1-5 仙崎彩音、乙女追想


 〇


 中学時代、私はいわゆる不良少女という輩だった。いま思い返してみれば情けなくって、むしろ笑ってしまいそうになるが、この世のすべてが嫌になって、無茶苦茶にしてやりたい気分だった。


 毎日毎日、喧嘩に明け暮れ、学校にもほとんど行かなかった。家に帰っても大好きなお母さんはもうおらず、待っているのは兄貴の小言だけ。次第に家にも寄り付かなくなり、友達の家を転々とした。

 幸いにも、他の友達たちのようにあれがほしい、これがほしいというような欲はなかったから、万引きだとか置き引きだとか、そういうことには興味が持てなかったし、当時まだまだ乳臭かった私にお金を払うような物好きもいなかったから、体を売ることもなかった。


 だから、私はなおさら喧嘩に没頭した。


 子供同士の喧嘩は、体格よりや腕力よりも度胸勝負だ。いかに容赦なく相手の顔をぶん殴れるか。いかに怯んだ相手を強烈に打ち据えられるか。

 一回りも二回りも大きな体つきの男子を相手にだって、タイマンなら負けなしだった。降参しても殴るのをやめなかった。私の胸がすくまで、殴り続けた。


 けれど武勇伝は続くものじゃない。殴られれば殴り返される、そんな当たり前の因果応報。十人を殴ったのなら、十人に殴り返されるだけのお話。

 取り囲まれれば、常勝無敗の拳骨も、ひとりを殴りつけている間に簡単に取り押さえられ、そこで私ははじめて、女の細腕では「喧嘩」では勝てても、それ以外ではかなわないことを悟った。


 自分よりも背の高い男子たちに視界を遮られ、手足を封じられ、私は恐怖のあまり声すら出なかった。今でも、その時の光景はまぶたに焼き付いて離れない。そして時折、どうしようもなく私の心を揺さぶり、責め苛む。


 一瞬の隙を突いて、這う這うの体で逃げ出した私が、遮二無二になって向かった先は、もう帰るまいと思っていた家だった。もし玄関を開けようとして鍵がかかっていたらどうしよう、チャイムを押しても誰も出てこなかったらどうしよう、なんて考えている内に、体が震えてきて、その場で立ち尽くして動けなくなってしまった。

 あいつらが追いかけてきたらどうしよう。もしかしたら、もうすぐそこまで迫ってきているかもしれない。


 ぺたんとその場で座り込んで、もうダメだと絶望しかけたとき、


 ガチャリと扉が開いて、


「おかえり」


 私の情けない姿を見て、けれど何も問うことなく、


「よかった」


 誠は、私を抱きしめてくれた。


 その瞬間、全身の力が抜けて、わんわん泣いた。何度殴られても、血を流しても、犯される寸前ですら出てこなかった涙が、溢れて止まらなかった。


 それから、私は以前のような行動を繰り返すことはなくなった。ひとつは、もちろんもう誠を心配させたくないという思いもあったが、男の人がどうしても恐ろしくて仕方なかった。手を挙げられるだけで身がすくんで、しばらくは学校へもロクに通えなかった。


 今でこそ、担当のカメラマンや取引先の男性と目を見て話すことはできるけれど、それでもやっぱり、まだすこし怖い。


 だから、

 まるで自分の過去をなぞったような振舞いをする子に、

 あまつさえ新しくできた妹に、

 そんな思いをしてほしくないから、

 私は――


「待ちなさい!」


 気付けば駆け出していた。ブーツでは走りにくくて転びそうになるが、逃げる妹の背を追いかける。ただでさえ路地が多いのに、土地勘のないこんな場所で見失えば、もう二度と見つけられない。

 どこをどう走ったのかも覚えていない。誠もいつの間にか姿はなくなっている。いまにも胸が張り裂けそうなくらい苦しい。足も、もう上がらない。

 諦めない。中学生の体力にはもう及ばないかもしれない、それでも。


「血……」


 街灯が、アスファルトの上にまだ真新しい真っ赤な跡を、点々と照らし出す。

 喧嘩の末に怪我でもしているのか、そんな体で駆けずり回れば悪化するかもしれない。しかもこんな不衛生なところに居続けたら、どうなるか分かったものじゃない。

 手足に力を込める。地面を蹴る。私のスピードが上がっているのか、それとも佳純がもう満足に走れないほど疲弊しているのか、どちらにせよ、距離はどんどん縮まっていき、ついに――


「つかまえたっ!」


 私はその背中に指を掛けた。その瞬間、全身の力が抜けちゃって、そのままつんのめって、ふたりしてその場に倒れこむ。


 間近で見た佳純は、はだけた衣服と傷まみれの体で、それでもなお抵抗しようともがくものの、ちょっと力を入れれば封じ込められるくらいに衰弱してしまっていた。額からは血が流れ、なんども拭った跡があるものの、それでもなおとめどなく溢れ続けている。


「きゅ、救急車呼ばなきゃ……」

「いらねーよ。チッ、放せ」


 乱暴に腕を振り回そうとするのを、しかと力を込めて制止する。


「放さないから」


 顔を覗き込み、目と目を合わせて、私ははっきりと宣言する。佳純はばつが悪そうに目を逸らし、立ち上がろうと身じろぎする。


「なんで、私たちから逃げるのよ」

「……別に、あんたから逃げてる訳じゃねーよ」

「それって、どういう――」


 その時だった。


「やっと見つけたぜ、仙崎佳純! ちょこまか逃げ回りやがって!」


 男の子の声。それから、慌ただしい複数人の足音が近づいてくる。佳純と同年代と思しき、その数六人。

 仕返し、報復。すぐにそんな言葉が頭をよぎった。どんなに喧嘩が強くても、一対二ならば苦戦するし、一体三なら勝ち目はない。

 全身総毛立つような記憶が鎌首をもたげてくる。


「チッ……。あんたは関係ないだろ、さっさとどっかに行きな」


 佳純は、彼らから逃げ惑っているのだ。頭の流血や衣服の乱れは抵抗を試みようとして、しかし数の暴力にかなわなった証だろう。

 満身創痍の体を押して、架純が立ち上がる。彼女が、六人の男の子たちに立ち向かうのはもちろん、逃げおおせるのすら不可能なのは、誰の目から見ても明らかだろう。

 警察を呼べば、あるいはこの場を丸く収めてくれるかもしれない。けれどそんな猶予がある訳もなく、ならば私の取る選択肢は決まっていた。


「佳純、大丈夫だから」


 背を向けて、彼らの前に立ちふさがる。

 気を抜くと、足が震えて膝から崩れ落ちそうだ。唇を噛み締めでもしないと、恐怖のあまりわっと泣き出してしまいそうになる。

 私の時には、誠がいてくれた。


 だったら、こんどは私の番だ。


「あんた誰だよ。仙崎の知り合いか?」

「……この子のお姉ちゃんよ。仙崎彩音。あんたたち、寄ってたかってひとりの女の子を追いかけて、男として恥ずかしくないワケ?」


 精一杯の強がりを吐いて、自分を奮い立たせる。さもないと、心が折れてしまいそうだから。


「別にあんたに用はねーから、怪我したくなかったらどけよ。俺らは、そいつをボコれればいいんだよ」

「どかないわ。あんたたちこそ、怪我したくなかったら、そのまま帰りなさいよ。いまなら、警察には通報しないであげるから」


 なんとか虚勢を張ってみせるも、立ってるのもやっとの状態で、彼らにひとたび襲いかかられれば、ひとたまりもない。


 でも、せめて、この子だけでも、佳純だけでも無事逃げおおせてほしい。


 途中で撒いてしまったけれど、まだ誠も近くにいるはず。あいつのところまで佳純がたどり着けば、きっとなんとかなる。

 歯を食いしばって顔を上げる。大勢の男の子たちを、改めて目の前にすると気が遠くなりそうだった。


 怖い。


 爪が手のひらに食い込むくらいに拳を握りしめる。そうでもしないと恐ろしさのあまり、気を失ってしまいそうだったから。


 一番先頭の男の子が動いた。砂利を踏む音が聞こえる。

 思わず、目を閉じた――


「お、おい。仙崎彩音ってあれじゃねーの。お前んとこの兄ちゃんが言ってた……」


 一斉に足音が響き渡るかと思いきや、聞こえてきたのは、なんだったらまぬけな一言だった。


「一晩で族三つ潰したとか……」「喧嘩した相手の家に火炎瓶投げ込んだとか……」「俺はヤクザの事務所で日本刀振り回して暴れたって聞いたぜ……」「サンドバッグ殴ったら、中の砂だけが飛び散るらしいぞ……」


 ぞっとするようなひそひそ話が、ところどころ漏れ聞こえてくる。なんだその噂は。いったいどこの誰が流した。尾ひれ背びれが付くにしても程がある。失礼な! 当時の私は、ちょっと肝が据わっただけの、ちょっと喧嘩っ早いだけの、いたいけな少女だったのに!


 私のかつての悪行が、十年という期間を過ぎて誇大化してしまっている。


 ひとりの男の子と目が合った。


「ひぃっ!」「に、逃げるぞ!」「次はもっと大勢で囲めば……」「バカ野郎! そんなことしたら、仙崎彩音が日本刀持って暴れ出すぞ!」「覚えてろよっ!」


 なんて口々に騒ぎ始めて、やがて三々五々、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。取り残される私と佳純。佳純は何が起きたのかとぽかんとしているが、私だってそんな気持ちだ。

 爪が身を裂いて血が出るんじゃないかと思うくらいに握りしめていた拳をほどくと、とたんに、全身の力が抜けて、その場にへたりこんじゃった。


「あ、あはは……」


 こういうのをなんていうんだっけ。因果応報? 身から出た錆? 芸は身を助く? とにもかくにも、佳純も、私も無事にこの場をやり過ごした。


 振り返ると、同じように座り込んでいた佳純が、身をよじりながら、


「日本刀持って暴れるって、マジ……?」

「そんな訳ないでしょ!」


 ああ、もうダメだ。立ち上がれない。腰が抜けちゃった。恐ろしい思いをして、勇気を振り絞って、安心して、怒鳴って、馬鹿らしくなって、そんなのがいっぺんに来ちゃって、頭がくらくらする。

 それでも、これだけは伝えなきゃ。


「佳純」


 呼びかけると、こんどは彼女は逃げようとはせず、けれど私はその肩を捕まえて、


「あんたに何があったのかは、詳しくは知らない。あんたが何を思って、何を考えて、家に帰って来ないかも分からない。けど、危ないことはやめてよね、女の子なんだから……」


 いまの佳純とかつての私の境遇や、それに対する反応は確かに似ているかもしれない。けれど、実際に彼女がどう感じているかは、他人である私には本当のところは知りようがない。


 でも、ただの他人じゃない。佳純と、私は、


「もっとあたしを頼りなさいよ。苦しいんなら相談してよ。辛いんなら愚痴ってよ。家族なんだから、お姉ちゃんなんだから……」


 あの日、誠に抱きしめられた時に感じた気持ちが、すこしでも伝わればいい。


 気付けば、私は佳純をきつく抱きしめていた。お姉ちゃんと言ったところなのに、涙が止まらなくって、佳純に顔を向けられない。ぎゅっと腕に力をこめた胸の中、


「ごめん、なさい。……ねーちゃん」

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