第三話
憂鬱
散々言ってきた事だが、俺は雨の日が嫌いである。出来るなら今日だって外へ出るのを避けたかったし、俺達の持つ鋭敏な感覚の全てを閉じてしまいたい程だった。自堕落に惰眠を貪り、貴重な1日を無下にしようとも、俺はこの日を無心のまま過ぎ去りたかったのだ。
だがそうもいかない事情が、今の俺にはある。そこにはあのお転婆で得体の知れない少女、ニコが関係していた。
飲食街シロヒゲ、僻地アマダレ、そして退廃区ドレス。三つの地下街の中心にある歓楽街ツナギメに今、俺はいた。傍らにいる相棒は心許ないチャバの若造で、周囲に流れる空気に気圧されていた。
「何度も言うが、お前まで付き合う必要は無いんだぞ?」
「アンタのせいでここまで来たんだ。最後まで付き合わせてもらう」
「そうか、ならもう何も言わん」
そう言って目先にある光景を、俺は眺めた。多様な種族が虚ろな目で俺達を睨み付け、ネコの威嚇のように翅音を唸らせている。健全な話し合いが通じる連中では無いのは明らかだ。
今回の依頼にはいつものような大きな敵は出てこない。薄汚いドブネズミもいないし、おとぎ話の大蜘蛛も現れない。
代わりに現れたのは、地下で切磋琢磨し合った同胞達だった。同胞達はみな虚ろな目線で俺達を眺め、いつでも飛び掛かれるよう初順動作を繰り返している。
鋭く研ぎ澄まされた感覚が、全身を巡る感触がする。同胞と戦うのは久方ぶりだ。俺達の十八番であり生き様そのものであるこの能力を、仲間に使う日が来たのはいつぶりだろうか。
「さあ、行くぞ」
俺は一息つくと小柄なチャバと共に、
メトロの旅立ちを見送ってから、10日が経った。俺は233日になり、少女──ニコもまた一回り大きくなった気がした。初めて会った時は豆粒のようだった体型も、今は出るとこも出て女の身体になり始めている。
「ねえベルム、今日はマスターのとこに行かないの?」
「ん?」
ニコの言葉に、俺は姿勢を変えて彼女を見た。出会ってから20日近く経つが、見る度に彼女の純白の輝きには少し驚いてしまう。来れば3日で身も心もドブ色に染まると言われる地下道でも、彼女の身体は輝く白さを保ったままだ。
「ねぇ、行こうよ。どうせ依頼も無いんでしょう?」
揚々とした彼女の言葉に、俺は息を漏らすのを堪えた。メッサーシュミットを紹介してからというものの、彼女は何かと理由を付けて店に行こうとする。どうやらマスターのカクテルをいたく気に入ったようだ。
だが飲食店に無一文の大食らいを連れて行く程、怖いものは無い。彼女と暮らし始めてからというものの、俺の貯蓄は減り続けるばかりだ。
「特に行く理由も無い。食料も十分にあるしな」
「たまには気分転換が必要でしょう? アナタここ最近、まともに外も出てないじゃない?」
「気分を転換するにも、転換する為の気すら湧かないんだ。行きたければ一匹で行け」
「何よ、屁理屈ばっかり」
そう言って突っぱねると、彼女は本当に一匹で家を出て行った。
すっかり馴染みと化した彼女ならマスターにツケが利くので、今日もそうやって何杯かひっかけに行くのだろう。今では地下道の連中とも馴染み、一部からは〝地下の
一匹取り残された俺は何をするでもなく、ぼんやりと部屋の隅を眺めていた。騒がしい彼女との生活に慣れ過ぎたせいか、シンと鎮まった部屋はどこか借り物のように感じる。
耳を澄ますと、壁に生えたパイプから小刻みなリズムが流れてくる。外はもう5日近く雨が降り続いており、地上でも地下でも同胞達はお祭り騒ぎをしていた。
雨は俺達にとって恵みの日でもある。純度の高い水が垂れ流れ、薄暗い雲は俺達の姿を隠し、人間の往来も少ない。油断してネコに食われたり、人間に踏み潰されたりして死ぬ奴が増えるのもこの日だ。
(鬱陶しい音だ)
昔は俺も雨の日が好きだった。雨が降ると人間が家に留まりやすいので、そういう時は家族でよく外に遊びに出ていた。悪ガキだった俺は好き勝手に地上を走り回って家族の心労を増やし、妹はけらけらと笑い続けていた。
だが今は恵みどころか、雨粒がパイプを伝わる音すら忌々しい。清らかな雨も地に溜まれば汚水となり、ヘドロのようになって流れ溜まる先がこの地下道だ。美しさの欠片も無い地下の暮らしこそが、俺に相応しい場所なのだ。
(クソ……)
俺は一息つくと、腹に力を入れて起き上がった。慣れてきたとはいえ彼女を食い物にしようとする輩はまだ多い。薄汚いドレスの連中の餌食になる可能性や、ネズミの領地に入り込む危険は否めない。
何より彼女に好きに呑ませていると、マスターへのツケが溜まっていくばかりだ。噂では彼女は用心棒のクロイと飲み比べをして勝った事もあるという。地下一番の酒豪からベルトを奪ったウワバミは、こうしている間も俺の貯蓄を食い潰しているに違いない。
俺はまた一息つくと、部屋に響く水音から逃げるように彼女の後を追いかけた。
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