2-7 仙崎誠、後日談②
〇
彩音が汚してしまったために、せっかくのダブルベッドも全面を使うことはできず、仕方なしに俺はソファに横になった。速やかに寝息を立て始めた彩音に比べて、当然熟睡などできるはずもなく、電話の着信音が聞こえて目が覚めてしまった。
慌てて体をまさぐるも携帯は鞄の中で、そもそも俺のものではなく、彩音の方の呼び出しのようだった。頭まですっぽり布団をかぶって眠る彩音に起きる気配はなく、仕方なしに代わりに出てやると、
「おはようございます、彩音さん。体調の方はいかがですか?」
原田さんのモーニングコールだった。原田さんも、昨日はよく眠れたろうか。
「おはようございます。彩音ならまだ布団の中です。すぐに起こしましょうか」
「……お兄さん、ですか?」
いぶかしむような調子の声。言葉を失ったかのような静寂。
しまった! うかつに電話を取ったが、彩音の携帯に電話をかけて本人以外が出るというのは、おかしなことだ。それも、こんな朝っぱらから!
「あの、いや、これはですね。昨日はたまたま彩音がリビングに携帯置いたまま部屋で寝ちゃって、俺は仕事でこの時間にはいつも起きてまして、……」
即席のでっち上げにしては、我ながら会心の出来だ。俺と彩音は同じ家に住む家族なのだから、そういうこともありえる。
「そう、ですか。昨夜はお楽しみだったようですね」
「お楽しみだなんて! いやいや、そんなめっそうも!」
まさか原田さん、俺のこの嘘を看破してしまったというのか!
「? 昨日の帰り道――夜の十一時半くらいでしょうか――おふたりがカラオケボックスに入っていくのも見たものですから。あんなに笑ってる彩音さん、久しぶりに見ました。ですから、私も声を掛けずそのまま帰ったのですが……」
「あ、ああ、そうそう。いやー、めちゃくちゃ盛り上がりましてね。果てには、終電まで逃しちゃって」
「終電を逃した?」
しまった!! なに自ら墓穴掘ってんだ! 悪いのはこの口か!
「そ、そーなんですよ。気付いたら夜中の二時で。俺も明日仕事あるのにやっちまったなぁ、とか思ってたら、偶然目の前にタクシーが停まってくれて」
「タクシー? その時間帯に、ですか?」
つと冷や汗が首筋を伝った。駅前のロータリーにもタクシーが見当たらず、近くのラブホテルに宿泊した、なんて事実だけは、他人はおろかほかの家族にも知られる訳にはいくまい。
「本当は、タクシーなんて見つけられなくって、近くのホテルにそのまま泊まった、とか。そんなことはないですよね?」
「まっさかー!」
実はこの人は俺たちの後ろをつけてきていて、その一部始終を目撃していたのではなかろうか。
「まぁ、そういうことにしておきましょう。ちなみにそこのホテルのモーニングは、Cセットがおススメです」
やっぱ見てんじゃん! ていうか、原田さんここのホテルそんなに使ってんの!?
「冗談です。私は処女ですので、ラブホテルなんて利用したことありませんから」
こんなときめかない告白もあるだろうか。
乾いた笑いを顔に張り付けてしばらく、電話の向こうで小さなため息が聞こえて、
「彩音さんが起きたら、今日の仕事はすべてキャンセルしておきます、とお伝えください。いくらお兄さんが優しい人とはいえ、処女を失った次の日は、足腰が立たなくなりますから。それにお兄さん童貞ですし」
「いや妹の処女奪ってねーよ!? ていうか、原田さん経験してんじゃん!」
あと俺の童貞は関係ないじゃん!
「冗談です。私はお兄さんのこと信じていますよ」
そんな生温かい信頼は要らない。
「いったいどこのどいつが、血のつながった妹に手を出そうって言うんです。せいぜい俺がしたことといえば、あいつの乳首をつねったくらいのもんですよ」
「え、ここで下ネタですか……」
「あんたさんざんぱら下ネタしてただろうが! なに、ドン引き……みたいな感じで喋ってくれちゃってんの!?」
「冗談です。私、下ネタ大好きです。処女ですから」
朝っぱらから処女処女うっせーな!
「……それで、何の話してましたっけ」
興奮したら頭が痛くなってきた。二、三言葉を交わす限りでは、もっと凛々しいキャリアウーマン然とした人だと思っていたが、こうやってちゃんと話してみると、志津香と同じにおいを感じる。
「彩音さんが今日は一日ゆっくりお休みください、という話です。先方には私の方から話を通しておきますので」
「でも、それって……」
「大丈夫です。ですから、安心して朝一エッチなりなんなりと、お楽しみください」
「だから妹ととはしねーよ!?」
「冗談です。それでは」
ぷつん、と通話が切られる。掛け直そうかとも思ったが、原田さんなりの気の遣い方なのだろうと受け取っておく。
いちど請けた仕事を当日にドタキャンするとなれば、理由如何によらずクライアントの怒りは相当のもの違いない。しかもそれを実際に被るのはマネージャー兼の付き人の原田さんだ。
ふだんの俺なら、いますぐにでも彩音を蹴飛ばして仕事へ向かわせただろうが、今日ばかりは彼女の行為に甘やかせておいてやろうと思う。
それから一時間ほど経って、ようやく彩音が、飛び跳ねた頭をかきかき、目を覚ます。寝過ごしたと取り乱す彩音をなだめつつ事情を説明し、原田さんオススメのCセットを注文すると、運ばれてきた特選えび御膳は確かにうまかった。
ホテルを出た時には、もう夕方だった。せっかくだからともう一度あのだだっ広い風呂を心行くまで味わった後、備え付けの映画を観賞したりしている内に、すっかり時間が経ってしまっていた。
夕食は双葉の手料理がいい、と言う彩音に同意して、ふたりして今日の夕食を当てっこなんかしながら帰り道を歩いていると、
「およ。誠兄ちゃんとあやねー」
下校途中の志津香とばったり出くわした。
「無職童貞ヒキニートの兄ちゃんはともかくとして、あやねーがこんな時間に仕事終わってるなんて珍しいじゃん」
「おい、言い過ぎだぞ。無職とヒキニートは撤回しろ」
「童貞はもういいんだ……」
「んー、なんかふたりともえらくさっぱりしてんな? くんくん、湯上がりっぽいにおいもするし。でも、そのわりには服は昨日の着た切り雀っぽい」
妙に鋭いな。動物的勘というやつだろうか。
「くんくん、くんくん。シャンプーもいつもと違うやつ使ってる。しかも、一緒のやつ。服からお酒と煙草のにおいもすこし。あとは、……海老食った?」
どんだけ鼻が利くんだ、犬かこいつは。しかし犬程度の知能で、昨夜の一件が露見することはあるまい。
「ふたりで銭湯でも行って、飯食って来たのかよー。なんだよ、あたしも誘ってくれよ」
「そ、そうそう。ていうかお前は学校だろうが。ほら、さっさと帰るぞ」
「ちょっち待っち。いまあっこのスーパーでふたねーが会計してるところだから、どーせだからみんなで帰ろうぜ。……お、出て来た出て来た。おーい、ふたねー!」
志津香の言う通り、買い物袋を両手に提げた双葉が現れる。彩音を見るや、驚いたように、そして安心したように微笑んだ。
バツが悪いのか、俺の背中に隠れようとする彩音の尻を叩いて、発破をかける。
「……この間はごめんね。今日は、双葉ちゃんのご飯、ゆっくり食べられるから」
「はい!」
美しき哉、姉妹の仲直り。ほろほろと涙がこぼれそうになる。
「ところでさ、ふたねー。ふたりともズルいんだぜ。昨日帰ってこないと思ったら、ふたりで酒飲んで風呂入って来てるんだぜー」
「え、それって……」
双葉の手から買い物袋が滑り落ち、その拍子に卵からまろび出て、悲愴な音を立てて割れた。心温まるシーンが、一転して肌寒い。
「見ろよ、あやねーのツヤツヤした顔」
双葉の視線が俺と彩音の間を行き来する。
「誠さん……服、昨日と同じですよね……」
「待て待て、よく聞け――」
「不潔です――――――!!!」
スパンと、なにかが鯉口を切った。それは、買い物袋から伸びていた青ネギだった。しかしそれを認識できた時には、俺の意識はもうなかった。
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