8-5 仙崎誠、晶子とアンジェラのパラドクス
〇
一瞬、晶子の反応に不穏なものを感じて、とっさにマイクに叫びつける。
が、彼女から返って来たのは、いつも通りのそっけない言葉。「なんでもない」。ひとまず胸をなでおろす。
隣で、尾藤教授がニヤニヤ笑っているものだから、マグカップの下で苦い顔をしてやり過ごす。
「すこしは落ち着き給え。彼女は、もう大人なのだろう?」
なおも薄ら笑いを浮かべながら、尾藤教授は本日三つ目になるどら焼きの包装をめくる。彼女の言葉はむろん正しく、しかしそれゆえに、どうにも浮わついた気持ちなのもまた事実。
尾藤教授にならって、俺もどら焼きをぱくり。コーヒーをずびり。
ヘッドセットから聞こえる相田なにがしとの会話――とはいいつつも、晶子はほとんど相槌を打つばかりなので、もはや独り言に近しい――から察するに、どうやらふたりは昼食を摂るために移動中のようだ。
昼食くらい、あの喫茶店で頼めばよかろうに、というのは野暮な疑問というやつだろう。
「ところで誠くん、彼らはこれから昼食だそうだが、君ならば晶子くんをどこへ連れて行く?」
尾藤教授から投げかけられたのは、至極難解な問題。
フラットな状況であれば、解答は無数に存在するだろう。ファミレスで本格的な食事としてもよいし、小洒落たカフェテリアでケーキに舌鼓を打つのもよい。
ただしこれが、相手が晶子である、という前提としている場合、兄である俺をして悩ましむる難問に違いない。
晶子の好物は、主に菓子類である。それも特にジャンクな。シェフ渾身のスイーツよりも、コンビニで買える安っぽいスイーツを好む。
家で食事を摂る時は、双葉の作った料理をもくもくと食べている。志津香のように味に文句を付けるでもなく、彩音のように後から自分で調味料を足すでもない。
だから、あるいはすべてが正解かもしれないし、すべてが不正解かもしれない。
「ふっ。君がそこまで考えるような選択を、果たして彼は正しく導けるかな」
「答えではないですが、強いていうならば、必ずひと悶着があると思いますね」
「ほう。それはどういう?」
「せっかく観客席に座ってるんですから、試合の行く末を先取りするでもないでしょう」
「君も、しばらく見ぬ間に、生意気な口を利くようになったものだな」
やれやれと大袈裟に肩をすくめ、横柄な態度でコーヒーのおかわりを要求する尾藤教授。俺も冗談めかしたふうに嘆息づき、もったいぶった仕草でソファから立ち上がることで、彼女に応える。
「ではそんな君には、更なる問いを与えようではないか」
「なんです?」
インスタントの粉末をお湯で溶いて出来上がり。恩義のある来賓を迎えるにあたっていかがなものかという疑問ももっともだが、変にかしこまったりする方が、よっぽど彼女の反感を買いかねない。
「私を、この尾藤アンジェラを昼食に連れて行くとして、君ならばどこへエスコートする?」
いたずら心たっぷりに、八重歯を覗かせて、尾藤教授が笑う。
たまらず(いろんな意味で)ドキリとして、マグを取り落としそうになる。
「尾藤教授をお昼に誘うなんて、恐れ多くてとてもとても……」
「なに、真に受けることはないさ。一瞬の思考実験に違いない」
「いつ、どこで、どのようなシチュエーションで、という前提が定められていないので、答えられかねます」
「では、適宜設定したまえ。ただし、極度に非現実的なものは前提として認めない」
のらりくらりとかわそうとするが、行く先々を尾藤教授が阻んでいく。詭弁じみた言い訳も、詭弁は詭弁でしかなく、尾藤教授の前では、一刀両断、やすやすと論破される。
ついに観念して、ソファの定位置に戻ったところで頭を抱える。そんな俺の無様を、やはり尾藤教授は愉快気に眺めるもんだから、もうたまらない。
そうして腕を組み唸ること数分、痺れを切らした教授が、いよいよ不機嫌顔に変じはじめて来た頃、救いの手がもたらされた。
『兄さん、教授! 私、どうすれば……』
果たしてそれは、救いの手は救いの手でも、晶子の、救いを求める手であった。
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