3-3 仙崎晶子、アンジェラという女②
〇
尾藤教授と、直接対峙して、会話をし、言葉を交わした私の印象は、「変わり者」というよりも「自信家」というものだった。私とそう変わらない背丈のはずなのに、目の前で手を握った時には、圧倒されてしまいそうなほど。
眼差し、仕草、声音、口調、そのすべてに力強さが感ぜられた。
まるで、私とは正反対。
大学の構内をぶらぶら歩いていると、春休み中だというのにちらほらと学部生の姿が見える。楽し気な、甲高い声を上げながら傍を通り過ぎていく彼らを、立ち止まり、一瞬だけ目で追いかけて、すぐにまた歩き出す。
こんな時、私は、自分をお化けみたいだな、なんてふうに思う。
存在感が希薄で、ひょっとすると、自分がいまどこにいるのかも分からなくなってしまう。自分の居場所がない訳じゃない。どこにでもいれるが、どこにもいない。
あるいは、尾藤教授の研究室に滑り込めたのも、そんなお化けの特性ゆえなのかもしれない。
なんて、ばかばかしい。と一笑に付すこともできない自分の卑屈さが恨めしい。
こんなことではいけない。せっかく希望の研究室に入れたのだから、これまで以上に研究に励み成果を出そう。そうすれば、やがては彼女のように、自信を以て他人と、そして自己と向き合えるかもしれない。
気が付けば、尾藤教授の部屋の前にまでたどり着いていた。あまりにも静まり返っているので留守も疑ったが、扉を叩くと、れいのはきはきとした声が返ってくる。兄オススメの手土産を強く握りしめて、生唾を飲み込む。
「失礼します」
「うむ、よく来てくれた。しかし挨拶とはまめまめしいこと、結構」
どうやら尾藤教授は資料の精査中だったらしい。分厚い資料とパソコンのモニターとをにらめっこしていた手を止め、眼鏡を外す。
「近頃老眼が酷くてね。いつまでも若々しくありたいが、寄る年波には勝てぬということだな」
これは彼女なりのジョークなのだろうか。実際、見た目以上の年齢であることは確かだろうけれど。どう反応していいか分からず、苦笑いすることしかできない。
「まぁソファに掛け給え。ちょうど私も、君に聞きたいことがあったのだ」
「私に? お答えできる範囲であれば……あ、こちらどうぞお納めください」
タイミングを逸してしまう前に持参した手土産を渡してしまおうと、紙袋から中身を取り出して差し出すも、しかし、尾藤教授はそれを受け取る素振りを見せず、おそるおそる彼女の顔を見上げると、
「く、く。手土産とは実に気が利いている」
含み笑いのようなものを噛み殺して、にやりと口角を吊り上げて、
「が、あるいは、君はこれがおもねりの、賄賂や袖の下と呼ばれるものとして受け取られる可能性を考えなかったのかね」
血の気の引いていく感覚。しまった。取り繕おうにも、とっさのことで言葉を発そうにも、喉のあたりで何かがつっかえて小さくうめくばかり。
「はっはっは、冗談だ。贈収賄は公務員以外に適用されることはない。ありがたくいただこう。おおっ、しかも葵丸本舗のどら焼きではないか。私はここの甘味が好物でね。ぜひご相伴にあずかろう。そうだ、コーヒーを淹れよう」
私を値踏みするように覗かせていた青色の瞳を一転、ぱっと顔をほころばせ、私の手から手土産をひったくると、デスクの方へと向き直る。
ひとまず、贈り物は功を奏したようだ。一安心。全身の力が抜けて、その場にへたりこみそうになる。
尾藤教授は、鼻歌ひとつ漏らしながら手早くインスタントコーヒーを作り、私に勧めてくれる。家で飲むコーヒーと、同じ匂いがした。
「そう肩肘張らずともいい。アカデミックな問答をしようと言う訳ではないのだ。行きつけのバーで、マスターと世間話をする、そんな具合でいい」
そうもったいぶられると余計に緊張してしまうものだが、尾藤教授は意にも介さず、私の対面に腰かけると、こう切り出した。
「ミズ仙崎、君は兄がいると言ったね?」
それは、以前にも尋ねられた問いだった。面接の際に、部屋を出る直前に、投げかけられた奇妙な問い。
「名前は?」
「誠、仙崎誠と言いますが……」
答えるや否や、彼女は手を叩いて、そして破顔し、
「そうか! やはりな! 君は彼の妹だったか! 幸運な巡り合わせというのもあるものだ!」
私の手を握り、上下にぶんぶん揺らすものだから、困惑するほかない。
「おっと、年甲斐もなくはしゃいでしまったかな。どうやら、私は仙崎というファミリーと縁があるようだ」
どういうことですか、と口を開く前に、尾藤教授はにやりと笑い、
「君の兄、仙崎誠君も我が研究室の徒だったのだよ。彼は優秀だった。惜しむらくは、そのまま研究者として立身しなかったことだな」
あの能天気な兄が尾藤教授の研究室生だった? 私が高校に通っていた頃はまだ大学生で、卒業したのち、現在の仕事に就いたのは確かだけれど、にわかには信じられない話だった。
「抜きんでた才幹を備えていた訳ではなかったのだがね。それゆえに、私は彼に期待していた」
急転、彼女の声のトーンが下がり、ため息をひとつ交えながら、
「そのまま進学し研究員を志すものだと思っていたが、いやはや。彼の口から就職すると聞いた時には、思わず卒倒してしまいそうになったものだ」
まるで、兄は本当は院進学を目指していたかのような口ぶりだ。大過なく大学生活を過ごし、たまたま近くの高校に内定をもらったので、そのままそこで働いている、という風に私は彼から聞いていた。
「彼を失うのは惜しかった。私も懸命に説得を試みたが、頑として彼は譲らなかった。理由を問いただそうにも、家庭の事情と言うばかりだ。ならば私がその家庭を説き伏せてやるといきり立ったものだが、彼は私を射殺さんばかりの視線で睨みつけてくる」
そこで彼女は会話を切って、どら焼きを一口、コーヒーを一口。舌鼓を打ってから、続ける。
「そもそも、本来彼には私の許諾を得る必要などなかったのだがね。私に、彼の人生を自在に操る権利などないのだから。それでも私に断りを入れようという誠意に心打たれたよ。その実直さに免じて、高校教師の職を斡旋してやったが、満更でもなかったようだな」
尾藤教授の話す兄の人物評と、本人の口から聞いた事情が、大きく食い違っている。すなわち、どちらかが嘘を言っている、もしくは隠し事をしているということだ。
尾藤教授が事実を誤魔化す理由があるだろうか。私のようないち学生におもねったところで、彼女にいったいなんの得があるというのだろうか。ならば。
「しかし今日ようやく、その謎は解けた。ふふ、若造の分際で老成しようなどとおこがましい、と彼に丁重に伝えておいてくれ給え」
どういうことか、という質問は再び遮られた。こんどは尾藤教授の携帯電話が鳴り出して、彼女はそれを耳にあてがうと、つらつらと英語で会話した後、
「すまない。急用が入ってしまった。私としても、君とはもう話をしたかったのだがね。次に会う日を楽しみにしているよ」
よほど緊急性の高い用件なのか、ばたばたと準備を始めた尾藤教授に追い出され、気が付けば、私はもと来た道を引き返していた。時間にして三十分もなかったが、少なくとも悪印象ではなかったと思う。ひとつ、あの兄に借りが出来てしまった。しかしこの借りは、すぐさまは返してもらうことにしよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます