白い少女
俺の名は
今日の依頼主は300近いクロゴキブリのマダム。名前は聞いていなかったが名乗ろうとしなかったので、恐らく名前を付ける習慣が無かったのだろう。俺達の世界じゃよくある話だ。
依頼内容は100と少しの息子の捜索。場所はシロヒゲ通りにある福星軒という中華料理屋で、餌の調達中に帰って来られなくなったか死亡したという話だ。生きているなら今頃は棚の隙間で震えているか、致命傷を避けて身動きが取れなくなっているのだろう。
俺は下水管の網目を抜け、福星軒の前にある溝から抜け出た。シンとした空気が外界と繋がる感触がして、思わず脚を伸ばす。
久しぶりの外出で不安だったが、どうにか目的地に辿り着く事が出来た。シロヒゲの目印である、杖を持った白服の老人像もあるのでここで間違いは無い。時間は太陽が沈みかけの時間帯で、まだ陽の光が眩しい。
人間や動物は違うようだが、日光は俺達にとって敵に等しい。あの大きなボールから発せられる熱線もさる事ながら、眩しさが俺達の薄暗い身体を目立たせてしまう。陽の光に眩んでいる内に踏み殺された奴の話なんてゴマンと聞いている。
幸いにもシロヒゲの福星軒は薄暗い通りにあるので、俺は日光の当たらない部分を一気に駆け抜けて行った。速力は俺達が神から唯一与えられた武器であり、溝から出て数秒と経たぬ内に店の前に置かれたチカチカ光る看板の下まで来る事が出来た。
看板の下からそっと頭を出し、周囲を見渡す。福星軒は人間の飲食場なので人の出入りが激しい。脚力にモノを言わせて走り抜ける事も出来そうだが、一人にでも見つかれば大量の人間がパニックを起こして息子探しどころではなくなるだろう。奴らは俺達の姿をどうしようもなく嫌悪する悪癖がある。
俺は一度店の前を通り抜けて、店の側面へと回った。依頼主から普段の出入り口は聞いていたので、その入口を探す。
抜け穴らしきモノはどこにも見え無かったが、〝案内〟は直ぐに見つかった。触覚で地面をペタリと撫でると、うっすらとだが点々としたモノが地面を歩き回っているのが分かった。依頼主のと思われるフェロモン跡だ。
その跡を追いかけていくと、壁とアスファルトの間に俺達がギリギリ通れるくらいの抜け穴が用意されていた。
俺はそこを潜り抜けて行った。中は一切の光を通さなかったが、俺達には何の問題も無い。恐らくここに住む人間すら気付いていない、福星軒の致命的な弱点のようだ。
抜け穴の先は、銀色に光る大きな箱の隙間だった。全身を
問題はこの〝臭い〟だ。新鮮な食材の匂いとは別に、精神を狂わせそうな臭いが漂ってきている。
見れば周囲にはその甘美に負けたと思われる、同族らの死体が転がっていた。どれも風化し埃を被っており、死んだ者の中には子供も多くいる。
俺はその幼子の口から零れ出た悪魔の食い物を見ると、何ともやり切れない想いが込み上げた。大きさからして15から20。まだ一度目の脱皮すら経験していないような年頃だ。そんな子供達の死体が、二十体近く転がっている。
俺も褒められた生活はしていないが、子供が死ぬのは好きではない。俺は少しの間だけ足を止めて黙祷を捧げると、その場を後にした。人間の真似事など俺達には御法度であり嘲笑の的だが、どうせ誰もいないのだから問題は無いだろう。
それに今は急がなければならない問題がある。甘美な臭いはここだけでなく、部屋の奥からも漂っているのだ。しかもここにある物よりも強く、より
俺は六本の脚をせわしなく動かして、臭いの元へと向かった。途中で人間の大きな足にぶつかりそうになったが、幸いにも連中は足元を見なかったので気付かなかった。大きさの弊害なのか人間は夢中になると、足下を確かめる事を忘れてしまう。
目的の場所は死屍累々のおぞましい様だった。どうやら依頼主の他にもルームシェアしていた家族がいたらしいが、この様子では全滅しているに違いない。毒に侵された父の亡骸を食べたであろう妻と子供も死に絶えている。
俺はその悪魔の食い物が収められた、黒い箱を見上げた。こんな小さな箱に収められた少量の餌で一つの家族が全滅したと思うと、人間の力には恐れを抱かされる。こいつのせいで俺達の仲間の多くが全滅したし、俺も心と体に一生消えない傷を負わされた。
再び黙祷を捧げようとしていると、遠くで何かが動く気配がした。一瞬人間がこちらの存在に気付いたのかと思ったが、それにしては影が小さい。
俺は臨戦態勢を保持したまま、その影に近づいた。ネズミやネコの類だったら厄介だったが、速力には自信がある。脚が二つも足りない連中に負ける気は無い。
そこにいたのは、まだ100も超えていないような若い女だった。そいつは悪魔の食い物を器用に背に乗せて、何処かへと向かおうとしていた。
だが俺が驚いたのはそれだけではない。その少女は俺達と同じ姿をしていながら、陽の光のように輝く白い姿をしていたのだ。
「ま、待ちなよ、お嬢さん」
思わず俺は声をあげた。少女は俺を訝しそうに見ながらも、小柄な体をこちらに向けてきた。
「何か用? 私急いでるの」
「その餌は止めた方がいい、そりゃ毒餌だ。食ったら死ぬぞ」
「え……」
少女の背から食い物が零れ落ちる。俺はそれを憎々しく見ると、前脚で力の限り遠くへ蹴っ飛ばす。
「あの死体の山を見ただろう? あれを見りゃ産まれたての子供でも近づかない」
「だって、お腹が空いてたから……」
「そんなに腹膨らましといて、まだ食べるのか?」
膨れた彼女の腹部を見ながら言うと、少女は明らかに不機嫌そうな顔を浮かべた。
「私じゃないわ。お腹を空かせて、死にそうな仲間がいるのよ」
少女の言葉は強い刺激を以って、俺の空気孔に入り込んできた。少女が言ったその言葉に、俺はここに来た意味を思い出す。
「いま仲間って言ったな? どんな奴だ。クロか? それとも別種か?」
「クロ? ベッシュ?」
「クロゴキブリか、それとも別の奴かって事だ。クロなら俺が探している男かもしれないから、案内して欲しいんだが」
俺の言葉に対し、少女の目に訝しさが宿る。ファーストコンタクトで恰好を付けたのは失敗だったが、それ以上に彼女からは強い警戒心と敵意に似た鋭い感情を感じさせた。
同族から敵意や警戒心を向けられる事は慣れているが、人間が大勢いる中で逃げ出されたら撒かれる可能性もある。俺は少女の丸い瞳を見ながら、尖らしていた触覚を降ろした。
「俺の名は鐘夢。鐘の夢と書いてベルムと読む。俺はここに住んでいるマダムの依頼で、彼女の息子を探している。君の言う腹の空かした仲間は、100超えの雄のクロゴキブリじゃないか?」
少女はあからさまに動揺を浮かべた。怪し気なワモンゴキブリに対して神経は尖させているようだが、嘘や虚勢は出来ない性格らしい。
「初対面の俺に何故そこまで敵意を示してるのかは分からないが、せめて場所は変えてくれないか? このままここに居れば、近いうちに人間達に見つかるぞ」
「何故そんな事が分かるの?」
「あれを見ろ」
そう言って俺は隙間から覗く、福星軒の窓を指した。俺達の視力はそこまで高い方では無いが、それを補う程に陽の光は強い。
「光の色が変り始めている。この店は日の沈み際に一度全ての人間を追い出して、部屋中に大量の水を巻き散らすんだ。当然ここもな。いがみ合ってるのもいいが、このままだと俺達は揃って溺れ死ぬ事になる」
「貴方、そんな事まで分かるの? 人間の事なのに?」
「伊達に200日も生き延びていないからな」
そう言って驚く少女に、俺は身体を上げて触覚をピンと伸ばした。少女は俺の姿に見惚れるどころか呆気に取られていたが、調子を取り戻すと背を向けた。
「ついてきて」
言うなり少女は物凄いスピードで走り出したので、俺は彼女に振り切られないよう脚を動かした。
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