それぞれのルーツ

 メッサーシュミットに入ると、扉の鈴の音が聞こえない程の爆音に包まれた。いたる所から怒号が飛び交い、大勢が店の中心に向かって捲し立てていた。


 野次馬の隙間からそっと覗くと、どうやら二匹のゴキブリが取っ組み合いをしているらしい。片方は小柄なチャバの若造で、もう片方は漆黒の体色をした大柄な男だ。対格差は圧倒的で、チャバの方が一方的に叩きのめされていた。


 俺はそそくさと喧騒をすり抜けると、マスターのいるカウンターへと向かった。カウンターではうんざりとした目で喧嘩を眺めるマスターと、ジャパニーズゲッコーを嗜むニコがいた。


 マスターは俺に気付くと、ほっとしたような息を漏らした。


「なんだ、来たのかベルム。嬢ちゃんは来ないと言っていたが……」


「財布が必要かと思ってな。ラットを一杯くれ」


「あいよ」


「何よ。心配性ね、ベルムは」


 愚痴るニコを傍目に、俺はストリートラットを一気に呑み込んだ。ラットはマスターの作るカクテルの中でもパンチは弱いが、一口で飲む事で甘みの中に仄かな辛さを感じる事が出来て美味い。


 俺は右の触角で喧騒を指しながら、マスターに尋ねた。


「人間は酒場で殴り合うのを見て楽しむ趣向があるらしいが、あれもその類か?」


「馬鹿言うな。あのコテンパンにされてるチャバのガキが、ヤマトの兄ちゃんに何かしたんだろう。こっちはいい迷惑だよ」


「ヤマトゴキブリか。ここらで見るのは珍しいな」


 俺はラットを口内で転がしながら、喧騒の中心に目を向けた。地下で見るのは大抵がクロとチャバで、ワモンですらそれ程出会わない。生息域の違うヤマトが居るなんて、普通では考えられない事だ。


 だがこの広がった地下の中で、一つだけ例外がある。もしやと思って目を凝らすと、案の定俺の予想は当たっていた。


「なぁマスター。うちのお嬢のツケはどれくらい溜まっている?」


 突然の俺の言葉に、マスターは呆れたような顔を浮かべた。


「お前の連れじゃなければ、とっくに追い出してるよ」


「提案だが、あの騒ぎを止めたら半額ってのはどうだ? あの様子は放っておくと、ヤマトの奴がチャバを食いかねない」


「それは困るな。うちじゃ共食いは御法度だ」


 マスターは頭を捻りながらいくらか考えていたが、捻りが戻る時にはすっきりとした顔を浮かべていた。


「三割だ。道楽でやっているとはいえ稼ぎは必要だからな。三割引きで手を打ってくれ」


「いいだろう。交渉成立だ」


 本音を言えば一割引きでも万々歳だったが、支払いが安くなるに越したことは無い。俺はヒョイと席を離れると、喧騒の中心へと向かって行った。


 俺が来ると野次馬はまるで水を切るように割れ、ぼそぼそと俺の名を呟く声が聞こえてきた。感激からくる遠慮なら有難いが、連中の目には明らかに畏怖の感情がある。心の奥に小さな寂しさを感じたが、それもまた自由に生きる上での代償だ。


 俺は喧騒の激震地に着くと、怒り狂ったヤマトの背後に立った。


「その辺にしとけ。由緒正しきヤマトゴキブリが、チャバを相手に弱い者虐めか?」


「何だと──」


 チャバを組み伏せていたヤマトは俺に気付くと、怒りに燃えた目を軟化させていった。


「……お前、鐘夢ベルムか。輪紋鐘夢なのか?」


「ああ。久しぶりだな、阿久比アグイ


 アグイは俺の顔を見るなり、感極まった笑みを浮かべた。


「随分と久しぶりじゃないか! 100日くらいか? 今まで何処で何してたんだ?」


「地下でおこぼれ貰って、慎ましく暮らしてるよ。今はこの辺りに身を構えている」


「そうか。あのお前がな……」


 鎮静化したアグイから目を離すと、俺は床に転がったチャバの若造を見た。


 誰かと思えば、地下道でよく俺やニコを茶化してくる二匹組の一匹だ。今は殺虫剤を至近距離でぶっかけられたみたいに伸び切っている。


「完全に気絶してるな。こんなチンピラ相手にやり過ぎじゃないのか?」


「優しいもんさ。その馬鹿は阿久尼アグニの顔をせせら笑ったんだ。お前が止めて無ければあのまま食ってやったよ」


「……ああ、そういう事か」


 俺は周囲の喧騒に目を向けると、取り囲む最前列にアグニの姿を見つけた。アグニは怒り狂う兄の姿と、突如現れた幼馴染の俺におろおろとしていた。


「あの……。お久しぶりです、ベルムさん」


「久しぶりだな、アグニ。ちょっと痩せたか?」


「そうですね。でも、あんまり変わってないと思います……」


 昔馴染みの俺に対しても変に気を遣う姿に、アグイは苛立った表情を浮かべた。俺からすればこのしおらしさも可愛気の一つに感じるが、彼からすればヤマトらしく堂々として欲しいのだろう。


 アグイは悩まし気に一息吐くと、俺に目を向けた。


「お前の顔を見たら怒りも吹っ飛んだ。積もる話もある事だし、久しぶりに飲もうじゃないか」


 アグイはアグニを連れてカウンターへと向かい、取り囲んでいた連中もお開きになったのを察して次々と解散していった。中心には伸びたチャバの若造一匹が取り残されたので、俺は一息つくと彼の身体を引き摺り、店の隅へと放り投げておいた。


 カウンターに戻るとニコが新しいカクテルをおかわりしており、一席空けた隣で豪快な飲みっぷりをアグイが物珍しそうに見ていた。


 俺の姿に気付くと、ニコは酔った流し目で見た。


「さっきはありがとベルム。おかげでツケが減ったわ」


「それはどうも。で、そのツケを今増やしてるのはどいつだ?」


「減った分だけ飲んでるのよ。また同じ事があれば、その時はよろしくね」


 そう言ってあざとく微笑む彼女に、俺は全身から力が抜けるのを感じ取った。それを見たアグイが笑う。


「面白いお嬢さんじゃないか、ベルム。いい娘を捕まえたな」


「そんなんじゃないさ。俺にそういうのは似合わん」


「ったくお前は、昔から堅物だな」


 そう言ってアグイは、ハンツマンスパイダーを飲み干した。マスターの新作であり、キレと苦みの強さが好き嫌い別れるカクテルだが、彼はそれを美味そうな顔で飲み干している。


 ニコはカクテルを空にすると、じっと俺の顔を見た。目には多少の訝しみが含まれている。


「ねぇベルム。さっきから親し気だけど、こちらの方達とはどういった付き合いなの?」


「幼馴染だよ。俺が物陰暮らしハイドシーカーから地下暮らしアンダスタンドに移った頃、家族ぐるみで世話になっていた」


「そういえば物陰暮らししてたって言ってたわね。今じゃ下水道の便利屋なのにねぇ……」


「昔の話だ。今は地下の方が性に合ってる」


 取り留めなくニコと話していると、間に誰かが割り込んできた。アグニだ。


「初めまして。貴方が噂の白銀姫ね?」


 白銀姫の言葉に、ニコが目を細める。


「その名前は仰々しくて好きじゃないの。日光ニコと呼んで」


「あら、名前があるのね? ……よろしくねニコさん。私はアグニ」


「初めまして、アグニさん。──よろしくね」


 刹那の瞬間、俺もアグイもニコの視線がアグニの身体を見定めるのを見逃さなかった。白い身体を持ち合わせた彼女の目にも、アグニの身体は異質に映るのだろう。


 アグイらはヤマトゴキブリと呼ばれる、この地に古来より栄えてきた由緒正しき種族だ。漆黒の体色と大柄な体格を持ち合わせ、強い種族愛と独自の倫理観はやや浮世離れしていた。


 だがその強い種族愛と威圧的な身体も相まって、よほどの愚か者か度胸試しでも無い限り、彼らに喧嘩や茶々を入れてくる者はいない。地下に来た新参者が最初に学ぶのは、「ネズミとドレスとヤマトには関わらない」とすら言われている。


 だがアグニは違った。彼女の身体は色薄く、そこにシミともイボともとれない斑模様が刻まれていた。


 彼女はそれが卵鞘から出てきた時から体色として浮き出ており、漆黒の身体を誇りに思うヤマトの間では黴菌バイキンに等しい扱いを受けてきた。嫁の貰い手もいる訳も無く、呪いだとか病原菌の感染だとかを疑われた事も一度や二度ではない。


 話し込む二匹の間に、アグイが割り込んだ。


「お嬢さん。申し訳ないが、あんまりこいつをじろじろと見ないでやってくれないか?」


「兄さん。私は別に気にして──」


「大丈夫ですよ」


 悶着する兄妹に、ニコはすっぱりと言い切った。


「私も、気持ちは分かりますから」


 今度はアグイらが彼女の身体を眺める番だった。世間から逃れ隠れる為に染められた俺達の身体とは違い、彼女の身体は陽に包まれたような白さを持っている。それによって彼女がどれだけ謂れ無きやっかみや暴言を浴びてきたかは二匹にも、俺にだって想像する由も無い。


「ふふ。何だか似た者同士ね、私達。貴方とは凄い仲良しになれそう。こっちに来て一緒に話しましょう?」


 そう言うとアグニは彼女を連れ、店の奥の方へと向かって行った。男二匹は完全にほったらかしにされ、小さくなっていく彼女らを見送った。


 俺は残っていたラットを転がしながら、アグイに言った。


「ああして見ると、さっきの態度が嘘みたいだな」


「あいつは大勢の空気が苦手だ。きっと虐められてた頃を思い出すんだろう。それにお前にはまだ、複雑な思いがあるんだろうな」


「その件については、悪かったと思ってるよ」


「後で時間を作ってやるから、ちゃんと説明してくれよ?」


「ああ、分かった」


 そう言って俺達はただ黙々とカクテルを飲み交わした。話もたどたどしくて中々続かず、隣に座っている男は昔馴染みというよりも、喧嘩別れして偶然再会した女房のように感じた。


「なぁ、ベルム」


 不意にアグイは口を開いた。静かながらも張りのある声のトーンに、俺は嫌な予感を覚える。


「もう一度、ドレスに帰って来る気は無いか?」


 予想していた言葉に、俺は注文したドメスティックキャットを一気に呑み込んだ。キャットは辛みがネコの牙のように鋭く、慣れない奴が飲めば2日は口内がヒリつく。


「ドレスの現状は知っているだろう? あそこを立て直すにはお前の力が必要だ。昔みたいに俺達でやらないか?」


「あそこは俺がガキの頃からあんなだったさ。俺が行ったところで何も変わりやしない。ミミズにでも頼んだ方がまだ活躍してくれる」


 酒場らしい冗談をかましたつもりだったが、思いつめたアグイの表情はちっとも変わらない。それどころか内に秘めた深刻さが増していくように見える。


「お前、まだ気にしてるのか?」


「何をだ?」


「あの惨劇だよ。ドレスの大洪水が起きて、お前の家族が──」


 アグイの言葉に、俺は空の容器をテーブルに叩きつけた。音の反響に周囲が驚いた視線を寄越すが、相手がモンスターだと分かるなり目を逸らす。


「すまないベルム。だがあれはお前のせいじゃない。悪いのは人間だ。人間のせいで皆死んだんだ」


「あれは大雨と、俺の弱さが原因だ。人間のせいではない」


「何を言ってる、悪いに決まってるだろう? あいつらのせいで大洪水は起こり、地上に逃げた連中は皆殺しにされたんだぞ?」


 アグイの言葉を聞きながら、俺は頭に過る記憶から逃れようとした。雨の濁流に全ての景色が薄れ、色濃いトラウマが視界を過っていく。


「それでも雨自体は人間が起こしたものじゃない。もし何かを恨みたいなら、神でも恨むしかない」


「神をって、お前正気か?」


「正気な奴はモンスターなんて呼ばれないさ。だが少なくとも俺は神を信じているよ。信心深く信じて、腹の底から恨んでいる」


 そう言うとアグイは目を伏せて、身体をフルフルと震わせた。今度はこいつが容器叩きつける番かと思ったが、彼は息を一つ吐いて落ち着きを取り戻した。


「やっぱりお前、変わったよな。あの人間嫌いだったお前がよ」


「伊達に100日近くも経ってないからな。俺達だって生物なんだから学習し成長する。こんだけ経てば、産まれたての赤ん坊だって性を知る歳になる」


 アグイはぼんやりと見つめていた空の容器から目を離すと、ゆっくりと俺の目を見た。


「なぁベルム。幼馴染の友として答えてくれ」


「何だ?」


「お前、人間をどう思う?」


 思わぬアグイの言葉に、俺はつい黙り込んでしまった。アグイはそんな俺を見て、ふっと笑みを零す。


「いや、この話はまた今度にしよう。それよりもベルム、さっきお嬢さんの言っていた下水道の便利屋ってのは何だ?」


「ああ、その話はな──」


 俺はアグイに便利屋業の仕事を簡単に説明した。説明がてらに三匹のネズミと大蜘蛛を相手にした事を話すと、アグイは感心しきっていた。


「相変わらずの無双ぶりだな。じゃああのお嬢さんは、今はお前の助手って事か」


「そういう事になるな。興味本位とはいえ、厄介な拾いモンをしちまったよ」


 俺はキャットを空にすると、マスターにゲッコーを頼んだ。気を使ったのかマスターはゲッコーを持ってくると、そそくさとカウンターを離れて行った。


「お前はまだアグニと共に、ドレスで暮らしてるのか?」


「ああ。あんなゴミ溜めでも俺の故郷だ。あの町から離れるつもりはない」


「そうか。……なあアグイ。リヴィング・フォシルっていう連中の話を聞いた事は無いか?」


「リヴィ……、何だそれ? カクテルの名前か何かか?」


「最近ドレスの辺りで幅を利かせている宗教団体らしい。他種族入り乱れて、ゴキブリの復権とやらを熱心に布教しているとさ」


 俺の言葉にアグイは考え込みながら、左の触角をピクピクと揺らした。


「悪いが知らないな。少なくともドレスでは、そんな連中聞いた事も無い」


「知らないのも無理はない、俺も最近知った事だ。この話は忘れてくれ」


「よくは分からんが、無茶だけはするなよ? お前は思い立ったら直ぐに走り出す癖がある」


「ゴキブリだからな。走らなければ死ぬのが俺達の天命だ」


 俺の言葉にアグイは笑いながら空の容器を持つと、マスターの姿を探しに行った。俺はそれを見送ってからゲッコーを煽ったが、残念ながら空になっていた。


 小さく悪態を付きつつもどこか俺は、この空気に懐かしい楽しさを感じていた。

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