2-6 仙崎誠、三度目の正直
〇
「ここ、どこぉ……」
悩ましげな声が聞こえて、半眠半醒の意識がすっと急上昇する。ベッドの縁に腰かけて、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
「頭、痛い……。それに、なんか臭い……」
頭が痛いのはお前が飲みすぎたせいだし、なんか臭いのもお前が吐きすぎたせいだ。もちろん、本人にそんな記憶などあるはずもなく、呆けた顔のまま、いまの自分が置かれている状況を把握しようと、きょろきょろ辺りを見回している。
「お風呂入りたい……」
「風呂なら沸いてるぞ」
浴室の方を指さすと、なんとか動き出そうとするものの、足腰に力が入らないらしい。仕方なしに肩を貸してやって、なんとか風呂の中まで連れ入ったところで、彩音に密着してしまったせいで、俺まで汚れてしまった。
「俺も一緒に入るわ」
「ん……」
ほんの冗談のつもりで言ってみたが、意外にも反対されることはなかった。彩音はその場でへたり込み、意識を手放そうとする。
「起きろ、馬鹿」
洗面器にお湯を汲んで頭からかけてやるが、むずがゆそうに呻くばかりで、一向にその場から動こうとはしない。
ため息ひとつ、シャンプーを手になじませてそっと髪に指を入れる。彩音の頭に手を触れることなんて、いつぶりだろうか。
「目つぶってろよ。泡が入るぞ」
「ん……」
「次は体洗うぞ。ほら、背筋伸ばせ」
「ん……」
「痒い所はございませんかぁ」
「ん……おっぱいの裏」
いまこの瞬間だけの俺たちの姿をすっぱ抜いて、いったい誰がふたりの関係を正しく理解できるだろうか。下僕と主人なんていう頓珍漢な答えを出す者もいるかもしれない。むべなるかな。
痩せっぽちの体躯の割には豊満さを保つ乳房をたくし上げ、スポンジで念入りに洗う。妹である以上に、下着まで手洗いした相手に、どうやって性的興奮を感じられようか。これはもはや介護だ。
むろん、下半身も入念に洗う。介護に手抜かりは許されない。たまの肌の輝きはモデルの生命線、足の指の間まで懇切丁寧に磨き上げる。強すぎる摩擦はむしろダメージの元になりかねないから、力加減は赤ん坊をくすぐるように優しく。
そして最後にいっぱいの水を頭からざぶり。
手が滑って洗面器がつるり。
彩音の頭にぽかり。
「いたっ! もう、なにすんのよ……」
「悪い」
「もう、気を付けてよね――」
肩越しに、恨めしそうな目を向ける彩音と目が合う。彩音の瞳に映るのは俺の裸体。そして俺の瞳に映るのも、もちろん全裸の彩音。
これは、俗にいう「あの」シチュエーションじゃなかろうか。女の子の入浴中に、何も気づかない男の子が入って行ってしまって、恥ずかしがる女の子に強烈なビンタを受けるという、「あの」。
「ナンデ?」
が、期待通りの展開にはならず、彩音は振り向いたままなんとかカタコトの疑問をひねり出すばかりだった。
「ナンデオフロ?」
なんで私がお風呂にいるのか、それとも、なんで俺がお風呂にいるのか。どっちだろうか。
「お前が風呂入りたいって言ったんだろ」
「そんなこと言ったっけ……」
「全身ゲロまみれ、小便まみれだったからな」
「なにそれどういうことよ。……あ、そっか誠とお酒飲んでたんだっけ。最後カラオケ行ったのは覚えてるんだけど」
「そんで酔いつぶれて、ゲロまみれのお前を俺がここまで連れて来たんだよ」
「うわぁ、やっちゃった。ありがと、誠」
浴びるほど酒を飲み、カラオケボックスで暴れまわり、しまいに汚物をまき散らす痴態を晒した彩音は、険の取れた顔つきではにかんだ。
その表情が見れただけでも、今日の作戦は大成功だろう。
「それはいいんだけど、……ここ、どこよ?」
「ホテル」
「どこのよ? こんなおっきなお風呂があるようなホテル近くにあったっけ」
「駅前の」
「駅前……?」
ピンと来たようだ。みるみる顔が赤くなっていく。背の低い商店の密集する駅前繁華街の中、六階建てのこのホテルはよく目立つ。
「はぁっ!? なんでそんなとこに来てんのよ! しし、しかも、誠と!」
「ええい、体を洗ったやつはさっさと湯船に浸かっとけ!」
ぎゃいぎゃいうるさい彩音を湯船に放り込み、自分の体もさっと洗う。それから俺も湯船の中に体を沈めた。
「はー、落ち着く」
我ながら良い湯加減だ。熱すぎず、温すぎず。今日一日の疲れが吹き飛んでいくようだ。
「風呂は命の洗濯、とはよく言ったもんだよなぁ」
後ろから彩音を抱きかかえるような姿勢で、大股を開いてもまだまだスペースに余裕がある。
「…………」
「しっかし、この年になって兄妹で風呂に入ることになるとは」
「そもそも兄妹でホテルに入るところから異常でしょ」
俺が中学生になるまではよく一緒に入ったものだが、もう遠い昔だ。
「ちょっと、なんか当たってるんだけど」
「当ててんだよ」
「それ、男側が言う台詞じゃなくない?」
「本当の俺のはもっと立派だぞ」
「やだ、聞きたくない。そんな話」
大きな湯舟で手足をぞんぶんに広げてリラックスする機会なんてそうそうないもんだから、俺も彩音も、次第に口数が少なくなっていく。
耳をすませば、遠くテレビの声、シャワーから雫のしたたる音、彩音の息遣いが聞こえてくる。そして目を閉じれば、自分の肉体がお湯の中に溶けだしていくような錯覚にすら陥りそうになる。
あるいはいまなら、彩音の強がりじゃない、本音も聞けるかもしれない。そう思って口を開きかけた時、
「正直ね、仕事しんどい。朝早くって、夜遅い、体力的に大変なのもあるんだけど、精神的にすり減っていくっていうか、さ」
「仕事なんてそんなもんだよ。好きなことだけやってられないし、嫌いなやつとも付き合わなきゃならん」
「うん、分かってる。分かってるつもりなんだけど」
とはいえ、俺も世間様に通用するようなふつうの仕事に就いている訳じゃないから、あまり強くは言えたもんじゃない。例えば銀行の営業職なんかは、何足も靴を履きつぶして、ようやく話を聞いてもらえるというような具合で、聞いた話では、とある工場の社長に会うために、その友人、娘、親の三者を篭絡し、初めてお目通りかなった、ということもあるらしい。
ほかにも、ふつうに会社に出向いて社長を訪ねても、実際の在不在に関わらずかならず受付で追い返されるので、受付嬢と仲良くなって、社長の行動パターンを内通してもらい、その行き先を毎日毎日張り込んで、やっとのことで面会できた、というような話もある。
そういう意味では、最初から生徒という顧客が用意されている俺や、原田さんが駆けずり回って仕事を取ってきてくれる彩音も、まだ幸せな方なのかもしれない。
辛いなら辞めればいい、なんていう提案は、一見親身になっているようで、実際は残酷に突き放しているだけだ。それでも俺は、双葉を怒鳴りつけるあの彩音の姿を瞼に思い浮かべると、尋ねざるをえなかった。
「いまの仕事、辞めたいのか」
「ううん。それだけは絶対にない。あたしは、この仕事に誇りを持ってる。それに、好きだから」
妹ながらにその答えは、どこまでもまばゆく思えた。いったいどれだけの人間が、自分の仕事にプライドを持って臨んでいるだろうか。
「でも、でもさぁ……あたし、甘えてるのかなぁ」
とはいえ、そんなきれいごとだけで何事もうまくいくほど、千変万化複雑怪奇のお世間様は甘くない。ぶくぶくと泡を立てながら沈んでいく彩音を責めるのは、兄として苛烈すぎるというものだろう。
「みんな、あたしのことなんか言ってた? 特に双葉ちゃんには、ずいぶんひどいこと言っちゃったから」
「頭からズダ袋被せて、全身に砂糖水かけたあと、飢えたネズミの巣に放り込む、って言ってたぞ」
「なにその拷問!?」
「嘘だよ。ほんとは、腹の上にネズミの入った寸胴鍋をひっくり返して、火で温めるって言ってた」
「……それ、どうなるの?」
「中の温度に耐え切れなくなったネズミが、本能から地面に潜ろうと腹を――」
「やめてやめて! 聞きたくない!! 聞きたくない!!!」
「ちゃんとご飯食べてるのかなぁ、って心配してたぞ。佳純もあんまり喋らないけど、心細そうにしてる」
「志津香ちゃんは?」
「あの糞ビッチ死ね、って叫んでた」
「まぁ、あの子はいいわ」
「そうだな、志津香はいいな」
哀れ志津香。
「……そういやお前、結婚とか考えてんの」
モデルという仕事に誇りを感じて、その道に邁進するのは応援するとして、彩音もそろそろ好い年齢なのだから、そういうことも考えていく時期だろう。
彩音は一瞬動きを停めたあと、ゆっくりと振り返って、
「どーゆーシチュエーションでどーゆー質問してんのよ。そんなだから、誠はその年にもなって童貞なんでしょ」
「ど、どどどどど童貞ちゃうわ」
「はいはい、童貞乙。彼女よりも先に妹とホテルに来るって、……はぁ」
呆れたように大げさにため息をついて、湯船の中で身動ぎする。
「……童貞の兄貴に、あたしのおっぱい触らせたげよっか。世の男子がどんだけ触りたくても、絶対に触れない、あたしのおっぱい」
小悪魔めいた微笑を浮かべて、彩音の肩越しの視線が俺を見つめる。頬は長湯のためにリンゴみたいに真っ赤になって、まるで照れ恥うかのよう。
「俺と大差ないような処女が何言ってやがる。妹のおっぱいに欲情する兄がどこにいるんだよ」
「とか言いながら、しっかり手回してるじゃん。引くわぁ」
「もらえるものは、借金以外はもらっておくのが俺の主義だ」
「なーんもかっこよくないからね、そのキメ顔」
以前、志津香の胸に手を押し当てたこともあったが、あれはまさしく触れたというのが正しかった。佳純の時に至っては記憶がない。しかし、今俺が手にしているのは、まさに揉みしだくという感触。さすがは枯れても現役モデル、思わず驚嘆のため息が漏れる。
すすすと手を這わせている内に、小さな突起に行き当たった。例えるなら、撞きたての餅の中に残った、すり潰れきれていない米粒のような手触り。
「もぅ、誠。触りすぎ。もう満足で――」
俺は、その異物を決して許しはしないと、異教徒に対する審問官のような使命感で以て、その突起を、思い切りつねりあげた。
「いっっっっっっったーーーーーーーい!!!!!!」
瞬間、跳ねる彩音。するりと逃げ去る柔らかな、極楽の中の極楽。
「なんで! なんで!? なんでいま私の乳首つねったの!!??」
「ふっ……悪は滅び去った」
「キメ顔じゃないから! 乳(これ)、あたしの大事な商売道具なんですけど!」
「グラビアだったら乳首まで出さねーだろ。上半分が健在なら仕事に差し支え出ないだろ」
「その理屈だと、あたしのおっぱい、乳首以下不要なんですけど!!??」
「おぅ、だったら下半分はよこせ。部屋に飾る」
「なにそのオブジェ!」
「ふっ……もらえるものは借金以外はもらう主義だからな」
「だからキメ顔じゃないから!」
ひとしきり怒鳴り散らしたあと、彩音はため息ひとつ、すっくと立ち上がって、
「あぁ、もう。誠が変なことするからのぼせてきちゃった。先に出るから」
その時の彩音の姿は一糸まとわぬ、完全な裸体。形のいい乳房も、俺が思い切りつねった乳首も、整えられた陰毛も、なにひとつ隠すもののない姿。
きっと世の中学生からすれば、見るだけで射精してしまいそうな絶景に違いない。
けれど、俺が思ったことは、
「ぷっ。やっぱり、俺たち兄妹だわ」
「……なによ、当たり前のこと言って」
「お前じゃ勃たねー、ってことだよ。なんだったら証拠見るか? あぁ、でも切り取って部屋に飾るのだけは勘弁してくれ。俺は、兄のイチモツをオブジェにしてるような妹は持ちたくない」
「バカッ! そのまま茹だれ!」
ばしゃんと、勢いのまま扉を叩きつけて、彩音は風呂から出ていってしまった。
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