同士で仲間狩りをし、天からの恵みと呼ばれていたモノすらも牙を剥いてドレスに死体の山を築き上げた。
俺達の悪夢はきっと、俺達が最後の一匹になるまで終わらない。だからこそ俺は俺の中にある
「コギタ、それはお前の願いではない。お前には死以上に望んでいる願いがある筈だ」
「願いだと?」
「お前の友を救う事だ。お前はもう、独りじゃない。友が生きている可能性が僅かでもあるのなら、それを夢見るべきだ。さっきも言ったがもう一度言おう。ゴキブリならゴキブリらしく、足掻いてみろ。お前にだってまだ、未来があるんだぞ?」
そう言うとコギタは虚ろだった目を見開いて、ぼそりと呟いた。
「ベム、アンタは何を考えてる? ドレスの怪物と恐れられたアンタが、何故俺の友を救う?」
「お前は『ノアの箱舟』という話を知ってるか? 神は争いに満ちた世界を一掃すべく大雨を降らせ、全ての生物を舟という水に浮かぶ乗り物に乗せたんだ。そうして世界を浄化してから、綺麗になった世界に生物を解き放った。二度と争いの種が産まれないようにな」
「ふざけた話だ。それなら何故俺達は殺されている? 何故あらゆる生物が俺達を忌み嫌う?」
「思うに俺達の先祖は、舟に乗せて貰えなかったんだよ。俺達はノアの箱舟から追い出され、大洪水の世界を生き延びた神の嫌われ者だ。誰からも怨みを買い、殺すのが容易いだけに、助けるのは果てしなく難しい」
一呼吸置いた後に俺は続けた。
「だが見捨てられた俺達にだって、助けを伸ばしてくれる手があってもいい筈だ。確かにお前の言う通り俺は子孫を残せない、未来の無いゴキブリだ。だがそんな俺だからこそ無茶が出来るし、誰もがやらない事が出来る」
そう言うとコギタは、不思議そうな目で俺を見つめた。濁り切っていた目に暖かいものが宿っていくのを、確かに感じた。
「俺は決して生きる事を諦めない。そして誰かが死ぬのも決して許さない。お前の願いは全てを諦めて楽になる事か? それとも辛く苦しい未来が待っていようとも、一縷の望みを捨てずに生きる事か?」
「俺は……」
そう呟いてから少しして、コギタは言った。
「俺はアイツを救いたい。救いたいんだ。例え僅かな望みしかなくても、俺はアイツを見棄てたくないッ」
「……それでいい。それがお前の願いなんだ」
俺はそう言うと身体の向きを変え、アグイと向き合った。
「すまないがアグイ、同窓会はここまでだ。いずれ場を設けるから、話はまた今度にしよう」
「……ああ、いいだろう。だがアテはあるのか? ツナギメの広さは半端じゃないぞ」
「アテはあるさ。幸いにも、コギタの話にヒントが含まれていた」
「ヒントだと?」
コギタは友を待っている間、一匹の年増の女性のチャバに出会ったと言っていた。身に覚えのない頭突きを食らわされた彼には不憫だったが、それに見合うだけの事はあった。
「そのレディは『アンタも年増を嗤いに来たのか』と言っていたのだろう? そいつは恐らくコギタの友と同じ、見合いを申し込んだ手合いだろう。だがそいつも彼女の元に現れなかった。怒り具合からすれば、一度や二度ではなかったのかもしれないな」
「まあ今後を考えて見合いを申し込んだ手合いが冷やかしで、それが続くとなれば頭突きの一つもくれたくなるわな」
「ああ。そしてそういう恥をかかされて立腹する女性こそ、事の顛末を見届けるまで詳細を忘れないものなのさ」
そう言って俺はニヒルな笑みを二匹に向けた。
「女の怒りは毒餌と一緒だな。どっちも男を不能にしちまう」
「お前が言うと洒落にならねえよ」
「ともかく道筋は見えた。まずはツナギメに行って、その怒り狂うレディを探そう。幸い向こうも伴侶を求めて募集をしている。マスターに頼めばセッティングくらいはしてくれるだろう」
「だ、だがよベム。そもそもその年増が誘拐組織の仲間という可能性があるだろ? 他の男共を攫う為の撒き餌だったらどうするんだ」
「撒き餌ならそれこそ、お前達の会った別嬪さんでいいだろう。むしろ怒り様からして、彼女は本当にただの被害者だ。恐らく誘拐組織の方が、彼女の見合いを利用しているんだ」
俺はそう言って、マスターに件の募集を尋ねた。実際に会いに行った二匹には悪いが、話を聞く限りでは会いたい気持ちになれそうにない。年齢や体付きといった隠しようの無いマイナス要素を言葉巧みに色気に繋げ、必要以上に良く見られたいのが見え見えな募集要項だ。
この話を信じ切るのはよっぽど切羽詰まった者か、信じ込みやすい田舎者でしかないだろう。そうした純朴な者を組織は待ち伏せ、横から掻っ攫っているに違いない。
俺はマスターにセッティングを依頼すると、彼は困った顔を浮かべた。
「どうしたマスター? 俺じゃ気が進まないか?」
「いや、そうじゃない。悪いがベルム、今はちょっと待ってくれないか?」
「今度は何だ?」
「どうも嬢ちゃんらの姿が見えないんだ。白銀の嬢ちゃんの方はどうせツケだからいいんだが、ヤマトの嬢ちゃんからは代金を貰っていなくてな……」
俺はその言葉に、嫌な予感を覚えた。
「何時からいないんだ?」
「ついさっきだよ。ヤマトの嬢ちゃんが白銀の嬢ちゃんを連れて話してるのは見ていたが、それっきりまるで姿が見えない」
その言葉に、俺の身体は洪水に呑み込まれたかのように一気に冷え切った。背後を見るとアグイが物凄い形相で俺を睨み付けていた。
「おい、ベルム! 今の話は──」
「落ち着けアグイ、俺は一旦住まいの方に戻る。お前はマスターやコギタと一緒に周囲を探してくれ」
「……ああ、分かった」
俺は逃げるように店から出て行き、自宅へと戻った。自宅はメッサーシュミットとそこまで離れていないので、酔った二匹が酔い覚ましに俺の家で寝潰れていてもおかしくはない。
家へと走っている内に、俺の中にあった酔いは全て消し飛んでいた。どうか二匹とも俺の家で酔い潰れて、心地良く眠っていて欲しい。俺の部屋を汚し、ベッドを占領し、俺の登場に無粋だと悪態を付いても今だけは構わない。
俺は家に着くと、体当たりのような勢いで扉を開けた。扉からリリンとぶら下げた鈴の音が虚しく鳴り響く。
家の中は出た時と変わらず、もぬけの殻だった。彼女の寝姿どころか、フェロモン一つ感じ取れない。
俺ははっと気づくと、そのままメッサーシュミットへと戻った。店の入口ではアグイとコギタが右往左往していた。
「どうだ、店にはいたか?」
「いや。今は店にいた全員で探している。地下の白銀姫が攫われたかもしれないと言ったら、血相かいて探し始めたよ」
「そうか、だがこっちも駄目だ。家はもぬけの殻のままだ」
俺はそう言うと、そっとコギタを傍らに寄せた。妹が攫われたかもしれないとなると、アグイがどう怒り狂うか分からなかったからだ。
だがアグイは一つ息を吐くと、怒りの籠った目付きで俺を見た。
「……ベルム、さっき組織がどうのと言っていたな。それはお前が先程言いかけていた、宗教団体と同じなのか?」
「ああ。俺はそうだと思っている」
「それは何故だ?」
「連中は一度、彼女を保護していたんだ。俺から奪い返そうとしてもおかしくは無い。それに彼女にはまだ、俺も知らない秘密がある筈だ」
「……そうか」
そう言うとアグイは目を伏せ、じっと地面を眺めた。
「俺は一度ドレスに戻る。ドレスの馬鹿共を何匹か締め上げれば、その組織とやらの切っ掛けくらいは掴めるかもしれない」
「なら俺はツナギメに向かおう。幸か不幸か、奴らは俺を招待しているようだしな」
「招待だと?」
そう言うアグイに対して俺は地面に点々と連なる、見えない斑を指した。
「フェロモン跡か。確かにツナギメへと続いているが、ただの客のかもしれないだろう?」
「いや、これは間違いなく誘拐犯のだ。微かだがフェロモンの中に、彼女の匂いがする。こいつは特徴的で、彼女をよく知っている奴じゃないと気付かないだろう」
「匂い……」
コギタは俺の言葉に反応したのか、フェロモン跡をじっと見つめていた。
「こいつはワモン種の集合フェロモンだ。こいつがフェロモンを垂れ流して歩く間抜けなのか俺を誘っているのかは分からないが、辿るだけの価値はあるだろう」
「そうか、なら気を付けろよベルム。何度も言うがお前は──」
「走り出したら止まらない、だろ? 分かってるさ」
そう言いながらも俺は走り出そうとする六本の脚を止めるのに力が必要だった。友の妹と俺の食客を攫った組織相手に、俺は内に潜めたドレス時代の怪物の気配を感じていた。
「じゃあ行くか。ベルム」
「ああ。ドレスの二大怪物を怒らせた報いを、奴らに受けさせてやろう」
そう言って俺達は、互いに背を向けて歩き出した。
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