日の光
逃げ出した虫達にひとしきり感謝をされた後、俺達は地下へと戻って来た。嗅ぎ慣れた汚水の臭いも、今はどこか懐かしさと安心を感じさせてくれる。
「今回は世話になったな、兄さん」
メトロは俺と少女に小さく項垂れた。会った時よりパンパンに膨れ上がった腹が苦しそうだが、そんな様子はまるで見せない。
「別に大した事をしていない。やった事と言えば、この娘のお
そう言うと少女は俺を睨み付けたが、それを見たメトロは大きく笑う。
「あんたがいなければ、俺は今頃あの大蜘蛛の腹の中だ。本当に感謝してる」
「そうか、ならそれでいい」
「それで、例の話なんだが──」
俺はそこで前脚を持ち上げて、メトロを制止した。
「依頼内容はお前の友を下水に連れて帰る事だ。経緯はどうあれ、俺は依頼を全う出来なかった。お前は俺への報酬を拒否する権利がある」
「ちょっとベルム!」
「約束は約束だ。悪いが堪えてくれ」
そう言うと少女は俯き、メトロはまた笑い出した。
「やっぱあんた変わってるよな。本当にあのベムなのか? だが、俺が心の底からあんた達に感謝してるのは事実なんだ。遠慮なく聞いてくれ」
「そうか。だがあんた〝達〟ってのは何だ?」
「勿論兄さんと、そこのお嬢ちゃんだよ。それに今ここで言わないと、そこの嬢ちゃんにまた頭突きを食らわされかねないからな」
「あら、よく分かってるじゃないメトロ」
そう言ってメトロは喜びの一撃を躱すと、一息ついてから語り始めた。
「……俺がそこの嬢ちゃんに会ったのは、ドレスの下水道だ。俺はドレスにいる仲間への食料配達をしていたんだが、配達後にぼんやりと歩き回っていた嬢ちゃんに出会ったんだ」
メトロの告白に、俺も少女も目を見開いた。
「こいつがあのドレスにいただと……」
「ああ。だが会った時の嬢ちゃんの様子は、今とは全然違う感じだった。正直に言えばもっと大人しい、お淑やかな感じだったな。ここがどういう場所で、どういう暮らしをしているのかも知らない、産まれたての赤ん坊みたいだった」
「それが、本当の私なの?」
目に驚きと恐怖が入り混じった顔で、少女はメトロを見た。
「荒くれ者の溜まり場のドレスにいるのが妙でな。俺は嬢ちゃんを連れて、ツナギメ辺りまで来た。そこであのチームと出会ったんだよ」
「チームだと?」
聞き覚えのある単語に、俺は驚きながらメトロに言う。
「俺の言っていた依頼主だよ。奴らは嬢ちゃんを保護する為にやって来たと言い、礼として俺に大量の食事を提供して連れて行ったんだ」
「奴らは何と?」
「代表らしき奴はいたが、名前は聞かなかった。どいつも見覚えの無い顔で、種族もクロやらワモンやら入り混じる普通じゃ考えられないチームだった」
「そうか……」
「ただ奴らは自分達のチームを〝リヴィング・フォシル〟と名乗っていた。ゴキブリ達の現状を憂い、未来を発展させる為に活動しているチームだとな」
「
聞き覚えの無いチームだったが、単語自体は知っている。俺やマスターみたいな人間かぶれは人間の言葉を好むので、そういったものを嬉々として覚えたものだ。
「俺が知ってるのはこれだけだ。何か、嬢ちゃんの過去を掴めるのに繋がるといいんだが……」
「いや、十分だ。後は俺とこいつで探すさ」
メトロの情報は、俺に幾つもの予感をさせた。ゴキブリの復権という誇大妄想をするチームなど、俺以上に怪物じみている。それに初めて会った少女の様子の違い等、まだまだ知るべき情報は多そうだ。
不穏な空気を祓うかのように、少女は口を開いた。
「ねぇメトロ。貴方これからどうするの?」
「俺は……」
少女の言葉にメトロは一度俯くと、表情を変えて彼女を見た。
「俺はここを出て行く。ここを出て、本物の川を目指す」
メトロの言葉に少女は驚いたようだが、俺は何となくそんな気がしていた。
「覚悟はあるのか? 本物の川は地上のどこかにあるんだ。その先がどんなに危険かは、俺にだって分からんぞ?」
「兄さんだって覚悟を決めてあの大蜘蛛と戦い、俺の依頼を全うしたんだろ? 俺だって覚悟を決めて、俺の依頼を全うするさ」
「依頼?」
「生きて連れて行く事は出来なかったが、俺の腹にはまだ〝友〟がいる。こいつがいなくなる前に俺は川へと向かい、仲間達に生き様を伝えたいんだ」
そう言うとメトロは遠くを見た。その先に本物の川があるかのように。
「ベルムの兄さん、それに嬢ちゃん、本当に世話になった。二度と会う事は無いだろうが、達者で暮らしてくれよ」
「ああ」
「それじゃ、
そう言ってメトロは俺達に背を向け、人混み溢れる街へと消えて行った。
彼の姿が消えてから、少女は話しかけてきた。
「メトロ、無事に川に辿り着けるかな?」
「九分九厘、途中で力尽きるだろう。人間や動物らに殺されるか、諦めて地下か
そう言いながらも俺は、メトロの姿が目に焼き付いていた。彼の覚悟が俺の中で、ホタルの光のように小さく輝いている。
「だが、案外あいつもやるかもな」
「……うん、そうだね」
そう言って微笑む少女を、俺はじっと見た。少女はそれに気付くと、不思議そうな顔を浮かべた。
「な、何よ?」
「いや。そろそろお前にも、名前が必要だなと思ってな」
「名前?」
「ああ。嬢ちゃんだの白い少女だのは、いい加減聞き飽きただろ?」
俺はそう言うと、自分の中にある
暴力的。
神秘的。
健啖家。
気丈夫。
純白性。
微笑み。
そして希望。
幾つも浮かぶ単語の中で、俺は一つの単語が浮かんだ。
「ニコ……」
「にこ?」
「
「それ、どういう意味なの?」
「俺が
そう言うと少女は素っ気なく「ふうん」と言いながらも、まんざらでは無いようだった。「アンタもたまには良い事言うじゃない」とでも言いたそうな、そんな顔だった。
その顔が何となく癪だったので、俺は付け足した。
「まあ、人間が使ってた時は違う意味だったけどな」
「え、そうなの?」
「ああ。確かサルの名前だったかな? お前にピッタリの名だ」
そう言うと少女は小さな口を俺に向けて、目にも止まらぬスピードで俺の翅に噛みついてきた。
「痛え! 止めろ!」
「うるはい!」
俺はそう言いながらニコを振り切ろうとしたが彼女の咬筋力は物凄く、俺の身体から全く離れる事は無かった。
残酷に口を開く彼女の姿に、俺は先ほど対面した鬼軍曹の姿を見重ねた。
終
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