8-4 仙崎晶子、好奇心は猫を殺せるか?


 〇


「ごめんね、待たせちゃって」


 相田康徳は、もういちど謝罪の言葉を口にすると、私の向かいの椅子に腰を下ろす。距離が一気に近くなって、もう私は彼の顔を見られなくなって、ただただ自分のグラスの中に浮かぶ氷を見つめていた。


『晶子、ここで大丈夫待ってないよ、なんて言うんじゃないぞ。甘くみられるからな』

『女を待たせるような男は減点だ。罰を与えねばならんな』

『はい! 丸坊主! 丸坊主!』


 それがやりすぎなのは、さすがに私でも分かる。


『ここはひとつ、ここのコーヒー代でも支払わせてやろう。晶子くん、復唱し給え。”それじゃあ、コーヒーを奢ってくれたら許してあげる”』

「それじゃあ、コーヒー、奢ってくれたら、許す」


 私がそう言うと、相田康徳はなぜかちょっと嬉しそうにはにかみながら、


「ああ、もちろん。喜んで!」


 なんて言うもんだから、面食らうしかない。


『分かるかね、晶子くん。こうやって、男心というものをくすぐるのが、賢い女のやり方だ。大抵の男は、自尊心、名誉欲、それから性欲で支配されているものだ』

「別に、そんなことしたい訳じゃ……」


 私は、目の前の男に魅力的な女性だと思われたい訳でも、ましてや交際に足る女性と慕われたい訳でもない。そんなふうな目で見られたとしても、困る、というか、持て余すのが正直なところ。


 ちらりと相田康徳の方を盗み見ると、ちょうど目が合ってしまって、たまらず顔を背けた。視界の外で苦笑する気配が感じ取れて、余計に落ち着かなくなる。

 

「それを飲んだら出ようか」

「…………」


 黙って肯く。


「お昼は食べて来た?」

「…………」


 首を振る。


 彼がもういちど苦く笑ったような、嘆息づいたような気配がして、そこで、私はもう!

 私はこんなところに、こんな格好で、コーヒーを飲んでいてもいい人間ではないような気がして、ぎゅっと心臓を握りつぶされているような錯覚。足元の床が、すとんと抜けていくような感覚。


 軽率な気持ちで、興味本位で、彼の誘いになんて応じなければよかった。

 自分が、すこしばかりは成長しているだなんて見誤っていた。

 結局私は、机に向かうしか能のない、そんな女だったのだ。


 口の中の水分が蒸発しているみたいに、渇いて仕方がない。彼が来るまでは一滴たりとも口を付けなかったストローを、ほとんどかじりつくようにして、コーヒーを吸い込む。

 すぐにコーヒーはなくなってしまって、ずるずると音を立ててしまう始末。


「それじゃ、行こうか!」


 その瞬間、彼の右手が、私の左手を掴んで、私を引っ張り上げるものだから、


「――――――――ッ!!!!」


 息が、止まるかと思った。

 意識を、失うかと思った。

 心臓が、停まったかと思った。


 それでもなんとか、私が辛うじて踏みとどまれたのは、


『どうした!?』


 耳元で声がしたから。


「だ、大丈夫? 立ち眩み?」


 一拍遅れて、彼もまた私に声を掛けてくれる。

 どちらに応えるともなく、私は、


「なん、でも、ない」


 テーブルにすこし体重を乗せて、姿勢を正す。荒ぶる呼吸を、目の前の彼には気付かれぬよう、努めて平静に整える。

 それから、顔を俯けたまま、視線だけをスライドさせて、喫茶店のガラスに映る半透明の私を睨みつけてやる。


「なんでも、ない」


 誰ともなく、もういちど私はそう言った。

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