駆け引き

 7日前の夜中。メトロは運び屋の仕事を終えると、揚々とした気分からつい地上に出てしまった。頼まれた仕事の支払いがかなり良く、気が緩んでしまったという。


 アマダレ通りは飲食店も多くあり、彼はどこか適当な店で祝杯をあげようと思った。シロヒゲ程に店は多くないがその分人通りも少なく、仕事終わりの場所から近い事もあって丁度良かった。


 並んだ店を適当に冷かしていると、メトロはある一軒の前で足を止めた。真夜中で人間の家はどこもとばりが降りていたというのに、そこだけは陽の光に包まれていたのだ。暗闇の中に灯る小さな輝きに、メトロは目を奪われた。


「単なる街明かりだったんじゃないのか?」


 俺はそう口を挟んだが、メトロは頑なに違うと言い続けた。彼が言うにはその光は陽光や炎のようでありながらも、どこか〝優しみ〟を感じさせる光だったらしい。


 明かりに引き寄せられる小虫の如く、メトロはふらふらとその家に入ってしまった。光の美しさに目を奪われ過ぎて警戒心を疎かにし、そこで人間に取っ捕まってしまった。


 歪に脈打つ人間の掌に包まれながら、メトロは恐怖した。人間に見つかれば即殺される俺達にとって、捕まるという事は命を弄ばれる辱めを受けるに等しい。


 凄惨な死を覚悟したメトロだが何故か殺されず、既に収監されていた見た事も無い虫の檻の中に入れられた。彼を収監すると、人間は檻の置かれた部屋から出て行った。


 メトロは人間の行動を訝しみながらも、ひとまずの命を繋ぎ止める事に安堵した。幸いにも同じ檻に入れられていた虫は肉食種ではないようで、メトロはそいつを無視して脱獄の手立てを考え始めた。


 天を見上げると、檻の蓋には空気を通す為の穴が開けられていた。それは自分の身体を優に通す幅を持っており、ゴキブリを舐め切った杜撰ずさんな管理に彼は笑みを零した。


 いつでも逃げ出せる事を察したメトロは気を良くし、同じく収監されていた虫に話しかけた。気を良くしていたので一緒に逃がしてやる事も考えたが、そいつはそれを断った。


「どうして断ったのよ?」


 そう言ったのは、俺の隣でカクテルを嗜んでいた少女だった。見れば勝手におかわりをしたらしく、カクテルの中身がストリートラットからハウスセンチピードに変わっている。


「い、いや、本当は出たいと言ったのかもしれねえ……。ただ奴の言葉のが酷くてな。俺には『出ナイ』と聞こえたのが『出タイ』だったのかもしれない。今となっては分からん」


 メトロは急な彼女の発言に動揺したようだが、話を続けた。


 檻で一晩を過ごしたメトロは、人間が自分の為に持ってきた餌に驚いた。地下では絶対にお目にかかれないような、新鮮な野菜と瑞々しい果実だ。


 ますます気を良くしたメトロはそいつにむしゃぶりつくと、久方ぶりの満腹感を味わった。満腹感に負けて檻から逃げ遅れると、次の日も同じような新鮮な食事が与えられた。


 この時にはもうメトロは心の底から安心しきっており、このままここに居るのも悪くは無いかもしれないと考え始めていた。


 だがその時初めて、同居した虫が自分に話しかけてきた。


「逃ゲテ」


「……は?」


「ココ、危ナイ。逃ゲテ」


 最初は片言な言葉を話す未知の虫に警戒を覚えたが、次第にメトロは持ち前の人懐っこさから話を膨らませていった。


 彼(実際は男なのか女なのか分からなかったらしい)曰くここは虫達にとっての地獄であり、あの人間はそれを見ながら微笑む悪魔のような存在だという。


 メトロには何故この虫がこの環境を恐れるかが分からなかった。確かに人間は恐ろしい存在だ。俺達だけでなく殆どの生物が彼らを恐れ、悪鬼の様な存在として語られている。


 だが名も種族も知らない彼の恐怖と絶望と、いつも何処か遠くを見つめるような視線はメトロの心を確かに動かした。


 最初は逃げ出すのを絶望視していた彼も、話している内にここを出て下水道に帰りたい旨を言ってきた。親しくなった彼の願いを叶えてやりたくなったメトロは彼を背負って天井を目指したが、自分とは違い幅のある身体を持った虫は天井の穴を抜け出る事は出来なかった。


 一旦檻に戻って対策を練ろうと思った時、その残虐な事件は起きた。


 次の日。いつも餌をくれる人間の様子が少しおかしく、メトロは嫌な予感を覚えたという。周囲を見渡せばメトロの他にも収監されたと思われる虫達がおり、その内の数匹が人間の手によって檻の外に放たれた。


 そこから先はメトロが恐怖のあまり黙り込んでしまい、話の筋が見えなくなってしまったので分からない。


 ただ彼はボソボソと呟くように、「悪魔デモンが出た」と繰り返した。


 恐怖に駆られた彼は人間が部屋を出た瞬間に脱獄し、同居の虫に必ず助けに戻る約束をして家から脱出した。


 一心不乱に走り抜けて一晩かけて見慣れた下水道に辿り着くと、彼はそのまま丸1日を眠りに使ってしまい、今日になって彼を助け出す依頼をマスターにしたという訳だ。



「これで俺の話は終わりだ。……改めて依頼を言うよ。俺の依頼は、人間の檻に囚われたあの虫を救う事。そして無事に下水道に帰って来る事だ」


 そう言って語るメトロの目には、強い意志が宿っていた。どうやら本気でその虫を救いたいらしい。


「助けに行ったとしてどうする? 俺に人間の造った檻を壊せというのか?」


「大丈夫だ。確かに檻自体は歯が立たないが、俺が抜け出た穴の方はそれ程硬度も無かった。二匹で齧れば十分に広げられる筈だ」


「そう言われてもな……」


「なあ頼むよ。約束なんだ。何も人間や悪魔とやり合えとは言わない。あいつと逃げ出して下水道に帰って来られれば十分なんだ」


 全ての話を聞き終えると、俺はマスターにカクテルのおかわりをした。ゲッコーの次は青大将アオダイショウをロックで飲むと決めている。そうすると頭がキンキンに冴えてくる。


「お前の話で一つ、気になった事がある」


「何だ?」


「そのお友達は、俺達とは違う種族なんだろう? 何でゴキブリでもない奴が、こんな薄汚い地下に用がある?」


「それは……」


 そう言うとメトロは頭を捻り、うんうんと唸り出した。どうやら彼自身も分からないようだし、そもそも何故俺がこんな質問をするかも分かっていないようだ。


「……まあいいだろう。要はそいつを助け出して、ここに戻ってくればいいんだな?」


「ああ、そうだ。そういう事だ! やってくれるか兄さん?」


「いいとも。ただし条件がある」


「条件?」


 俺はそう言ってメトロの顔を見た。ゴキブリにしては警戒心の薄い、草食じみた目つきだ。こんな奴が150日も生き残れたのも驚きだが、それ以上の驚きをこいつは持っている。


 俺は少女の肩に前脚を乗せて言った。


「お前、本当はこの娘の事を知っているんだろ? 無事に依頼を終えたら、そいつを洗いざらい話して貰う。そいつが条件だ」


 俺の言葉に、メトロも少女も目を見開いた。


「ちょっと待ってベルム。彼が、私の事を知っているの?」


「ああ、間違いなく知ってる。お前の顔見て驚いたり見惚れたりする奴はゴマンといたが、ビビる奴なんざ一人もいなかったよ」


 俺の言葉にメトロは完全に動揺を隠す事が出来なくなり、毒餌を食って悶えているかのような様子を見せ始めた。


「ま、待ってくれベルムの兄さん! 悪いけど、そいつは言えない決まりなんだ!」


「決まり? 誰かがお前に口止めしてるのか?」


「ちが、そうじゃなくて……」


 煮え切らないメトロの態度に、俺はハッキリと言い切る。


「そっちに決まりがあるなら、俺も教えておいてやる。俺達が生きる上で必要なのは、力でも逞しさでも無い。覚悟だ。覚悟こそが瀬戸際の命を繋ぎ止め、明日の陽射しを拝めるんだ。他者に命を賭けさせておいて自分は安全な所にいるなんて根性は、俺達の世界ではナシだ」


 そう言い切るとメトロはぐうの音も出なくなった。俺は一息ついてから、再度話しかける。


「なあメトロ。お前の友情はその程度なのか? お前は命からがら人間の家から逃げ出し、それでも友を救う為にもう一度悪魔とやらの住まう地獄に向かおうとしているんだろう?」


「だが俺がばらしたら、あいつらが何をするか……」


「今更何に怯えるんだ? 人間の手から友を救い出す事が出来たなら、お前は二つの地獄を潜り抜けた勇士だ。お前を口止めするあいつらとやらは、人間よりも恐ろしいものなのか?」


 そう言うと、浮ついていたメトロの瞳に力が宿り始めた。俺に依頼を切り出した時のような、強い覚悟が滲み出てきた。


「……やっぱあんたは、あの伝説のベムなんだな。あんたと話していると勇気が湧くし、自分まで怪物になっちまうような気がするよ」


「誉め言葉として受け取っといてやる。それで、どうするんだ?」


「約束するよ。あそこから生きて無事に帰って来れたなら、俺はそこの少女について知っている事を全て話す。もっとも、知っているのはほんの少しだがな」


 そう言うとメトロは前脚を差し出してきたので、俺はそれを受け取った。


「交渉成立だ」

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