3-5 仙崎晶子、オバケなんてないさ
〇
私、先崎晶子の家庭環境はやや複雑だ。私を含め六人兄妹ではあるものの、実際に血の繋がっているのはひとりの妹ばかりで、ほかはあくまで戸籍上の関係のものだ。
私が仙崎姓を名乗るようになったのは、いまから四年前。ちょうど大学受験を控えていたころだ。
父親と別れてから三年経ち、母親の細腕では娘ふたりを養いきれぬというところに、仙崎なにがしは現れ、あれよという間に、私には姉と兄が出来た。
……母親は、あまり褒められたような人間ではなかった。育ててもらっておいて文句をこぼすのも恩知らずだが、わがままな、癇癪持ちの子どものような人だった。
私が大学進学をしたい、と告白した時にも、「あ、そう」とつまらなそうに鼻を鳴らしたのをよく覚えている。
だから二年前に彼女が忽然と姿を消したのを、悲しいと思ったり、寂しいと感じたりするどころか、安堵すらした。しかし同時に、肉親に対してかくも薄情なのは、彼女の血が流れているせいなのかしらと唇を噛みもした。
他方、姉ながらに妹は良く出来た子だと思う。美人で、かといってそれを鼻にかけることなく愛想よく、他人の機微に聡い。さらに、こまめに家事をこなしつつ、もちろん学校だって疎かにしていない。聞けば、クラスでは委員もしているそうだ。
まるで、私とは正反対。
母親も、妹だけは猫かわいがりした。彼女が再婚を推し進めたのも妹のために違いない。
妹の優秀ぶりは、小学校に上がってから発揮され始め、事あるごとに私は、「お姉ちゃんなんだから」「お姉ちゃんのくせに」と言われ続けた。
さもありなん。だからといって私は決して妹を恨んでいる訳ではない。あの子に当たるのは、自身の不出来さの八つ当たりでしかなく、少なくとも、その分別のつくくらいには、私は「子ども」じゃなかった。
早く「大人」になって、この母親から離れたいという思いを胸に秘めて、そのためにはどうすればいいかと手探りする内に私が見出したのは、とにかく勉強して立身出世することだった。二宮尊徳しかり、ジャン=ファーブルしかり、勉学によって身を立てた偉人は多い。彼らにならって、私も、石にかじりついてでも勉強に打ち込んだ。
その甲斐あってか、私は進路調査票に国立大学の名前を書いても教師からのひんしゅくを買うことなく、いよいよ家を出て、単身学徒の道を進むことを決意した。奨学金やアルバイトを巧くやりくりすればなんとかやっていけるだろうと考えていた。
そんな折に思いもかけず突きつけられた、母親の再婚と私たちの転居。幸か不幸か、引っ越し先が大学と近く、通学できるというのだから、わざわざ無理をする必要もない。
朝起きて、朝食を食べて、電車に乗り込み、思うがままに講義を受け、そして帰れば、夕食を食べ、眠る。勉学に励むにはこの上ない環境を手に入れたと内心喜び、母親が蒸発し妹が家事を担うことになっても、申し訳なく感じつつも、ちょうど研究室に所属するということもあって、省みることはなかった。
家にいるのも必要最低限になった。モデルを生業としている義姉とはめっきり会わなくなり、双葉とも食事の時に顔を合わせるばかり。新しく妹が出来たが、まったく興味がなかった。そんな中、あの男だけは妙に鉢合わせすることが多く、なにくれと大学のことを聞いてきたりもした。
「バカなのは……私の方だ」
昂る感情を抑えきれぬまま、慌ただしく自分の部屋に飛び込むと、私はそのままベッドに倒れ込んだ。妙に息が上がっちゃって、そのまま大きく深呼吸を繰り返す。少しして、落ち着いたところで、しかし私は体を起こそうとは思わなかった。
ベッドの上で寝返りを打って横になる。私の机や本棚が見えてくる。乱雑に机の上に散らかる筆記用具や、ぎっしり詰まった参考書類。私はこれらを駆使して、めいっぱい励んできたつもりだった。
さんざんお世話になったそれらを、この手で燃やしてしまいたくなる衝動すら湧き上がってくる。
デスクライトも、参考書も、本棚も、筆箱も、ペンも、消しゴムに至るまで、私が自分で買ったものはなにひとつとしてない。なにもかも、気が付いたら手元にあった、不便がないから使っていた。
当然のこと、それらが木や草花みたいに勝手に生えてくる訳がない。ぜんぶ、買い与えられたものだ。
大学の学費だって、いくら国公立だって安くはない。私はその明細書に一度でも目を通したことがあったか。
ひとりでできる気になって、ひとりでできた気になって。
悔しいやら情けないやら申し訳ないやら、いろんな気持ちが胸の中でぐるぐる渦を巻いて、吐きそうだ。
極めつけには今回の院進学の件。私は、自分の四年間の努力が評価されたものだと信じていた。しかし、それすらも勘違いではなかったか。あの男を哀れんだ尾藤アンジェラ女史の温情により、拾い上げられただけではなかったのか。
子ども扱いしないで、なんてどの口が言えたものか。
ああ、このまま消えてしまいたい。
その時、ノックの音が聞こえて、私は身を縮こめた。誰にも合わせる顔なんてないのだから。
「お姉ちゃん、入るよ?」
「やだ」
静かに扉の開く音がする。そのままどこへ行くのかと思えば、私の前で止まるような気配がして、しかもそこから動かない。亀が注意深く辺りをうかがうようにすこしだけ首を出す。
「なにしに来たの」
「なにしに、って、私の部屋でもあるんだから」
姉妹共用であてがわれた部屋は、実質双葉の部屋みたいなものだ。いま私がくしゃくしゃにしているシーツや布団だって、双葉が洗って、毎日綺麗に整えてくれていたから、私は快く眠っていられたのだ。
「誠さん、びっくりしてたよ。急にお姉ちゃんが怒鳴るから。そのあとお酒飲むって言うからおつまみ作ったのに、ぼーっとしててぜんぶこぼしちゃうし」
双葉は布団にくるまった私の隣に腰を下ろす。ふわりと脂のにおいがした。
「すごいね、双葉は」
「そんなことないよ。ちょっと料理ができるだけで、彩音さんみたいに美人でもないし、お姉ちゃんみたいに勉強ができる訳でもないもん」
勉強ができる訳じゃない。私は、たださせてもらっているだけだ。一方で双葉は、ふだんの生活の見返りとして料理や洗濯などの家事をしている。
「私なんて、なにもしてないのに」
「好きでやってるだけだから」
そんなふうにまで言われたら、もはや立つ瀬がない。
「むしろ、私はお姉ちゃんがすごいと思うよ。別の大学に院進学するのって難しいんでしょ? ほら、私って将来の夢なんて何にもないから。ほかにできることもしたいこともないから、それがたまたま好きだったから、やってるだけで」
「でも、それももしかしたらあいつのおかげかもしれないし……」
布団の中に首をすっこめてその言葉を口にすれば、反響して胸に突き刺さって苦しくなる。私が自分自身の力でなしえたことなんて、本当の本当に何もないみたいで、自分という人間がひどく空っぽのように思えて、そうしてそこにたくさんの不安と恐怖が入り込んでくるような感覚。すっぽりと足場が抜けて、奈落に落ちていくような錯覚。ぎゅっと抱きしめた体の感触だけが、辛うじて私がここにいることを証明しているみたいで、ひどくおぼつかない。
「……双葉?」
さっきまで喋っていた双葉の気配がない。トクントクンと自分の心音だけが聞こえて、本当に闇の中に消えてしまったような気がして、心細くなって慌てて顔を出すと、
「お姉ちゃんの……バカ――――――!!!」
双葉の絶叫が聞こえたかと思えば、私の世界は反転して、何事かと目を剥く間もなく、したたかに床に頭と背中を打ち付けて、そこでようやく私は投げ飛ばされたのだと気が付いた。
「な、なに……?」
「そんなに気にしてるんなら、その尾藤先生に聞きにいけばいいじゃない! 私が進学できたのは、誠さんのおかげなんですか、って!! 誰にも相談しないで、分からないことを勝手に自分の中で決めつけて、お姉ちゃんの悪い癖!!!」
「でもでも、もしそれで……」
「もう知らない!!!」
あっという間に私は布団ごと廊下に放り出され、追いすがる間もなく扉を閉められ、しかもそのうえ鍵までかけられた。なんて仕打ち。
「双葉ぁ……」
声を掛けるも反応はない。仕方なく、私は布団を引きずったまま階段を下りて、電気の消えたリビングの戸をそっと押し開ける。既に中には誰もおらず、冷蔵庫のコンプレッサーの唸り声だけが私を迎え入れる。
ほっと溜息が出る。電気を点けようかとも思ったが、やめた。なんだか見てはいけないようなものを見てしまうような気がしたから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます