2-4 仙崎誠、誰が為に金は為る



 彩音とは顔も合わさない日々が続いた。俺の方もまた、期末テストが近づいてきて、にわかに忙しくなり始め、テスト作製やらなにやらで、あまり他を気にする余裕がなかった。


 学期末が迫ってくると、進学校であるうちの高校では、放課後我先にと授業の内容について熱心に質問へ来る。自習室も八時まで解放しているため、それに合わせて我々教師陣も少なくともその時刻までは対応に追われ、自分たちの業務を始められるのはそれからとなってしまう。

 双葉には夕食用に弁当をこさえてもらい、家には帰るのは日が回る前、というのも珍しくない。帰ったら帰ったで、すぐに床に入れる訳でもなく、教科書や参考書とにらめっこの毎日だ。


 そんな時に、事件は起こった。


「疲れてるんだからほっといてよ!」


 階下から悲鳴じみた怒鳴り声が聞こえてきて、俺はぎょっとした。

 彩音の声だ。いつの間に帰ってきていたのか、どうやらリビングの方で誰かと言い争っているようだ。


「どうした、なんかあったのか?」


 慌てて駆け降りると、肩を怒らせる彩音とそれと向かい合う双葉という構図だった。双葉は言うまでもなく、彩音にしても自分の主張はやんわりと相手に伝えるきらいがあるから、ちょっと意外な組み合わせだった。


「でもぅ、彩音さん毎日お疲れみたいですし……。せめて、ごはんくらいはしっかり摂ってほしいと思って……」

「あたしがそんなことしてほしいなんて頼んだ?」


 ずいぶんな言い様だ。どういう経緯か分からないが、妹に向けるにはあまりにとげとげしい。


「なにがあったか知らんが落ち着け彩音。双葉が委縮しちまってるぞ」

「なによ誠、あんたもなんか言いたいワケ?」

「いいからいったん座れって。コーヒーでも淹れようか」

「いらない。すぐ寝るから」


 回り込んで見た彩音の顔はひどいものだった。過労のためか目は血走り、その下にはくっきりとクマが浮かんでいる。頬はこけ、ただでさえ華奢だった体は、まるで枯れ木のようだ。


「お前、飯食って寝ろ。原田さんには俺から連絡しておくから、明日の仕事は休め」

「いらない。私に構わないでよ」

「そんなんじゃ仕事にも障るだろうが。鏡見たか?」

「見てるわよ。クマはファンデーションとコンシーラーでなんとかなるし、撮った写真をそのまま使う訳でもないから、問題ないわ。……もういい? ほんとに寝たいんだけど」

「あのぅ、やっぱり少しだけでもごはんを食べてから……」

「うるさいわね!」


 壁を叩いて威嚇するも、それすらも弱々しく痛ましい。彩音は踵を返してリビングを出て行こうとする。


「ふあぁ……こんな夜中にどうしたんだよ」


 騒ぎを聞きつけた志津香が大あくびを噛み殺し、その後ろには佳純が立ち尽くしていた。


「およ、どしたんだよあやねー。えぐい顔してんな。そんなんじゃ商売あがったりじゃないのか? ふふん、ここはあたしのメリハリボディが活躍する時だな」

「どきなさい。私はいま機嫌が悪いの」

「んだよ、そんな言い方しなくてもいいだろ。すみねーも何か言ってやれよ」


 佳純は目を伏せたまま、ためらいがちに、


「ねーちゃん。その、たまには休んだ方が……」

「うるっさいての!!!」


 けれどその言葉は届かない。雷のような叫び声に、たまらず、志津香と佳純は身をすくませる。


「だいたい、こんな時間までいったい誰のために――」

「彩音!」


 それ以上は言ってはいけない。その先は言葉にするべきじゃない。


「寝るから」


 振り向きもせず、彩音は廊下を歩き出す。小さな小さなその背中に、声を掛けられる者は誰もいなかった。


 それ以来、彩音の帰りはますます遅くなった。その理由は、妹たちを顔を合わせにくいというものもきっとあるだろうが、どうやら仕事終わりに夜な夜な酒をひっかけているらしかった。

 初めの内は寝酒程度のようだったが、日を追うごとに量は増え、朝方リビングに降りると、ソファで寝転がっていたり、机の上に空き缶が放置されていることもあった。妹たちには見せるまい。


 挙句には、外で眠ってしまって、付き人兼マネージャーの原田さんに送られて、それを俺が玄関先まで引き取りに行く、ということまで起こり始めた。原田さんが気の毒そうにすみませんと頭を下げるのが、こちらこそ申し訳なかった。


 本人としては酒を飲んでリフレッシュしているつもりだろうが、彩音の具合はますます悪くなる一方だ。夜遅くまで酒を飲んで朝早くに出かけるなど、疲れの取れるはずもない。

 仕事の方は問題ないと言っていたが、もはやそれも本当かどうか怪しいところだ。


「本当にすみません、お兄さん」

「いえいえ、こちらこそ。本当に原田さんには頭が上がらないです」


 居酒屋やバーもぼちぼち暖簾を下ろし始めた頃合いに、俺は繁華街に車を回していた。もう何度目になることか、彩音が飲んでいる最中に眠ってしまい、しかしタクシーも捕まらず、俺の携帯にエマージェンシーコールが舞い込んだのだ。


「原田さんもお疲れでしょうに。一緒に乗ってくださいよ、送ります」

「ありがとうございます。ですが、私はこの後事務所に戻って残った仕事を終わらせないといけませんので……」


 連日連夜彩音に連れ回されているのだろう、彼女の目の下には黒々としたクマがくっきり表れている。本人もすこしは飲んでいるのだろうが、その顔色は赤いどころか真っ青で、見るだに心苦しい。


「しかし、こいつも何でここまでして酒飲むかね」

「先方との付き合いもありますが、どうやら、新しい雑誌のモデルの方々と折り合いが悪いようでして、それですこしストレスが溜まっているみたいです」


 どんな仕事にも人付き合いはつきものだ。モデル業界ともなれば、他人の蹴落とし合いなんて日常茶飯事だろう。その苦労をしのんでやることはできても、汲んでやることはできない。

 だから、酒を飲んでリフレッシュしたいという彩音の行動にいちいち目くじらを立てるつもりもないし、時には深酒したいこともあるだろう。

 が、それで他人様に迷惑をかけているというのなら話は別だ。それに、彩音ももう大人なのだから、俺が謝って回ることが、むしろ好ましくない顛末に転がることだってある。


「しんどいんなら、たまには仕事休めって言ってるんですけどね。そんなに忙しいもんなんですか?」

「いえ、ご自分でもっと仕事がしたいと言っていて……。妹さんたちのために頑張らないとって。モデルの体調管理もわたしの仕事ですのに、すみません」

「原田さんが謝ることじゃないですよ。馬鹿が気の遣い方と仕事の仕方を知らないってだけです。それと、酒の飲み方も」


 佳純が帰ってきたのがよっぽど嬉しかったのだろう。当人は頑張っているつもりだろうが、やる気が空回りしているとはまさにこのことだ。確かに金を稼げばそれだけ家計は楽になるが、俺たちが望んでいるのはそういうことじゃない。それに気付かないのは、健気さでもいじらしさでもなく、単なる阿呆だ。むしろ腹立たしくすらある。


「そうだ、原田さん。近々、こいつのスケジュールで空けられるところってないですか。仕事終わりとかでもいいんで」


 とはいえ、こんな不器用な飲んだくれでも、妹は妹だ。哀れと思ってしまうのが兄心。


「十九時以降でしたら、なんとか一日――」


 知らないというのなら、分からないというのなら教えてやればいい。


 まずは酒の飲み方から。


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