3-4 仙崎誠、どうして
〇
「あなた、どういうつもり」
仕事を終えて家に帰ったところで、靴を脱ぐ間もなく、大層不機嫌そうな顔で、上がり框の上で仁王立ちをする晶子に睨みつけられた。
彼女の癇に触れる心当たりといえば、現状ひとつしかない。
「どうした。もしかして、どら焼きが先方のお気に召さなかったのか?」
「違う」
ならば、そもそも挨拶自体をご機嫌取りだとみなされたのか。世間と隔絶された学術社会では、気難しい人も少なくないから、さもありなん。
「尾藤アンジェラ。どうして黙ってたの」
晶子の口からその名前が飛び出してきて、俺は目を剥いた。靴を脱ぎかけた姿勢のまま固まって、つんのめりそうになる。
「お前、尾藤教授の研究室だったのか。喜ばしいような、同情するような……」
大学時代すっかりお世話になり、あまつさえ卒業後の面倒まで見てもらった大恩人、尾藤アンジェラ女史は、どちらかといえば、気難しい部類に入るお人だ。言動や態度は鷹揚で生徒に対する面倒見も良いが、なんというか、独自の世界観を持っている。
そんな尾藤女史と閉鎖的性向の晶子が、馬が合うかどうかは甚だ疑問だが、彼女に師事するというのならば、晶子の大学院生活は安泰といって差し支えないだろう。
「話してみてどうだった。変わった人だっただろ?」
「どうして、黙ってたの」
「黙ってたもなにも、お前が尾藤先生のところに所属するなんて知らなかったから仕方ないだろ。あのどら焼き、ずいぶん喜んでたろ」
玄関を上がり、廊下を進む内にチーズの焦げる匂いがしてくる。グラタン、かな。
「お祝いに、なにか買ってやろうか。あんまり高価なものは難しいけど、……そうだ、ノートパソコンとかどうだ。彩音の稼いでくれた分もあるからな、志津香のしょうもない小遣いに消えるくらいなら、ちょっとくらい奮発してもいいくらいだ」
まぁ、後々の学費のことを考えると無駄な出費は極力抑えるに越したことはないが、中途半端な買い物をするよりかはよっぽど実用的だろう。
「どうして!」
リビングの扉に手を掛けようとしたところで、突然、晶子が一際大きな声を上げるもんだから、いよいよ訳が分からなくなって、やおら振り返ると、
「どうして、院進を諦めて就職したこと、黙ってたの」
思いがけない問いが飛んできて、言葉に詰まった。
「そもそも、どうして院進を諦めたの」
晶子は、眉根をむず痒そうに寄せて、何が何でも俺の答えを引き出そうと、さもなくば噛みついてやるとばかりに、俺を睨みつけて離さない。
「どうして、ってそりゃあ……」
とはいえ、それは別段難しい回答ではない。答え自体が難解な訳でも、答えることが難渋な訳でもない。もしも晶子が、どうしていままで黙っていたのかと問えば、聞かれなかったから、と気軽に返答できる程度には。
「お前たちが、うちに来てくれたからだよ」
四年前の仙崎家は、比較的裕福な家庭だった。一家の大黒柱たる父親は、その頃はまだ真面目に働いていたし、彩音も専門学校を卒業し、少しずつモデルとしての仕事を請け始めていた。
一方俺はというと、大学に通って研究に没頭していると言えば聞こえはいいが、稼ぎもせず、父親の金を使って、自分の好きなことに熱中していたようなものだ。
そしてそこに青天の霹靂のような父親の再婚と、新たな家族の話が突然降って湧いてきて、当時の俺は大いに戸惑った。
聞くに、新たな家族には彩音よりも年下の妹がふたり。しかも、片方が大学進学を控える身だという。
元から、自分ひとりが好待遇にある罪悪感がない訳でもなかったから、年度末が迫りつつあるという時期も相まって、いちど自分の進退について熟考することにしたのだ。
父親は、経済的には問題ないと言った。彩音は、わたしも好きでこの仕事をやってるんだし、と言った。
しかして俺が採った選択は、研究者として大学に残る道ではなく、社会に出て生計を立てる道だった。
二十歳そこそこの子供を持つ親としては老齢の父親が、いつ病床に伏せるとも分からない。そんな時に、彩音ひとりの肩に家族六人の生活を背負わせる訳にはいかないし、そうなったら、下の妹たちに不自由をかけることになるかもしれないから。
その瞬間までは、俺自身も院進を希望していたから、尾藤教授には大変迷惑をかけた。挙句、就活シーズンを過ぎ、年内の就職が絶望的だった俺に、仕事まで紹介してもらったのだから、彼女には頭が上がらない。
かくして、俺は私立高校教師として、尾藤教授の口利きということもあってか、同年代の社会人に比べてわりと高収入を得ながら働いている訳だ。
と、いうような話を、熱々のグラタンを頬張りながら、晶子と双葉、ついでに居合わせた佳純と志津香にも披露してやったところ、
佳純は興味なさそうにあくびを噛み殺し、
志津香はテレビに夢中で、
双葉は気の毒そうに表情を曇らせ、
晶子は、
「ばっかじゃないの?!」
だなんて、目をいからせて、兄の判断を罵る始末。
「バカとはなんだ、バカとは」
どちらの選択が善し悪しかという議論は、今更――当時すらも――詮無いことだが、あしざまに言われてはむかっ腹が立つのも事実。
「でもぉ……誠さんは、本当は進学したかったんですよね」
一方で、一層鼻白んだ顔つきの双葉。晶子とは対照的に、申し訳なさそうに、気の毒そうに眉をハの字に寄せて、なにか言いたげに口をパクパクさせている。
そういえば、恩着せがましくなるのが嫌で、進んで口を開かなかった節もある。だから、以前晶子が何気なく問いかけてきた時には、適当に誤魔化した覚えもある。
「訳わかんない。それで、私たちに恩を売ったつもり? それで、兄らしく振る舞ってるつもり?! 本当は院進したかったんでしょう。だったら、すればよかった」
虚偽の事実を伝えたことをなじられはしても、四年前の俺の決断を責められるいわれはないはずだ。
「お金が厳しいっていうんなら、私だってアルバイトなりなんなりしながら研究する」
「バイトはしなくていい。研究に集中しとけ」
「なんで! 自分のことくらい、自分で――」
椅子から立ち上がり、前のめりになっていきり立つ晶子の言葉が、突然切れる。拳を振り上げ、机の上の食器が浮くくらい強かに打ち付けると、肩を震わせながら唇を噛み締めると、眼鏡の下から、鋭い三白眼を覗かせた。みるみる顔を青ざめさせ、そして最後に、
「子ども扱いしないで!」
捨て台詞吐いて、リビングを後にした。荒々しい足音が階段を上っていき、扉がけたたたましく閉められた音を聞いてから、俺はため息を漏らした。食べ差しのグラタンをスプーンですくうと、ぬるくなっていた。
「しょーねー、完全にブチ切れてたじゃん。どしたん」
「お前、話聞いてなかったのかよ」
「『子ども扱いしないで!』ってとこで気が付いてさ。まさか、誠兄ちゃん、しょーねーにイチゴ柄のパンツでも買ってきたのか? そりゃ、しょーねーも怒るぜ。私だって、もうクマさん柄だかんな」
「こんどお前のパンツを買ってきてやろうか」
子ども扱いしないで、か。
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