humanism of Blattaria

田中 スアマ

第一話

雨の日の依頼

 下水管から小刻みなリズムが流れてくる。喧騒から離れた地下に長く住んでいると、反響した音一つからでも何が通っているか分かるものだ。これは川の水や汚物が通る音ではなく、雨粒が管に打ち立てる音に違いない。


 俺はその音を聞きながら、部屋の隅で気分を沈ませていた。雨の日というのは嫌な気分にさせてくれる。他の連中は割とこの情緒を好むらしいが、俺は大粒の水滴が天井から漏れ出てくる度に気分を落としてしまう。


 今日も薄暗い部屋の片隅でじっとしていると、足と地面を擦り合わせる気配が聞こえてきた。顔馴染みの気配なら全員分覚えているが、コイツはそのどれにも当てはまらない。


 俺はそっと起き上がる。仲間なら歓迎するが、〝ネズミ〟や〝業者〟の類だと厄介だ。念の為に俺は直ぐにでも逃げ出せるよう、足並みを揃えておいた。


 入り口から現れたのは、年老いた女だった。いや、ここは俺の流儀として、妙齢の女性とでも言うべきだろうか。ともかくその見ず知らずの女性は、重苦しい雰囲気で俺の前に現れた。


「あの、貴方がへルムさんですか?」


鐘夢ベルムだ、頭に濁点が入る。間違えないでくれ」


 それなりに決めて見せたつもりだったが、女性は全く理解出来ないという様子だ。まあ俺達の世界において名前にこだわる奴なんて、そうもいないのだから仕方がない。


「それでお姉さん、今日はどういったご用件で? 食料調達のお誘いなら今日はキャンセルだ」


「そうではありません。私は『メッサーシュミット』から紹介を受けてここに来ました。ベルムさんは地上の地理に明るいと聞きましたので……」


「あぁ、20の時には街中を走り回ってたよ」


 そう言うと女性は驚いた顔を浮かべた。


「20からですか? 随分と成長が早かったのですね」


「まだまだガキの頃だ。ワモンは時が長い」


「そうですか……」


「それで、今日は何のご依頼で?」


 長々と問答を繰るのは好まない。阿と言えば秒で吽と返してくれる関係が俺は好きだ。俺達にはただでさえ時間というモノが少なく、明日生きていられる保証も無い。俺は仲間の中でも変わり者で通っているが、出来る限りこの〝生〟を謳歌したかった。


 俺が言うと女性は急に畏まりだして、ゆっくりと触手を降ろし始めた。


「息子が帰って来ないのです! 脚の悪い私の為に夕食を取って来ると言ったまま、もう2日も経ちました。私はもう、どうしたらいいか……」


 そう言って女性はさめざめと泣き出した。悲しむ女性を前にこう言うのは失礼なのだが、俺にはまだ息子が生きている可能性を考えている彼女の姿が特異に見えた。


「アンタ、住まいは?」


「ここから二つ先の下水管を昇った先にある、中華料理店です」


「ハイドシーカーか。残酷だが2日も経てば死んでいると考えるのが普通だ」


「でも息子は速力がある子です。死んだ子らの中でもあの子だけは特に早く、だから100まで生きてこられたんですよ?」


「俺の飲み仲間は112だ。クロで100生きるなんて珍しくも無い。それに、その中華料理屋ってのは『福星軒ふくせいけん』の事だろう?」


「ええ、そうですが……」


「あそこは隠れる場所も多いし飯も美味いが、その分危険でもある。そもそもアンタみたいな老いた雌が生き延びた事自体、奇跡みたいなもんだ。息子さんには悪いが、とっくに駆除されててもおかしくは無いさ」


 そう言うと女性は一気にしょげ込んでしまい、50日分位老けたように見えた。


 俺はそれを見て少しだけ心を痛めたが、現実を隠したまま希望の妄想を語るよりはマシだ。人間の出入りが激しいあそこで2日も行方が分からないとなれば、とっくに殺されて死骸となって目前の下水道をプカプカと泳いでいてもおかしくは無いのだ。


 例えそこに見た事も無い御馳走があろうとも人間に一度でも見つかれば殺され、一族もろとも根絶される。残酷でもこれが現実だ。チャバでもクロでも俺達ワモンでも、その運命を数え切れない日数繰り返してきた。


 それが現実。人間もいない太古より俺達に与えられた現実だ。


 だからこそ俺は、この依頼を受ける事にした。


「福星軒まで見に行けばいいんだな?」


「え?」


「十中八九死んでいるのに変わりは無いが、もし生きて何処かに隠れてるなら俺が脱出させてやる。死んでたら死んでたで体液痕ぐらいは持って帰って来てやるよ」


「ほ、本当ですか?」


「俺は嘘をつかない。だから安心してここで待ってろ」


 そう言うと女性は喜びの余り、触手を俺に絡ませてきた。ガキの慰めのようで身も心もくすぐったいし、ましてや他種にこれをやられるのは慣れていない。


 妙な恥ずかしさが込み上げてきたので、俺はそっと女性の横を通り抜けた。


「じゃあ俺は行ってくるから、ここでゆっくりしててくれ。何にも無い所だが、水くらいは壁から染み出てくる。どうしようもなく腹が減ったらマスターの所で待っていてくれ」


「ええ、ありがとうございます。それで、あの……」


「何だ?」


「メッサーシュミットの支配人からもお聞きましたが、本当にお礼は要らないのですか? 大したお返しも出来ませんが、お食事くらいでしたら蓄えもありますが……」


 女性の言葉に、俺はふっと笑った。


「生憎ほかのゴキブリからの飯は食わないようにしてるんだ。礼を受け取るのも、その時の気分次第だ」


「なら何故こんな事を?」


 その言葉に俺一瞬考え込んだが、ふと前に見た新聞に載っていた言葉を思い出した。他者からの無利益を承知の上で他者に奉仕するという、人間の言葉だ。


「こういうのを『困った時は助け合い』と言うらしい」


「こま、え……?」


「いや、気にしないでくれ。……じゃ、行って来るよ」


 そう言って俺は部屋を出て、地上へと繋がる下水管の中へと飛び込んだ。

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