8-11 仙崎晶子、オーバーワードの遥かその彼方


「いやぁ、まさか仙崎さんがそんなにラーメン好きな人だとは思わなかったなぁ」

「私も、……相田くんが、そんなに食べ歩いてるなんて、知らなかった」


 昼食を摂ってからしばらく街をぶらつく間も、私たちの会話はラーメンに終始していた。ふたりして近い分野の研究に従事する大学院生なのだから、ほかに話題はいくらでもあるだろうに。


「そうだ、こんどあそこ行こうよ。来い来い亭!」

「う、ん……」


 我ながら不思議なことに、ことラーメンとなると自然に応答できるのが情けない。


 イヤホンからはしばらく無音が続いている。マイクをミュートにしているのか、もしくは私の醜態に呆れて言葉も出ないのか。


「仙崎さんは、兄妹とかいるの?」


 そうこうしている内に、いつの間にやら話題は移り変わって、互いの身の上話に。相田康徳は、妹がふたりいて、大きい方は来年同じ大学に入学予定だという。小さい方は中学生だと聞いて、ふいにあの馬鹿の顔が浮かんで、かぶりを振って振り払う。


「私は、兄と姉がひとりずつ、それから妹が三人」

「えっ、すごいじゃん!大家族!!」

「とは言っても、血が繋がってるのはすぐ下の妹だけで、あとは再婚相手の連れ子」

「あー……」


 相田康徳の顔が苦く笑う。踏み行ったことを聞いたのではないかと気を遣われているのだろう。


「気にしないで。血は繋がっていなくても、自慢の兄さんと姉さんだから」


 ずっとラーメンの話をしていて舌に油が回ったのか、ふだんならば照れ臭くて絶対に言えないような言葉が、すっと口を突いて出た。

 とたんに恥ずかしくなって、すぐに訂正しようかと思ったが、それはまごうことなく事実なのだから、彼から顔を逸らして表情を見られないようにするに留めておく。


「ご兄妹のこと、大好きなんだね」


 ただでさえ、らしからぬことを言ってしまって、穴があったら入ってしまいたいくらいだというのに、臆面もなくそんなことを言い出すものだから、もう!


 返答の代わりに、無言を寄越して返すと、相田康徳は困ったように笑って、


「よし、お昼ごはんも食べたし、次は美術館に行こう!」


 私の手を取って歩き出した。振りほどこうと思えば、簡単にはできるほど柔らかく握られたその手を、


「うん」


 しかし、私は、同じくらいの力で握り返したのだった。


 それから私は、彼の先導に従って、美術館を巡り絵画で目を養い、附属のカフェでコーヒーとケーキに舌鼓を打ち、……気が付けば、空は橙色に変じていた。


 夕日というのは、太陽の傾きに伴って、光の波長の内赤外線だけが人間の目に届くようになるから赤く見えるのだ、という、中学校で教わった知識を頭を思い浮かべながら、知らず知らずに私が呟いた言葉は、


「きれい……」


 私たちがいま立っているのは、ショッピングモールに併設された、海の見える施設だった。


 夏にはバーベキュー場として解放されるらしく、

 デートスポットとしても有名らしく、

 夕日が綺麗に見えるところ、らしい。


 知識では知っていても、いちども訪れたことはなかったし、自分には縁遠い場所だとも思っていたし、そしてなにより、わざわざこなくとも、そついう情報さえ頭に入れておけば、なにかの役に立つだろうと、たかをくくっていた。


 けれど、実際に自分の足でこの場所を踏みしめて、それがとんでもない傲りであったことを、痛感している。


 太陽の傾斜だとか、光の波長だとか、反射だとか、そんなものはどうでもよくなって、真に美しいものは、私のような審美眼のない人間にも、「美しい」という感動を与えてくれるのだと、うち震えていた。


「きれいだね」

「うん」


 お互いにそれくらいしか話すことがなくなって、無言のままぼんやりと海岸線を歩く。

 波の音、

 子どもの声、

 砂利を踏む音、

 遠くでエンジンが唸る音。


 前を歩いていた彼の背中が急に近くなって、あわてて足を止める。彼が振り返ったところで、立ち止まったのだとようやく気付いた。


「仙崎、さん」


 いままで朗らかに話していた彼の声が、すこし遠慮がちに、あるいはしおらしく聞こえる。


 あ。


 と、あるいは、小さな声が漏れてしまったのかもしれない。なぜなら、うつむきがちだった彼と目が会ってしまったから。


 あ。


 これは、そのテの事情に疎い、頭でっかちな私にすら分かる、「そういう雰囲気」。次に彼がなにを言おうとしているのか、そして私になにを求めているのかが、予想できてしまう。


 あ。


 彼の唇が、二度、三度、震えた。

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