幸福



「ここよ」


 銀の箱二つ分を越えて少女が来たのは、壁に取り付けられた縦長のプレートだった。長方形のプレートには幾つもの切れ目が走っており、そこから仄かな熱気が漂っている。プレートの隙間からはカラフルなミミズのような物体が飛び出ているが、どちらも埃と上から垂れてきた油で汚れきっていた。


 少女はそっとプレートを傾けて中に入り込むと、周囲を見渡してからちょいちょいと俺に手招きをした。俺も彼女を真似るように、そっと身体を滑らせる。


 入ってみると、中は夥しい量の色ミミズで溢れていた。俺も昔は物陰暮らしハイドシーカーだったから分かるが、コイツらは折にして灼熱のような息を吐く事がある。見れば既に害意は無いようだが、それでもうっすらと熱を持っているのが分かる。


 仲間の中には油に塗れたコイツに齧りついた末に、身体が太陽のように光って弾け死んだ奴もいる。


 俺は慎重に色ミミズの間を通り抜けていったが、少女はお構いなしにどしどしと踏みつけて行く。闇の中では少女の白い身体は嫌でも目立ち、彼女のフォルムを如実に映し出していた。


「……昔、脱皮を失敗して白いまま死んじまった奴を知っているが、君もその類か?」


 少女は俺の言葉に、歩みを止める。


「どういう事?」


「脱皮後は身体が黒く染まるまでその場を動かないのが、俺達の間での鉄則だ。空腹の余り母親や身重の嫁さんを食ったって誰も咎めやしない。毒餌の事も知らなかったし、今までよく生きてこられたな?」


 そう言うと少女は俺をキッと睨み付けた後、あろうことか俺の前脚に噛みついてきた。俺達にとって咬筋力の強さは速力に並ぶ武器だが、彼女はその中でも段違いの強さだ。


「止めろ! 足が千切れる!」


 俺は叫びながら脚を振り回すが、少女はまるで獲物を弄ぶネコのように口を離さない。その哺乳類並みの顎の強さに、足の繊維が嫌な音を立て始めた。


「分かった、俺が悪かった! もう脱皮不全なんて言わない」


 そう言ってようやく少女は口を離したが、目には敵意を持ち続けている。


「不躾に女性の身体をねめつけた挙句馬鹿にするなんて、男の風上にも置けないわよ?」


 俺は痛む右前脚をフルフルと振る。


「別に馬鹿にするつもりなんて無かった。俺はただ、心配して言ったんだ」


「そう、ならこれからは気をつけてね。それと──」


 そう言ってから少女は俺に背を向けた。


「脱皮不全なんかじゃないわ。この体色は元々よ」


「え?」


「産まれた時から、私の肌は白色なのよ」


「それってどういう──」


「さあ、着いたわよ」


 少女は俺の言葉を無視し立ち止まった。


 立ち止まった先は埃と食べカスが山のように積み上げられた場所で、針の穴のように小さい光が何処からか漏れ出ていた。壁にはまだ熱のある色ミミズが列を並べて張り付いている。


 その中心で羽をもがれたクロゴキブリが、息絶え絶えに蹲っていた。


「誰だ? そこに居るのは」


 クロゴキブリが上げた顔に、思わず俺は目を背ける。クロは顔面の半分、正確には口から上がまるっきり無くなっていた。


「そこに居るのは誰なんだ? 君なのか?」


 どうやら両目も完全に粉砕されているようで、俺達の姿も見えないらしい。俺は口を開こうとする白い少女を止め、彼の前に出た。


「俺の名は鐘夢。アンタの母親から、アンタを助け出してくれと頼まれた者だ」


「ベルム? まさか〝怪物モンスターベム〟の、ワモン鐘夢か?」


 その名を聞いて俺はうんざりした。周囲が勝手に付けた俺の異名は、こんな穴倉の奥にまで伝わっているらしい。


「そのニックネームは止めてくれ。だがそのベルムで間違ってない」


「下水道の便利屋が、私に何の用だ?」


「言っただろ、お前のママからの依頼だよ」


「ここは母も知らない私の隠れ家だ。何故ここが分かった?」


「ここに居る、白い嬢ちゃんに案内して貰ったんだよ」


 そう言うとクロゴキブリは口汚い言葉を罵りながら、俺に向かって跳躍してきた。だが盲目故に照準が定まっておらず、俺が身を屈めると彼は埃の山に飛び込んでいった。


「おい大丈夫か?」


「ベムめ! 彼女に何をした?」


「何にもしちゃいない。むしろ俺は、彼女とお前の恩人と言ってもいい筈だぜ?」


「何だと?」


 俺は半ばうんざりした思いで、少女の身体を突いた。少女は俺を一度生温い目で睨んだ後、事の顛末をこの男に語り始めた。


 全てを聞き終えた時には男も冷静さを取り戻し、冷静になったが故に身体の不調に苦しみ始めた。


「済まない、てっきり彼女を狙っていたのかと……」


「俺は共食いをしない主義だ。ワモンは空腹に強い。それに、こんな正体も分からん女は御免だ」


 案の定、少女はまた俺の脚に噛みつこうとしたので、俺は色ミミズの束でそれをガードした。


 それでもなお俺に当たり散らそうとするのを、男が止めた。


「その辺にしておけ。彼は強いぞ」


「こんな男が?」


「ああ、彼は──」


「与太話はその辺にして、本題を話そうか?」


 俺がそう言うと、男は顔を引き締めた。顔と言っても口以外に存在しないので、口元と姿勢をとでも言うべきか。


「それでどうする? 夜中まで待てば人が完全に消えるから、逃げるならその後にするか?」


「いや、私は帰れない。ここで死ぬつもりだ」


「何故だ?」


「見ての通り私は手負いだ。あと10日もすれば死ぬだろう。母には悪いが、私はここで死んだ事にしてくれ」


 そう言うと男は壁の隙間から細い何かを取り出し、俺に手渡した。クロゴキブリの右触角で、どうやら元は彼に生えていたモノらしい。


「そいつを母に渡してくれ。そして出来れば地下に帰るまで、彼女を護って欲しい」


「彼女って、この嬢ちゃんか?」


「そうだ」


 頭に殺虫スプレーをかけられたような気分だ。ただでさえ俺を忌み嫌う散々な相手なのに、この後もエスコートをしろと言うのか。


 これには白い少女も同感だったようで、彼女はいきり立って男に捲し立てた。


「こんな男の世話にならないわ。私は一人でもやっていける」


「君ではこの街の地理が分からないだろう? 彼なら間違いなく、君を安全な場所まで連れて行ってくれる」


「でも!」


「……ちょっといいか?」


 俺はそう言って男を部屋の隅に連れて行った。


「お前、名は?」


「名? クロゴキブリだが」


「それはお前の種族の名だ。俺が言っているのは、お前という存在の名前だ」


 男は少し考えるそぶりを見せたが、直ぐに頭を振った。


「そういう名前は持ってない。母も父も、名を持つ習慣の無い家系なんだ」


「名前は持つモノじゃない、刻みつけるモノだ。名が無いなら俺が付けてやる。今日からお前は〝フク〟だ」


「フク……?」


「福星軒から取った名だが、そこまで悪い意味は無い。〝幸運〟や〝安らぎ〟、〝幸せ〟を意味する言葉だ」


「安らぎと幸せか……。何だか勿体ない名だな」


「お前にやるよ。前脚の先にでも刻み込んで、死ぬまでしっかり握ってろ」


 そう言うとフクの口元に笑みが浮かんだので、俺は本題を切り出した。


「なぁフク。この依頼だが率直に言ってノーだ。あのじゃじゃゴキは俺の手に余る」


「そう言わないでくれ、君しか頼れる者がいないんだ。どうか見捨てないで欲しい」


 俺はちらっと白い少女を見た。


「あれはお前の嫁さんか? 見た感じクロには見えないが……」


「いや、彼女はクロゴキブリではないし、私も見た事の無い種だ。もしかしたら海の向こうからやって来たのかもしれない」


「移民って事か」


 俺達の中には海外からやって来る者も多くいる。卵の状態で来た奴や、人間のペットの餌として飼われていた奴。貨物に紛れて一家ごと越してきた奴など多くいるが、大抵の連中はこっちでも上手くやっていく。俺達はどんな生物よりも逞しくしたたかだ。


「だが〝白いゴキブリ〟なんてのは聞いた事も無い。本当にあの嬢ちゃんは信じられるのか?」


「それは、信じてくれとしか言えない……」


「そもそもお前は何故母の元に帰らず、こんな場所にいる? 母親も知らないというこの場所は何だ? その怪我といい彼女といい、お前には謎が多過ぎる」


 俺がそう言うと、フクは一度小さく息を吐いた。腹から空気が漏れ出し、空気の帯が俺の触角を撫でていく。


「くれぐれも内密に出来るか?」


「事情にもよる」


「私はある〝チーム〟のメンバーで、チームの代表から彼女の保護を頼まれたのだ。彼女の身の安全の確保と、寝床と食事の手配。それが私の任務だった」


「任務とは大層な話だ。それで、そのチームとは何だ?」


 そう言うと、フクは半分しか残っていない顔面を項垂れた。


「済まないがそれは言えない。だが決して誰かに危害を加えるような、野蛮な団体で無いのだけは信じて欲しい。私はこのチームの急な任務から暫く留守にする必要があった為、母には内緒でここに居たんだ」


「なるほどな。それで彼女を保護していたお前が、何故そんなボロボロになんだ?」


「奴らにやられたんだ」


「奴ら?」


「ネズミ共だ。最近この福星軒の近くに越して来た連中で、この傷はそいつらにやられた」


 ネズミと聞いて俺はうんざりした。連中は俺達と違いガタイも大きく、足も桁違いに速い。腹が減れば人間の赤ん坊にだって食いつくような業突く張りで、ドブにまみれた俺達だって食おうとする悪食だ。


「彼女と共に食事に出かけた際、奴らに狙われたんだ。私は彼女を護る為に奮戦したが、結果はこの様だ」


 そう言ってフクは自虐的に笑った。彼の顔からは、ネズミの凶悪さとゴキブリの強さの両面を映し出している。顔面を毟り取られても生きられるのはゴキブリの強さでもあるが、このような醜態を晒しても生を止められないのはある種の呪いでもある。


「ネズミに狙われて生き延びただけでも凄い事さ。俺が来た時に出会わなかったのは幸いだったって事か」


「連中は身体が大きく見つかりやすいからな。人間が完全に捌けた夜にしか活動しない。私はそれを失念していた」


 そう言うとフクは悔しそうに地団駄を踏んだ。怪我も無くしっかりと飯を食っていれば100日は生きられた命だったのを、たった一度のミスで醜悪な哺乳類にそれを奪われた。子も成さずに死ぬのは余りにも辛い事だ。


 俺達はいつだって死ぬ覚悟を持っている。というより、死ぬ覚悟を持つよう義務付けられている。卵より飛び出てから数百の日々を超えるまでに、何を残せるかを己の運命と競い合う。


 人間から隠れ、他生物の襲撃から逃れ、罠を飛び越え、親兄弟の屍を食べて飢えを凌いで、次の世代へと繋いでいく。それが俺達だ。


 俺はその太古の時代より繰り広げたサイクルから逃れ、生を謳歌するゴキブリだった。だから他の者達は、俺の事を変わり者、あるいは気狂きぐるいと呼ぶ。理解を拒否する者は怪物扱いだ。


 周囲に静けさが広がる。どうやら福星軒が締まり、次々と人間達が去って行っているらしい。


 フクはそれを察知すると俺に言った。


「間もなく奴らの時間になる。早く彼女を連れて行ってくれ」


「奴らの時間なら尚更明るくなるまで待つべきだろう?」


「奴らは既にこの場所の目星を付けている。率直に言って、今日一晩とてもたないだろう」


「……そういう事は、早めに言ってくれ」


 俺は踵を返し、隅で暇そうにしている少女の白い身体を突いた。


「ここを出るぞ。今度は俺が案内する」


「だから──」


「くだらん言い合いは無しだ。死にたくなければ俺についてこい」


 少女は一度俺の目を見た後に、フクの顔を見た。彼には俺も少女の姿も見えない筈だが、口元に笑みを浮かべて返した。


 周囲が完全にシンと鎮まった。どうやら最後の人間が出て行ったらしい。


 途端にベタベタと小さくも重い足音が広がってきた。足音はまだ遠いが、触角からはその震動がゆっくりとこちらに向かって来ているのが分かる。


「行くぞ、もう時間が無い」


 そう言って俺達は、出口に向かって走り出した。

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