8-6 仙崎晶子、トラットリアとかリストランテとか
〇
『どうした? なにがあった?』
ブツッというマイクの接続音と、誠兄さんの声が聞こえて、ひと安心。女子トイレの個室、便器の上に座りながら、私は盛大にため息を漏らした。
『なにか問題かね? よろしい、誠くんをからかうのにも飽きてきたところだ、なんなりと聞いてくれ給え』
続いて尾藤教授の声。移動の間、どうやらふたりはマイクを切って何事かを話していたようだ。その内容が気にならない訳ではないが、いまはそれどころではない。
『順を追って説明し給え。君はどこにいる? なにをしている? そして、なにをしなければならない?』
「……いまは、トラットリアサモンというお店の、トイレの中、です」
『ひとりでトイレができた! なんて報告は、幼稚園までにしとけよ』
「違う! 落ち着けるところがここしかなかったら……」
自宅のトイレに及ぶべくもないが、どこであろうと、トイレというのはやはり心に安らぎを与えてくれる。休息してよし、考え事してよし、そして食事してよしの三方よしとは、まさにこのことじゃないかしら。
「それで、言われるがままについてきたはいいんですけど、こ、こういうお店に入ったことがないから……」
『ふむ。誠くん、トラットリアサモンとは、どのような店か知っているかね』
『いま調べてみたところ、カフェレストランみたいな店ですね。ランチの価格帯が3000円くらいで、夜は結構しますね』
ランチで3000円……!? 目が飛び出しそうになる。
私のいつもの昼ご飯といえば、コンビニのおにぎりふたつと紙パックのカフェオレで、500円もしないというのに、6倍以上もの値段の昼食なんて、想像もつかない。
『で、この店がどうしたんだよ。こんな店を御馳走してくれるっていうんなら、代わりたいくらいだよ』
私だって、代わってもらえるならいますぐ代わってほしい。どうして今回は、誠兄さんが女装して影武者をやってくれなかったのか!
「いや、その……こ、こういうお店に来るの初めてだから……なにを頼めばいいのか分からなくって」
イヤホンの向こうで、ため息がふたつ分聞こえる。
……私だって、いかに馬鹿らしい質問をしているのかという自覚はある。それこそ、幼稚園児だって、自分の食べたいものくらいは自分で決めるに違いない。
「だって、だって、外食なんてめったに行かないし……どんな料理が出てくるかもさっぱり分からないし……」
基本的には研究室と自宅の往復の毎日な上に、出不精の私が、どこかで食事を摂るなんていう機会があるべくもない。強いてよく行くことがあるとすれば、チェーン店の牛丼屋や、ラーメン屋くらいのもので、いずれも券売機の前で迷うことこそあれ、悩むことなどなかった。
『直感で気になったものを好きに注文すればいいさ。なんの料理か分からなかったら、お前の目の前に座る男でも質問してやれ』
『その通りだ、晶子くん。まがりなりにも君の前で恰好を付けようとしている相田なにがしに、知識を披露させてやり給へ』
ふたりがそう言い捨てると、それぎりなにも聞こえなくなる。おそらく、再びマイクのボリュームをミュートにしたのだろう。
遠く聞こえる店内の騒音が、イヤホン越しに耳に入ってきて、とたんに心細さが心に襲ってくる。
もういっそ、このままここに引きこもっていようかしら。そうすれば、その内諦めて帰るかもしれない。
『優秀な晶子くんのことであるから、よもや、そのままその場から動かない、などという愚考を抱くはずないとは思うが、一応警告しておく。相田なにがしが諦めて引き返すどころか、不審がられて大騒ぎになるのが関の山だろう。速やかに席に戻り給え』
尾藤教授はなにもかもお見通しだった。冷静な頭で考えれば、彼女の言うとおりだ。
叱咤と指図を受けて、のろのろと動き出す。ちらりと腕時計を見れば、席を立ってから、既にずいぶんと時間が経っていた。
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