ブラウン・ハンツマン
思えばこれがいけなかった。この時はこの場から立ち去る事だけを考えて、隠密に動く事を忘れていたのだ。
三匹並んで部屋を出ようとした時、どこからともなくその人間は姿を現した。人間は俺達を見て絶叫すると、地響きを鳴り響かせながら部屋中を走り回った。
「おいおいおいおい、マズいぞ兄さん!」
「逃げましょうベルム!」
「あ、ああ……」
慌てる二匹とは裏腹に、俺は気の抜けた返事しか出来なかった。その人間の様子は、俺が知っている「ゴキブリを見つけた人間」とは違っていたからだ。その顔と声には、どこか歓喜に似ていたものがあったのだ。
人間は俺達から逃げ出す事も追いかける事も無く、並んだ檻の奥から一際大きい檻を取り出すと、俺達がまだいる部屋に〝そいつ〟を解放した。
瞬間、メトロは身体を恐怖に慄かせた。
「どうしたメトロ?」
「あいつだ……。
「悪魔だと?」
最初は分からなかった俺もそいつの全貌が見え始めると、身体の底から恐怖が沸き上がるのを感じた。
八本の脚に全身を纏う体毛。老木のような体色に、ネズミを超える体格。ドブネズミやノラネコのような身近な天敵ではない、幼少時の寝物語でのみ語り継がれる怪物が俺達の前に現れた。
「
「ぶら、何?」
「説明は後だ、今直ぐ檻に戻れ!」
俺は少女に向かって叫ぶと、まだ理解出来ていない少女を引っ張って檻の収められた鉄箱の隙間に潜り込んだ。
俺は隙間から悪魔を見た。奴に気付かれるよりも先に逃げ出せたのは幸いだった。そのグロテスクな頭には八つの瞳が付いており、今はそれらを鈍く光らせながら周囲を
俺の隣で、少女が息を切らせながら言う。
「何なのアイツ? あれは生物なの?」
「あれは大型の肉食蜘蛛だ。人間の頭ほどある体格にゴキブリを追い越せる脚力、トカゲやネズミすらも餌にする凶暴さを持った怪物だ」
解き放たれた大蜘蛛は獲物がいない事に拍子抜けたように、コソコソと部屋中を歩き回っていた。奴を解き放った人間もまた俺達を見失ったようで、その不思議な顔立ちが苛立ちに歪めるのを俺は見逃さなかった。
「ベルム、勝ち目はあるの?」
「面と向かった勝ち目は万に一つも無い。奴に見つかったら即終了だ」
「じゃあどうすれば──」
「今は隠れながら、逃げ出すチャンスを探すしかない……」
大蜘蛛も人間も、完全に俺達を見失っていた。このまま諦めてくれたら幸いだったが、人間は座り込んでいた足を上げると、近くにあった檻から何かを取り出した。
人間の手に捕まって出てきたのは、ずんぐりとした茶色い虫達だった。大き目のダンゴムシみたいな連中で、連中は床に放たれると、何が起こったかも分からないように周囲を見渡していた。
瞬間、歩き回っていた大蜘蛛の纏う気配が変わった。まるで周囲に流れる安穏とした空気から逃げ出したかのように、俺の視界から忽然と消え去ったのだ。
気付いた時には大蜘蛛は、放たれた五匹の内の一匹に食らい付いていた。バキバキと醜悪な音を立て、組み伏せられた虫は絶命していた。
俺は絶句した。恐らくあの虫は、自分が
同胞の死に気付いた四匹は一目散に逃げ出したが、大蜘蛛はそれすらも見逃さなかった。またしても見えない速度で二匹が捕まり、茶色い身体が噛み砕かれた。
凄惨な光景に俺達は言葉を失い、一時は呼吸をする事すら忘れていたようだった。呼吸孔に空気が戻る感触がしたのは、四匹目が殺されてからだった。
俺の隣でメトロが叫ぶ。
「あれだ……。俺の時も人間はあいつを解き放ち、ものの数分でコオロギ共を全滅させたんだ」
「確かに、あれは厄介だな。何より厄介なのは──」
俺はそう言って大蜘蛛を見た。よりにもよって奴はこの家の唯一の脱出口である、庭への出口の中心に立っているのだ。ここから逃げ出すには奴の前を通り過ぎなくてはならない。
だが奴は俺達が普段相手にする、ネズミやネコとは訳が違う。体格はネズミよりも大きく、俺達を凌ぐ脚力と広範囲を見渡せる視界を持っている。仮に奴を食い止めたとしても、次には奴よりも恐ろしい人間が待っている。
作戦を練れば練る程に潰されていく、悪夢のような思いだ。どうするべきかと考えていると、目前からダンゴムシモドキがこちらにやってきた。
モドキは見るからに憔悴しており、助けを求めているかのようだった。
「おい、こっちくんな!」
「止めろメトロ! 騒げば余計見つかりかねん」
俺はメトロを窘めると、逃げてきたダンゴムシモドキを匿った。モドキは何やら喋っていたが、生息域が違うらしく言葉が通じない。
俺は大蜘蛛が追ってきやしないかと姿を探したが、奴は部屋の一角でへたり込みながら、捕らえたモドキで腹を満たしていた。
「ねえ、あいつ何してるの?」
「恐らく体力を回復しているんだろう。どうやら持久力は無いらしい。自慢の脚力も、あれじゃ持ち腐れだ」
「じゃあ、これってチャンスじゃないか?」
メトロの言う通り、ここへきて千載一遇の好機がやってきた。あのバケモノ蜘蛛が無力化されている今こそ、脱出の時だった。
だが俺は、その光景のどこかに〝違和感〟を覚えた。部屋の中にあるべきものが、不意に喪われたような感触がしたのだ。
その正体は直ぐに分かった。先ほどまで座り込んで大蜘蛛を眺めていた人間がいなくなっていたのだ。見れば人間は檻の並んだ戸棚の向こう側で、何やらゴソゴソと動き回っていた。
その時俺は、人間の手に〝緑に光る筒〟のようなモノが見えた。人間は緑の筒を持ちながら、こちらに向かってきた。
「マズいぞアレは……」
「どうしたのベルム?」
「今直ぐ壁を登れ! 出来るだけ高くだ!」
メトロは人間の手元を一目見ただけで俺の言葉を理解し、一目散に上へと登っていった。俺もまた自慢の脚力で壁をよじ登り、安全圏まで避難した。
だが少女だけは、いつまで経っても上って来なかった。見れば少女の小さな身体にダンゴムシモドキが圧し掛かり、身動きが出来なくなっていた。
「クソ、あいつ!」
「兄さん駄目だ、もう間に合わねえ!」
「黙ってろ!」
俺は急いで駆け寄ったが、それでも一足遅かった。人間の手に握られた筒は高濃度の神経ガスを放ち、床でもがいていた二匹に降りかかった。
数秒に過ぎない時間が100日にも思える程に、俺は目前の光景に全てを奪われた。死の瀬戸際を渡る時に見るスローモーションの光景を、俺は彼女の瀬戸で見ていた。
目の前が真っ暗になる思いだが、この感触には懐かしさがあった。俺の意識は100日の過去を飛び、目の前で死んだ彼女の事を思い出した。
(兄さん、私は幸せだったよ?)
意識が遠のく思いだった。アレを食らって生きているゴキブリなどいないのは、200日も生きれば嫌という程分かる。俺は白いガスの中にぼんやりと映る少女の姿に、身体の奥底が掻き毟られる思いだった。
ガスを噴出した人間は満足したらしく、その場を離れて行った。俺はそれを確認すると床へと向かったが、メトロがそれを止めた。
「兄さん、まだガスが残ってるんじゃ……」
「もう殆どが空気に分散された筈だ。それに、
俺は床に降りて少女の身体を見た。ダンゴムシモドキの方は既に絶命しており、少女の身体はもがいたモドキに覆い被されて殆ど見えない。僅かに白い手足や触角が隙間から覗かせているのが、彼女がそこに存在する証だった。
俺はダンゴムシモドキを跳ね除けると、少女の亡骸を見た。少女は今にも目が覚めそうな程に美しく、生き生きとしていた。
雨に打たれる感覚がした。どうやらあの時の大粒の雨は、まだ俺の背中を濡らしているらしい。俺の大切な者を洗い流した大雨は俺の罪を洗い流す事は無く、俺の身体を濡らし続けている。
その時、俺の身体越しに少女の脈動が聞こえてきた。
「ベルム、重い……」
その言葉に俺は少女を見た。
「おい、無事か? 無事なのか?」
「うん、何とも無いみたい……」
告白するがこの時俺の中では一瞬、雨が晴れた感触がしたのだ。俺の心に陽光が差し込み、誰かが生きていてくれるという喜びに俺はひたすら神に感謝した。
「嬢ちゃん、生きてたか!」
少女が動くのを確認すると、メトロもまた壁から降りてきた。
「ええ、無事よ。というか何だったのよアレ……」
「神経を麻痺させる毒ガスだ。普通の奴ならイチコロなんだが……」
俺は少女に覆い被さっていたダンゴムシモドキを見た。モドキは彼女に介抱された時の姿勢のまま固まって死亡している。
「恐らくこいつが被さっていたお陰で、ガスの影響が少なかったか無効化されたのだろう。あるいはガス自体が古く、腐っていたのかもな」
そう言うと少女はにっこりと微笑んだ。
「ふうん、私って凄くラッキーね」
「ああ、悪運が強いよ」
「ひょっとしてベルム、心配した?」
「残念だがそうでもない。また俺の食い扶持が減るんだからな」
俺がそう言って少女を見ると、途端に少女は不満そうな顔を浮かべた。
「そもそも問題は過ぎ去った訳じゃない。……見ろ」
俺の視線の先には、既に食事を終えて機敏となった大蜘蛛がいた。
「どうやら回復したようだな。ここからが本当の勝負だ」
だが俺はその光景を、どこか冷静に眺めていた。友の死にメトロが一つの覚悟を決めたように、俺もまた覚悟が定まっていた。
頭の中では既に、脱出のプランが出来上がっていた。俺は一息つくと二匹を見た。
「メトロ。俺が合図をしたらそいつを連れて、庭から逃げ出してくれ」
「あ。ああ、分かった。でも兄さんは?」
「俺は囮になる」
瞬間的に白い少女が反発したが、俺はそれを押し止めた。
「ここで呑気に待っていれば、いずれ奴に見つかる。そうでなくとも人間は次に、広範囲型のガス兵器を使うもしれない。そうなれば俺達だけでなく、ここにいる虫達も含めて全員お陀仏だ」
「でも、でも……」
少女は何か言いたそうだった。先程まで自分が死にかけた事実など忘れ、今は俺の心配をしている。
俺は少女を見ると、しょげた頭に自分の触角を乗せた。
「俺達が生きる上で必要なモノは何か、覚えてるか?」
「覚悟でしょ?」
「そうだ。だが覚悟以外にも、もう二つある。その内の一つは〝知恵〟だ」
「知恵?」
「そうだ。言っては何だが、俺はこの三匹の中の誰よりも賢い。お前らのどちらかが俺の策の他に、逃げ出す手立てが思い浮かぶのか?」
「でも、だからって、囮は……」
少女は恐らくフクの事を思い出しているのだろう。奴もまた俺達を逃がす為に囮を引き受け、ネズミ共を道連れにその命を燃やし尽くした。
「安心しろ、俺は必ず生きて戻る。俺だって
俺は少女をメトロに預けると隙間を出て、大蜘蛛の前に出た。
大蜘蛛は俺に気付くと、ゆっくりと八本の脚をこちらへと向けた。
「もっと離れてろ、お前らまで気付かれたらまずい……」
少女とメトロは俺から離れ、出口の最短距離の箇所をとった。
俺は一つ、小さく呼吸した。産まれて初の大蜘蛛との追い駆けっこだ。勝てばまた明日の陽射しを拝め、捕まれば無残に食い殺されて俺の生は終わる。
だが俺には死ぬ気も捕まる気も無い。俺にはまだやる事がある。俺はまだまだ生きて、この世界を眺めていたいのだ。
「今だ、行け!」
部屋中に響き渡りそうな大声を上げて、俺は隙間を飛び出した。
大蜘蛛は直ぐに俺にピントを絞ると、たったの二歩で俺との間を身体五つ分程度まで縮めた。
「ふざけた速さだ!」
大蜘蛛の様子に、人間が歓喜の声をあげた。俺は飛び上がって檻の並べられた鉄箱の表面を渡り、上へ上へと登っていった。背後には当然のように大蜘蛛が迫ってきており、檻の中の虫達が恐怖の雄叫びをあげていた。
俺はちらと下を見た。庭への道を二つの点が走っているのが見える。俺に夢中で大蜘蛛も人間も彼らには気付いていないようで、メトロと少女は上手く庭へと逃げ出した。
奴らが逃げ出したならば、最悪俺が死んだとしても半分は成功のようなものだ。だが俺は生を諦める事無く、檻の表面をどんどんと蹴り上げていく。
俺は大蜘蛛の狙いが定まらないよう、出来るだけジグザグに走った。奴の瞬発力は凄まじいが咄嗟の方向転換は出来ないのは、ダンゴムシモドキを狩る動きで分かっている。奴が俺を目掛けて飛んだその瞬間に、俺は反対の方角へと走り続けた。
それはコンマ数秒の世界、時計の針が動く瞬間の戦いだった。俺は時に振り切り、時に隙間へと逃げ隠れながら大蜘蛛からの攻撃を躱し続けた。持久力の勝負ならこちらに分があったので、間一髪で生き延び続けた。
天井までたどり着くと、俺は大蜘蛛と対面した。大蜘蛛は逃げ場を失った俺を嗤っているようにも見えたし、思慮深い顔で健闘を称えているようにも見えた。
例え称えてくれていようが、俺達が捕食者と被捕食者の関係に変わりは無い。大蜘蛛はそのグロテスクに開く大口を持ち上げて、じわじわと俺ににじり寄って来た。
「なぁ
俺は出来るだけ時間を稼ぐべく、大蜘蛛に向かって話しかけた。俺達が生きる上で必要な条件は三つある。その内の二つは知恵と覚悟だが、三つ目が最も重要だ。
三つ目は〝臆病さ〟だ。周囲の環境に驚き、他生物に恐怖し、何としても生き延びようと抗う生き意地の汚さこそが、太古の時代から俺達を生き延ばした至宝なのだ。
だが俺はもう、その世界では生きられない。俺に子孫を残す力は無いし、同胞からは怪物扱いされるバケモノだ。俺は俺達の世界においては必要の無い、何も残せぬ存在なのだ。
だからこそ俺は、それを否定して生き続ける。俺は今この時この一瞬に、全てを賭けて生きていく。
「今だ!」
俺は覚悟を決めると、壁から地面へと思いっきり跳躍をした。
俺達にも翅はあるが、セミやホタルのように〝上へ〟飛ぶ事は出来ない。せいぜい空中を滑空する程度だ。
だからこそ〝滑空する技術〟はそれなりにあり、高度があればあるほど正確な場所へと着地する事が出来る。
俺が目指した〝着地点〟は最初こそ気付かなかったが、俺の茶色い身体が近付くにつれて呆けた顔を青ざめさせていった。
「そら、着地だ」
俺はそう言うと、部屋の中心で座っていた人間の顔面へと着地した。人間は俺の感触を感じ取ると、狂気の雄叫びを上げながら暴れ回った。
人間が俺達の存在を酷く嫌っているのは知っている。人間は俺をどうにかして剥がそうとするが、俺はその手を避け続けた。天然の狩人たる大蜘蛛と比べればパニックに陥った人間の手など恐ろしくも無い。俺は奴が狂乱するのを知っての上で、奴の顔面や首筋を走り回った。
完全にパニックに陥った人間は部屋中を暴れ回り、さすがの大蜘蛛もその様子に部屋の隅で縮こまるしかなかった。俺達にとって奴が悪魔であるように、奴にとっても人間は悪魔なのだ。
だが今だけは俺こそが悪魔だ。暴れ回る人間は次々と檻をひっくり返し、多くの虫達が解放されて逃げ出した。虫達は外へ出て自由の身となり、気付けば大蜘蛛もどこかへと消え去っていた。
広々とした部屋の中で、残された生物は俺と人間だけになった。人間は俺をやっとの思いで捕まえると、熱く脈動する掌へと俺を閉じ込めた。
人間の掌の中に入るのは久しぶりだ。命の危機ながらも、それは不思議と懐かしい感触だった。あの時はこんな湿った感じではなく、暖かさと心地良さを感じていた気がする。
このまま俺を握り潰すか叩きつける気かもしれないが、そうはいかない。俺は脈動する皮膚にガブリと噛みつくと、人間は痛みの余り掌を開かせた。
俺は残された力の限りで掌を蹴ると、そのまま出口へと滑空した。人間は俺を見て何やら喚き散らしたが、俺の知る由ではなかった。
出口には逃げ回る虫の他に、メトロと少女がいた。メトロは俺を見ると驚いたような顔を浮かべ、少女は今にも泣き出すような怒っているような顔をした。
「無茶苦茶だぜ……、ベルムの兄さん」
「
「……そうだったな」
俺はそう言ってから、少女の顔を見た。
「約束は守ったぞ?」
「うん、おかえり」
「ああ。……ただいま」
俺はそう言って一息つくと、少女と触角を合わせた。
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