福星軒での攻防

 饅頭のようにふっくらとした身体でありながら、ネズミは恐ろしく足が速い。俺達が十歩で進む距離を、奴らは三歩で到達してしまう。この厄介な相手に対し、足の速さで翻弄するのは無意味に等しい。


 それにネズミは噛みつく力が桁違いに強い。噛まれれば人間だって悲鳴をあげる。あの薄汚く染まった前歯に捕らえられれば、俺の身体はいともたやすく真っ二つになるだろう。


 使える武器は俺達の武器ではなく、俺の武器だけだ。俺という存在、ワモン鐘夢ベルムがワモン鐘夢として生きてきた日々の糧と知識を、この勝負に活かすしか生き残る術はない。


 俺は店を出た時の光景を思い出し、頭の中を整理した。勝負は一瞬。これに失敗すれば俺の216日の生涯は終わり、下水の便利屋もめでたく廃業だ。


 俺はネズミの隙をついて前をすり抜けると、地面に転がっていたドリンク缶の中に滑り込んだ。中には数滴の甘い蜜が輝いていたが、今はそれを嗜む余裕も無い。


 缶の入口は狭く、ネズミなら鼻先しか入ってこられない。怒りに燃えていたネズミは俺を追いかける勢いのまま、まんまと鼻先を缶に突っ込んできた。


 自分の身体以上に大きな存在が目の前で雄叫びを上げながらもがいているのは不気味だったが、俺は鼻先のハマったネズミを見てほくそ笑んだ。


 俺はネズミの鼻先によじ登ると、ネズミの鼻に噛みついた。人間はこういう状況を「窮鼠きゅうそ猫を噛む」と言うらしい。もっとも今は噛まれる方がネズミであり、俺はゴキブリだが。


 ネズミは先程とは違う雄叫びを上げながら、俺の入った缶ごとブンブンと振り回した。空とはいえ空き缶を俺ごと持ち上げるとは、とんでもない馬鹿力だ。


 一瞬の浮遊感の後、ネズミは缶を外す事に成功した。これで諦めてくれるかと思ったが、ネズミは何やら缶の側面をゴリゴリと掻き始めた。


 直ぐに何をしているのかが分かった。奴は入り口から入るのを止め、自慢の前歯で缶自体を破ろうとしているのだ。


 まさかここまで執念深いとは思わなかった。自分の傷だけでなく、仲間をやられた事にも憤っているのかもしれない。削る速度は遅いが、それでもこのままでは俺の命が一晩も持たないのは確実だ。


 もはやここが最後の勝負だ。俺は助走を付けて缶から飛び出すと、ネズミの後ろに回り込んだ。


 ネズミは俺の姿に気付き、追いかけてきた。鼻先からは一筋の血が流れ、目には手負いの獣らしい不退転の意志が燃え上がっている。


 俺は壁を走りながら、目的の場所を探した。ネズミとの距離は俺の身体三つ分も無い。


 目的の場所に辿り着いたが、そこは行き止まりだった。もはや俺とネズミの距離は身体一つ分も空いておらず、こうなればネズミは俺が力尽きるまで口を開けておけばいいだけだった。


 ネズミは勝利を確信したのか、俺の目にはほくそ笑んでいるように見えた。ネズミの笑顔がどういうものかは分からないが、少なくとも俺を嘲っているのだけは確かだ。


「大した奴だよ、お前は。同族ならいい友達になれたかもしれないのにな」


 ネズミに俺達の言葉は分からない。それは恐らくネズミも人間も同じだろう。俺達は基本的に仲間の言葉しか分からず、話し合って分かり合う事は出来ない。


 だがそれはネズミも同じだ。奴らにもまた、話し合いが無駄な〝天敵〟が存在している。


 ほくそ笑んでいたネズミの元に、白い閃光が襲い掛かった。突然の衝撃にネズミは気付いておらず、気付いた時にはノラネコの口の中にいた。


 ネズミはギィギィとネズミ語で何やら喚いていたが、ネコにそれが分かる訳もなくあっという間に咀嚼されて呑み込まれた。


 餌に満足したネコが去って行ったのを見届けると、俺はようやく地面に足を付けた。捨て身の作戦が功を奏した。


 福星軒を出た時に聞こえた稲妻は、ネコの喉を鳴らす音だった。奴らは俺達の事も食らい弄ぶが、ネズミはそれ以上に標的になりやすい。単純に食い応えの問題だろうが、今回は奴らに救われた。


 俺は一息つくとドリンク缶に立ち寄り、そこで喉を潤した。久しぶりの地上の甘水の味は例えようもなく甘美であり、俺の疲れを癒してくれた。


「最後の最後に、俺にも福が回って来たかな」


 俺は缶から出ると、今度は何の邪魔も無く地下へと帰った。

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