闇に隠れて生きる

 間一髪だった。ネズミ共がプレートの入口に気付く前に、俺達は脱出する事が出来た。


 だが所々でネズミの影が動いている事に変わりは無い。奴らの嗅覚を以ってすれば、俺達の存在に気付くのも時間の問題だ。


「クソ、遅すぎたか。どうする?」


「私が囮になる。その間に君達は逃げ出すんだ」


 そう言ったフクの口には、茶色い球のようなモノが咥えられていた。


「お前まさか……」


「気付いたか。さすがはベムだ」


 フクは一度俺に身体を向けた後、少女に向けた。


「お嬢さん、ここでお別れだ。短い間だったが楽しかったよ」


「おじさん……」


「おじさんは止めてくれ。私には名前があるんだ」


 そう言うと少女は一度顔を伏せた後に、彼の名を呼んだ。ここで産まれ、ここで暮らし、そしてここで死ぬ彼を想い俺が付けた名を。


 俺は彼女を見た後に、フクの姿を見た。フクはゆっくりと身体を起こすと、色ミミズの列の前で立ち上がった。


 俺はフクの意志を感じ取ると、彼に背を向けた。これでお別れだが、俺達に別れの言葉は存在しない。数秒後に人間に踏み潰されるかもしれない日々を送る俺達にとって、別れの言葉は体組織が砕ける音でしかない。


「おいフク!」


 だから俺は彼に対し、声をあげた。俺は普通とは違うゴキブリなのだから。


「お前の依頼は、俺が必ず届けてやる!」


 俺はそう言って彼の触角を持ち上げた。目の見えない彼に対しては無意味な行動であり、俺達らしくもない異常な行動だ。


 だがそれでも俺は、何もせずに彼と別れる訳にはいかなった。俺のちっぽけな身体のちっぽけな頭の中で、それをするべきだと叫んでいた。


 人間はこれを〝人間性ヒューマニズム〟と呼ぶらしい。何とも手前勝手な言い草であり連中が最も忌み嫌う筈の俺がそれを持っているとは、一体どういう皮肉が利いた世界だろうか。


 フクは俺の言葉に「頼んだ」とだけ言うと、俺達から顔を離した。どうやら俺は、彼の最後のボタンを押してしまったらしい。


 足音がどんどんと近付いてくる。俺は少女の背を突くと、暗闇の中を一気に駆け抜けて行った。俺達の影の動きを察したのか、何処からともなくネズミ共は飛び出してきた。


 三つのネズミの影が、福星軒の床に散らばっていく。だがネズミ共は俺達に襲い掛かるよりも前に、フクの方へと向かって行った。彼の手にはネズミ共の好物である、油と衣を纏った肉の欠片が咥えられていた。


「ほら、お前らはこれが欲しいんだろう?」


「鴨が葱を背負う」というやつだ。手負いであり好物を持っているフクの存在は、まさに格好の餌食だった。ネズミ共は物凄いスピードで走り抜けると、彼の小さな体目掛けて飛び込んでいった。


 その瞬間、俺はフクの顔が笑うのを見た。彼は俺と少女に対して、確かに笑いかけていた。


 フクは咥えていた肉の欠片を放すと、色が剥げて千切れかけた色ミミズの一匹を噛み千切った。途端に眩い光が周囲を包み込み、襲い掛かった三匹のネズミは弾き飛ばされた。


 陽光のような眩しさに控えていたネズミ共は撤退し、最初の三匹が気持ち悪い臭いを燻らせながら地にもがいていた。


「フク……」


 福星軒のフクは福だけでなく、最後は星にまでなって死んだ。俺はまだ息のあるネズミの内の一匹の頸動脈を噛み切ってやろうと思ったが、彼の依頼を思い出して前へと向かった。


「急ごう。今なら奴らも追ってこない」


 俺は少女の前方を陣取りながら、慎重に福星軒の出口へと走った。途中、遠くでネズミ共の薄暗い瞳が暗闇の中で光るのを見逃さなかったが、何故か奴らは俺達に手出しをしようとはしなかった。


 福星軒の外を出ると、来た時は明るかった外は暗闇に包まれていた。人間共の数も少なくなり、代わりに小動物達の足音や呼吸音がそこかしこに広がっている。


 人間共の時間は終わり、ここからは虫獣むしけもの達の時間だ。俺は背後に少女が付いてくるのを確認しながら、ゆっくりと歩を進めた。


「あと少しだ、このまま真っ直ぐ向かえば下水管に付く。いけるか?」


「大丈夫よ。でもフクさんが……」


 そう言って触角を降ろす彼女に、俺は咥えていたフクの触角を押し付けた。


「持ってろ。お前が奴の母親に渡せ」


「え?」


「あいつの死に様を知っているのは、俺とお前だけだ。なら俺よりも長くあいつの傍にいたお前が、全てを伝えてやるべきだ」


「でもそれはアンタも……」


「すまんが俺は、やる事が出来た」


 遠くで稲妻のような音が響き、俺は背後を振り返った。


 振り向くとそこには片方の耳が千切れ、肌を焦がしたネズミがいた。今にも倒れそうな程に疲弊しているが、ネズミの目には鋭い殺気が揺らめいている。


「奴は俺が相手をする。お前は先に下水管に帰ってろ」


 少女が何かを言うよりも先に、ネズミは俺に向かって駆け寄ってきた。


「行け!」


 俺は右前脚で少女の身体を押すと、少女は真っ直ぐに下水管へ走って行った。


 俺は翅を広げ跳躍してネズミの顔に張り付くと、慌てるネズミを蹴り上げて壁に張り付いた。


「フクは一匹仕留め損なったみたいだな。まあ、それも時間の問題だが……」


 ネズミは歪な前歯をガチガチと鳴らせながら、俺を睨みつけてくる。まともなゴキブリならこれだけで戦意喪失し、死を受け入れてしまうだろう。恐らくこのネズミはそれを分かってやっているし、今までやってきたのだ。


「ネズミが。俺を誰だと思ってる?」


 だが俺は怪物ベムだ。伊達に修羅場は潜っておらず、死にかけたネズミの恫喝で怯むほど臆病者ではない。


「お前らだって腹も減るだろうし、好き好んで暗闇の中を生きている訳ではないだろう。人間に追われた者の生き方なんて似たり寄ったりだ」


 俺は飛び掛かって来るネズミを躱し、壁を走り抜けた。


「だが俺は違う。俺はお前から逃げはしない。生きる為にお前と戦う。フクの仇は、キッチリ取らせて貰う」


 そう言って俺は両脚を構えると、殺意に満ちたネズミと対面した。

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