8-15 仙崎誠、後日談⑤


 道中で原田さんを送り届けたのち、日が沈みきる前に自宅にたどり着くことができた。

 車を駐車場に泊めて、いまだに足元のふらつく晶子に肩を貸しながら、玄関の扉を開いたところで、なにかを忘れていることを思い出した。

 リビングの奥からは、賑やかな声が聞こえてくる。足元に目を向ければ、靴が一、二、三――ああ、ほかの妹たちも帰ってきていたのか――そして、四足目。


 思わず悲鳴を上げそうになるのを噛み殺し、全身に冷や汗をかきながら、抜き足差し足でリビングへの廊下を歩く。そして扉の前で深呼吸。


「なにしてんの、誠」

「いや、そのなんというかな。俺はとても罰当たりなことをしてしまって、なるべく神様の怒りを買わないように、厳かかつかしこみかしこみだな……」

「なに言ってんの?みんな、ただいまー!」


 俺の心の準備が完了する前に、彩音が扉を開け放つ――


「お帰りなさい、誠くん!」


 ともすれば雷鳴のごとき声が飛んでくるかと思いきや、聞こえたきたのは、まったく耳馴染みのない女の子の声だった。


「もー!誠くんったら、私のことほったらかしにして、急にどこかに言っちゃうんだもん!アンジェはおこだぞ!プンプン!」


 人は、あまりにも予期し得ないものに突如襲いかかられたとき、頭の中が真っ白になるというのは、本当のことらしい。


 目の前にいるのは、確かにかの女傑尾藤アンジェラ女史に相違なく、しかしその口から吐かれる言葉は、いままで聞いたこともない声音と口調であった。


「あっ、そっちの人は前にお話ししてくれた妹さんかな?はじめまして!私、尾藤アンジェラと言います!その……誠くんの、彼女、です。えへへ……」


 あまつさえ、そんな台詞まで口にするもんだから、俺はもはやすべてを放棄して、玄関から出ていこうかとも考えたが、それをなんとか押し止めたのは、俺の肩を借りていた晶子が、あまりの衝撃に再び意識を喪失して、その場に倒れこんだおかげだった。


「え、うそ……誠に、彼女なんて、いたの……?」

「誠にーちゃんも人が悪いったらないぜ。こんな美人の彼女がいるってんなら、もっと早く紹介してくれよなー」

「誠さんに恋人がいたなんて……もしかして、これは夢……?」

「まぁ、なんだかんだで誠も顔は良いしな。お似合いっちゃお似合いだけど、なんか腹立つな」


 奥から妹たちもひょこひょこひょこと顔を出し、四者四様、好き勝手なことを言ってくれる。


 確かに、尾藤教授はその外見だけを取り出せば、俺や彩音とそう変わらない年齢の女性に見える。そのうえ整った容貌をしている訳だから、美人という評価も妥当だ。


 しかしその実は、魑魅魍魎跋扈するアカデミー界で海千山千をくぐり抜け、教授職として辣腕を振るう、女怪にほかならない。実年齢にしたって、尋ねたことこそないものの、彼女の口から語られた話を類推するに、相当のもののはずである。


 ひとまず、またしても意識を失ってしまった晶子をソファに横たえる。その間にも、俺はこの窮地を切り抜けるための方策を、方便を、捻り出さんと頭をフル回転させる。


 そして思い付いた唯一の方法。それこそは――


「すいません、勘弁してください……」


 ザ・土下座。これ以外にほかに手はない。お怒りに触れたというのなら、誠意を見せるほかない。

 それに、原因に心当たりがないという訳でもない。どころか、彼女がお怒りの理由はまさしく俺にある。


「きゃっ。急に土下座なんて止めてよぉ!どーしたの、誠くん?」


 鼻につく甘ったるい声に頭痛を覚えながらも、フローリングを削り取る勢いで額を擦り付ける。


「その、あの瞬間は本当に非常事態で、まさか晶子が倒れるなんて思っていませんでしたから。そのぅ、それでですね……」


 頭を垂れてなんとか許しを乞うための口上を、思いつくままに並べ立てていく。けれども、彼女はやはりぶりっこじみた声音で相槌を打つばかりで、まるで感触がない。


 尾藤教授が、これほどまでに俺を辱める理由、お怒りの理由は、実際に彼女が先程口にしたように、俺が彼女を置いて突然家を出たから。

 むろん、尾藤教授も俺と同じように通信で晶子たちの様子をモニタリングしていたのだから、状況を理解してくれているはずだ。


 とはいえ、だからといって納得がいく訳でもなければ、腹が立たない訳でもない、というのが彼女の主張だろう。


「妹さんのお迎えだったら、私も一緒に連れて行ってくれたらよかったのにぃ。あ、もしかして、私が彼女のこと、妹さんたちには内緒だったのかな?」


 訳:あんなおもしろそうな現場に私を連れていかぬとは実にけしからん。君の態度次第では、妹たちにあらぬことを吹き込むのも私は吝かではない。


「いや、それはですね、僕も焦っていたというか、なんというか。それにほら、あんな狭い車に教授を乗せる訳には……」

「もう、私は誠くんとだったら、どこでもいいのに!でも、そのおかげで妹さんたちとたくさん喋れちゃった!」


 言葉の裏に隠された彼女の真意を汲み取るだけで、胃がキリキリ痛む。これはもはや脅迫である。


「でも、どーしても誠くんがお詫びをしてくれるって言うんなら、どこかデートに連れて行ってもらおっかなぁ」


 これは、昼間に彼女が俺に出した問題の追試、とでも言うべきか。あの時は言葉を濁して回答を避けたものの、もし本当に彼女がそれで手打ちにしてくれるというのなら、それは安い買い物ではないか。


「……すいません、勘弁してください。なんでもしますから」


 すこし考えて、しかしそれはやはり割に合わないと判断する。誠意を見せるため再び頭を擦りつけようとしたところで、


「いま、なんでもするって言ったよね?」


 ぞっと、全身の毛が逆立つの感じた。声音は先程のままなのに、俺は彼女と目すら合わせていないのに、蛇に睨まれた蛙、いや、蛙は口ゆえ蛇に飲まるる、とはまさにこのことか。


 とっさの失言に弁解しようと顔を上げると、待ち構えていたかのように彼女と目が合った。切れ長の双眸が、愉快そうにらんらんと輝いている。


「ふーん、なんでもしてくれるんだ。ふーん……。それじゃあ、今回は許してあげよっかな」


 尾藤教授の口から、確かに許しを得た。しかし俺は同時にとんでもない言質を取られてしまった。いったい何を要求されるのか、考えるだけで身震いする。


「家族団らんをお邪魔しちゃうのもなんだから、私はそろそろお暇しよっかな。今日はとっても楽しかったよ誠くん。晶子ちゃんにもよろしくね!」


 そう言うと、尾藤教授はくるりと踵を返した。安堵のため息を漏らしかけて息を止める。平身低頭、五体投地の心構えをキープしつつ、玄関の扉の閉まる音が聞こえて、ようやく――


「ちょちょちょっと!あの子が誠の彼女ってホントなの!?」

「女性の前で無様に土下座をしている誠さん。良いものが見れました」

「なにをやらかしたのか知らねーけど、あんまり怒ってなさそうだったし、そこまで謝らくても良かったんじゃないか?」

「ついに誠にーちゃんも童貞卒業か……。嬉しいような、悲しいような……。ううっ」


 興味津々の妹たちがなだれ込んでくる。

 慌てふためく彩音と、

 恍惚としている双葉と、

 やれやれといった具合の佳純と、

 涙を流している志津香の説得には、尾藤教授がなにを吹き込んだかは分からないものの、ずいぶん苦労するに違いない。


 と、思っていたところ、


「そーよね! 誠に彼女なんかできる訳ないもんね! あー、よかったぁ!」

「お世話になった教授に土下座にする誠さん。良いものが見れました」

「教授って、大学でめちゃくちゃ研究しないとなれないもんじゃねーのか? ってことは、あの人見た目よりも実は……」

「はーん、しょーもな。解散解散」


 彩音は心底安堵したように大きなため息を漏らし、

 双葉はより一層嬉しそうに口角を吊り上げ、

 佳純は怖い物でも見てしまったかのように首をすくめ、

 志津香は鼻くそをほじって、ピンと指で弾いた。


 俺に恋人がいるという虚報が一切信じられていないことを悲しむべきなのか、それとも生意気な妹たちに憤るべきなのか。

 いやいまは、誤解を解く手間が大いに省けたことを喜ぼう。


 ……ちなみに、翌日に目を覚ました晶子に、例の尾藤教授の変貌ぶりについて尋ねようとした瞬間、泡を噴いて卒倒してしまったので、以後我が家で本件はタブーとなったのだった。

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