3-9 仙崎誠、後日談③



 あれ以来、晶子はちょっと素直になった。


 いざ大学院生活が始まって、戸惑うところもあるようで、そういう時には素直に俺のところへやって来て、分からないことを聞くようになった。

 ラボの同僚と仲良くする方法、失敗してしまった時の挽回の方法、気分転換の方法……。いままで一心不乱に勉学にのみ励んでいたものだから、晶子はそれ以外のことはてんでダメで、けれどそれを取り返そうと必死になっている姿はいじらしい。


 そしてある時、晶子がこんな質問を投げかけてきた。


「オススメの居酒屋って、なにかある?」


 なんでも、研究室の面々で歓迎会を開いてくれるらしい。ふつうこういう時は教授ないし上級生が主導してくれるものだが、尾藤研究室ではその年の新入生が幹事をするのが習わしだ。俺の時もそうだった。

 ほかにも新入生はいるだろうが、その中であえて晶子に幹事役があてがわれたのは、いやはや尾藤教授も意地悪で、同時に気が利いている。


 この歓迎会で成否がどのような意味を持つのか、いま晶子はきっと正しく理解しているのだろう。ゆえに俺に助けを求めてきた。その事実がたまらなく嬉しくもあるが、だからといって、一から十まで俺が指図してしまっては、なんの価値もない。

 そこで俺は、いくつか店舗と予算の候補を提案して、あとは晶子のセンスに委ねることにした。晶子は泡を食って慌てふためいていたが、果たしてうまくいったのだろうか。


 その結果を知りたくて、俺は睡魔を噛み殺して、みなが寝静まったあと、ひとりリビングで晶子を待ちわびていた。


「ただいま」

「おう、おかえり」

「……起きてたの」

「まぁな。どうだった、歓迎会は」


 晶子は首まで真っ赤にして、据わった目のままコップに水を汲むと一気に飲み干し、熱っぽいため息を漏らした。


「二回、吐いた」

「そいつは重畳」


 どうやら手厚い歓迎を受けたようだ。

「尾藤教授、すごいだろ。ああいうのをうわばみって言うんだろうな」

「もう二度とお酒は飲まない……」


 服もそのままにソファに倒れ込んだ。ちなみに、生活のほとんどをジーンズとシャツ、その上に白衣を羽織って過ごしていた晶子も、今日ばかりはすこし洒落た格好をしている。俺がそうするように強く強く推して、彩音が自分の持ち物で好き勝手に着せ替えしただけなんだけど。


「ほら、服皺になるぞ」


 体を揺すると、不満そうなうめき声を漏らし、ゆっくりと体を起こす。半開きの眼で俺を見つめて、なにか言いたげに、もごもごと口を動かしている。


「ラボの新入生に、ほかに女の人もいるんだけど」


 男性の多い理系研究室で、同性がいるというのは頼もしいことだろう。俺の時は、尾藤教授を除いて全員男だった。もし女の子がいれば、俺も今頃はきっと……。


「その、なんというか」


 顔を伏せながら両手を胸に当てる。


「みんな、発育が良い……」


 尻切れトンボの言葉は、しかし確かに俺の耳に届いた。


「お前、結構酔ってる?」

「二回も吐いたんだから、酔ってるに決まってる!」


 どんな話題が飛び出てくるものかと身構えていたが、晶子の口から漏れ出たのは、意外にも自身のプロポーションに関するものだった。もはや酒のせいで顔が赤いのか、羞恥心でそうなのか分からないくらいに恥ずかしがり、体を震わせている。

 実際、晶子は女性としては貧相な肉体と言っていいだろう。志津香広原ほど平坦でもないが、ちょっと厚着をすれば小さめの寸胴鍋のようなシルエットになる。それを考慮して、彩音はすこし露出高めの衣服をチョイスしたようだったが、むしろそれがコンプレックスを刺激してしまったらしい。


「異性に乳房を揉まれると、女性ホルモンが大量に分泌され、乳房の発育を促すと、風の噂に聞いた。だから、……」


 ふだんのぼそぼそとした話し方で、しかしその内容はいかにもガーリーでゴシップ。いつも資料や論文とにらめっこしている晶子から、こんな話題が飛び出るなんて夢にも思わなかった。

 その先は言わない。いや、言えないのか。もにょもにょと唇を動かすだけで声はない。


「あー、あれ嘘っぱちだぜ? むしろ、おっぱい揉まれすぎると、クーパー靭帯が傷ついて、老後におっぱい垂れてくるんだってさ。あっ、しょーねーは垂れるほどねーもんな! めんごめんごぉっ――!」


 いったいどこから出てきた。ほんと、ゴキブリみたいにどこにでも沸くな志津香は。

 突然割って入ってきた志津香のあばらにトーキックをかます晶子。容赦ねえ。メキメキって聞こえた気がするけど、志津香のことだから唾でも付けりゃ明日の朝には治ってるだろう。


「だ、だからって、そんなのを兄に頼むなよ」

「頼れる男性は、あなたしかいない。それに、……兄妹ならば、ノーカウント」

「そんな訳ないだろ! もっと自分の体を大切にしろよ!」

「あれー? 誠兄ちゃん、あたしの乳首つねった時、容赦なくなかったですかー? あれー? おかしいなー?」


 先ほどのトーキックのダメージをまったく感じさせない素振りで、しぶとくも会話に割り込んでくる志津香。


「いつか好きな人ができて、その人とちゃんと交際できたときに、好きなだけ、揉んでもらえ」

「あれれー? 無視ですかー? あれあれー? ひどいなぁー、もう。あんまりひどいことするんだったら、誠兄ちゃんのチンコ、おろし金ですり下ろしちゃうぞー?」

「お前おっそろしいこと言うなや。チンコひゅってなるわ」


 志津香の顔面にニーキック。鼻骨を砕くような感触がしたが、まぁ志津香のことだから以下略。


「ともかくっ、私だって、女子のはしくれ。すこしは……気にしている。少なくともそこの生ゴミよりかはマシだとしても、これ以上大きくならないのは、……その、寂しい」


 おお、いつも無口で毒舌家の晶子が目には涙すら浮かべながら哀願しているではないか。屈託のない、妹の頼みを無下にする兄が、いったい世界のどこにいようというのか!


「分かった。そこまで言うんだったら、俺が、揉んでやる」

「うん……」

「気ぃ付けろよ、しょーねー。こいつ、婦女子の乳首をもぎ取っては部屋の宝石箱にコレクションしてる類の変態だかんな」

「俺、お前から見てどんな妖怪に映ってんの!?」

「そりゃ、童貞妖怪ちく――」


 俺のローキックがみぞおちを、晶子のヤクザキックが胸部を的確に捉え、志津香はきりもみにすっ飛んでいく。胃を破裂させた感触があったから、あれで起き上がってきたら、あいつの方がよっぽど妖怪じみている。


「じゃ、じゃあ……揉むぞ……」

「…………」


 晶子が生唾を飲み、小さく頷いた。


「…………」


 驚かさないように、ゆっくりと手を彼女の胸に近づけていく。そして衣服の上から、そっと乗せる。

 例えるならば、それは丘陵。パーカー生地の感触とあいまって、さながら短い草木がその地表を覆う、なだらかな丘陵地帯のようだった。志津香平野のように平坦ではなく、指に力を入れれば、確かな反発力が返ってくる。


「ん……ふぅっ……」

「こら、変な声を出すな。これは、……これはあくまでマッサージなんだから」

「わか、ってる」


 手のひらで稜線をなぞっていく。そのたびに、晶子がかすかに声を上げるもんだから、なんだか妙な気分になってくる。

 と、俺の敏感な指先がなにかを捉えた。言うなれば、丘の上に立つ一軒家。きっと向こう側の丘にもあることだろう、それを、俺は、


 ▶そっと撫でた

  思い切りつねった


  そっと撫でた

 ▶思い切りつねった


 思い切りつねった。


「ひぎっ――――!」


 直後目を剥く晶子。同時に、視界の奥で銀色が閃いた。あれ、この光景どこかで――


 ザクッ


「ザクッ?」


 右手に、なにやら違和感がある。より正確を期するなら異物感。何かが、ずぶりずぶりと入ってきている感覚。

 おそるおそる目を戻す。まずは晶子の腕、そして手。それから、カッターナイフ……。そして俺の右手。


「—―って、刺さってるじゃねえか! しかもカッターって!」


 痛みが神経を駆け巡っていく。たまらずのけ反った拍子に刃が抜ける。


「フーッ! フーッ! フシャーッ!」


 一方の晶子はまるで威嚇する猫のように毛を逆立て、切っ先を俺に向けたまま。完全に瞳孔が開き切っている。


「あっはっはっはっはっはっは! いまの、誠兄ちゃん聞いた!? 『ひぎっ』だって! 『ひぎっ』だぜ? トラックに轢き殺されるウシガエルだってもっと上品な声で鳴くだろうし、屠殺場の最終工程の豚だって、もう少しかわいげのある鳴き声だろうぜ! あっはっはっはっはっは!」


 屠殺場の最終工程の豚は、もうすっかり解体(バラ)されて鳴くに鳴けないだろう、なんて、益体もないことを考えている内に、再び銀色が閃いた。

 まっすぐに飛んでいったカッターナイフは志津香の喉を正確に射抜いていた。


「ダーツは得意。豚の解剖は……やったことないけど、たぶん、できる。任せて」


 お前の目の前で、喉元から血をダクダク流しながら瀕死のそれは、たぶん豚じゃなくって、妹だと、お兄ちゃんは思うな。

 慌てて志津香に駆け寄ると、彼女は、うつろな目の焦点を辛うじて俺に合わせて、


「カフ――カフッ……『ひぎっ』だってよ……」


 いまわの際までその言葉を吐き続けた。


 仙崎志津香、ここに眠る。遺言は、「『ひぎっ』だってよ……」


「じゃなくって、救急車――――!!!!!」


 翌日、


「だからさー、あのしょーねーが、『ひぎっ』つってさー!」

「誠の野郎、ほんとロクでもねぇな」


 何食わぬ顔で、志津香がソファに腰を沈めながら、トーストをかじりながら、あまつさえパンくずをボロボロそこら中にこぼしながら、楽しげに佳純と話し込んでいる姿が、リビングにあった。


「あんた……なんでここに……」


 驚く俺の脇を、晶子が通り過ぎていく。


「えっ!? だって、あのしょーねーが、『ひぎっ』とか、家畜の断末魔にも劣る喘ぎ声あげてたんだぜ? こんな面白い話、家族で共有しなきゃさ!」


 ゆらりと晶子が構える。


「二回死ね!」


 再び、銀色が宙を舞った。

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