8-3 仙崎晶子、サロペットとオーバーオールとオールインワンの違い


 〇


 日曜日、午後昼過ぎの駅前は、往来で溢れていた。右から、左から、前から、後ろから、人、人、人。

 そのうち、上下からも人が現れるんじゃないかしらと、視線を下へ上へとやってみたが、黄色い点字タイルと、背の高い時計が一時四十五分を示しているだけだった。


『まぁ、早く来てしまったものは仕方がない。近くのカフェで時間でも潰すか』

『ならば南口を出てすぐのところにある、喫茶店へ行くといい』


 イヤホンから流れるふたりの指示に従って歩き出す。


 いちども足を運んだことない場所というのは、どうしても肩身の狭い思いをしてしまう。道行く人は私をいったいどんなふうに見ているのだろうか。なにか、おかしなことをしてしまってはいないだろうか。

 なんて、自意識過剰なのは分かっている。だれも私のことなんて気にも止めていないし、仮に、この場で突然奇声を上げ始めたりなんかしても、奇異の視線を集めるだけで、そのあと、十秒後にはすっかり忘れ去ってしまっているだろう。


「…………っ!」


 通りがかったガラスに、自分の姿が映って、思わず足を止める。いままで着たことなんてもちろんいちどもなければ、名称すらも知らない類の服装。こんなものに自分が袖を通していると思うと、面映ゆくって、むず痒い。


『どうした?』

「今日の服、その……」

『おう、しっかり似合ってるぞ。研究室のお前しか見てないそいつからすれば、腰抜かすかわいいだろうな』

「…………っ!」


 かわいい。そんな言葉が自分に投げかけられるなんて思ったこともないから、呼吸まで止まってしまいそう。


『ふむ。今日の晶子くんの服装はどのようなものだね』

『黒のサロペットスカートに、ボーダーシャツ。それから、ふだんとは違って丸メガネをかけて、髪は三つ編みに、って感じですね』

『ほう。その格好で、照れ照れしながら街中を練り歩いているということか。ははは、愛いではないか』


 配管工の着るツナギのようなズボンを、お洒落に言うとそんなふうに言うのか。メガネも、なんだかむかしのコメディアンがしているみたいなもので、変じゃないかしら。

 生まれていちどもしたことのない三つ編みを、指先でくるくると弄ぶ。


「わ、私なんかが着ても……」

『何を言うかね。モデルを生業とする君の姉が、丹精込めて選んだのだ、間違いなく君の魅力を引き立てていようとも。姉が信用できないのかね? そして、もっと自信を持ち給え、背筋を伸ばし給え』


 遠く離れた場所にいるはずなのに、まるで目の前にいるかのように言葉をかけてくれる尾藤教授。厳しい口調は、とても頼もしい。

 お世話になっているふたりから、アドバイスをもらって、すこし自信が出た気がする。


 喫茶店に着き、コーヒーを注文し、彼が来るのを待つ。彼には、場所を移したことを連絡しているから、じきに姿を現すことだろう。


『そういえば、そいつの名前はなんていうんだ。聞いてなかったな』

「相田康徳。年齢は、ひとつ年上」

『尾藤教授、知ってます?』

『篠原のところの学院生だな。容姿は、美青年というには程遠く、醜男というには失礼が過ぎる。まぁ、至って平凡だな。強いて特徴を挙げるとするならば、大勢の前での発言の際、緊張を解すためにか、しきりに太ももをさする癖があるくらいか』

『つまり、ほとんど印象がないということですね』

『そう換言しても構わん』


 実際、尾藤教授の言う通りで、私自身も、今回の件に至るまで、ほとんど覚えがなかった。食堂で挨拶されても、曖昧に会釈を返す程度。お互いの研究について話したこともないし、あまつさえ、お互いのプライベートなど。

 そんな彼が、どうして私に声をかけたのか。どうして、私を、デート、なんてものに誘ったのか。


「お待たせ、仙崎さん。ごめん、待たせてしまったみたいで」


 ぼんやりとアイスコーヒーを眺めて考えごとをしていると、不意に名前を呼ばれて泡を食う。入口の方へ視線を移すと、そこに、今回の元凶、相田康徳が立っていた。

 人の好さそうな笑顔を、申し訳なさげに歪めながら、テーブルへと近づいてくるごとに、ドクン、ドクン、と心臓が跳ねる。口を開けば、心臓が飛び出してしまっていくんじゃないかと思うくらい。


「…………」


 気軽に挙げられた手に、つられるように私も手のひらを見せて挨拶を返す。

 それだけで、もはや精いっぱい。


 今日、私は、何事もなく、無事に、家に帰ることができるのだろうか。

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