1-4 仙崎誠、教師追走


 〇


 金曜日の五限終わり、物理の小テストを添削しているときに、不意に携帯が鳴った。見れば、大学から付き合いのある柴田からのメッセージで、今日飲みに行かないか、というお誘いだった。

 柴田は同じエリアにある公立高校の体育教師で、まあ暑苦しいやつだ。同じ大学院から同じ教師という道を選んだ奇遇さから、いまでもたまにつるんでいる。


「俺は明日も仕事なんだけどなぁ」


 遅くならなければOKと返信を打ち、頬を叩いて気合を入れる。よし、頑張るか。

 そして午後八時。俺と柴田は、行きつけのBAR Flowerの扉を開けていた。


「久しぶりだな! 前に飲みに行ったのはもう一月以上前か!!」


 浅黒い肌、短く刈り込んだ髪型。そして上下ひと揃いのジャージ。これぞまさしく体育教師の鑑という出で立ち。そして声もでかいし、鷹揚に背中を叩いてくれるが、わりと痛い。


「まぁ、その、くらいに、なるな。痛いって。指輪が当たってるんだよ」

「おおっと失敬」


 そして妻帯者でもある。酒が入ると柄にもなく頬を赤らめながら惚気けるさまは鬱陶しいことこの上ない。断じて僻んでいる訳ではない。


「ビールをひとつ!」

「俺もビールで」


 お互いに下戸のくせに酒好きということもあって、大学時代からこうやって飲み歩いていた記憶が懐かしい。


「それにしても仙崎、前に会った時にも思ったが、お前ここのところ妙に老け込んでるな」


 ビールで喉の渇きを潤しながら、突き出しのスモークサーモンに舌鼓を打っていると、柴田が不意に切り出した。


「半年ぐらい前からか。クラス替えの時期でもあるまいに。もしかして、妹さんにオトコでもできたのか!」

「ちげーよ。あー、言わなかったか。新しい妹ができたんだよ」

「『また』か」


 柴田には、四年前にも相談に乗ってもらった。なんともいえない苦笑いを隠すようにジョッキをあおってごとりとテーブルに置く。


「特にふたり目の志津香ってのが厄介でさ。毎日やかましくてかなわん」


 そういうと、ちょっと考える仕草をした後、柄にもなく、言いにくそうに頭をかきかき、俺を見つめてくる。


「なんだよ」

「『ふたり目』ということは、『ひとり目』もいる、ということだな?」

「あ、ああ。まぁそうなんだが……」


 スモークサーモンの最後の一切れを口に放り込み、もごもごと何度か咀嚼した後に嚥下して、


「仙崎佳純という子に心当たりはないか?」


 嫌な予感がした。柴田の口からその名前が出ることももちろん、その神妙そうな表情に、ぎくりとした。


「上の方の妹だ」


 続く言葉を待つほかない。


「そうか。……いや、お前相手に持って回った言い方をしても仕方ないな。仙崎という苗字はこの辺りじゃ珍しいからまさかとは思ったんだが」


 二杯目のビールを半分ほど一気に飲み干して、


「どういう経緯かは知らんが、うちの学校の敷地内で生徒と流血沙汰の喧嘩になってな。場所も場所だったもんだから、俺たちもすぐ気が付かなくてな。駆けつけた時には、頭から血を流して倒れるうちの生徒だけ。聞けば仙崎佳純という女の子にやられたときたもんだ!」


 顔から血の気が引いていく。辛うじて絞り出せた言葉は、


「うちの愚妹が、申し訳ない。その子たちは……」

「はっはっはっ! 頭突きを食らってちょっと額が切れていただけだ! それにしても、女子に喧嘩で負けるとは、うちのワルどもも、存外情けないやつらよ!」


 それを聞いてひと安心。柴田も茶化すように笑ってくれて、ちょっとばかり心が軽くなる。

 しかし、俺の肩に手を回すと、とたんに真剣な面持ちになって声をひそめると、


「とはいえ、気を付けておいた方がいいとは思うぞ。怪我で済む内はまだいい。痛い目を見て、丸くなることもある。だが、その子は……女の子だろう」


 柴田の懸念は、実に的を射ている。そしてそれは、実際に起こりえる。


「俺の方でもうちの生徒との関係を聞き出してみる。なにか分かればすぐに連絡しよう。お前も、苦労してるな!」


 バシバシと痛いくらいに背中を叩く手が、いまばかりは頼もしい。


 結局、ビール三杯とカクテルを二杯胃の中に収めて、店を出る頃には十一時を回っていた。嫁が迎えに来るという柴田とは店の前で別れた。

 酔い覚ましも兼ねて、すこし遠回りをして駅へ向かおう。終電は刻一刻と迫りつつあるが気楽な足取りで以て、ふらふらと見慣れない道を歩いてみる。


 このあたりは一般に歓楽街と呼ばれる地域で、マンションなどの住居よりもオフィスや飲食店のテナントが多い。職場からほど近く、自宅からも数駅程度の立地だが、かといって頻繁に利用するということもない。というのも、教師というのは昨今守秘義務に厳しい職業で、飲みの席でうっかり口を滑らせようものなら、誰が聞き耳を立てているか分からない。ほとんどが今日のように柴田と行きつけの店に行く程度なので、それほど詳しい訳でもない。

 路地を一本外れれば、たくさんの居酒屋の提灯とバーの看板が吊り下げられている光景が、目に飛び込んでくる。時間と財布が許すのであれば、いつか足を運んでみたいものだ。


 と、その一軒の中から見慣れた人影が出て来て目をむいた。マリンキャップをかぶり黒縁伊達眼鏡のその姿は、まぎれもなく次女彩音に違いなかった。


「おい彩音、こんな時間にこんな場所で、なにしてるんだよ」


 背中を向けていた彼女は、ぐるりと大げさな素振りで振り返って、


「……あんだ、誠か。そりゃお酒飲んでたのよ。これから帰るとこ」

「ひとりか?」


 頬に朱が差し、彩音もまたすこし酔っぱらっているようだ。俺もそうだが彩音もあまり強くない。


「そんな訳ないじゃない。だいったい、来たくて来た訳じゃないし。仕事みたいなもんよ」


 肩をすくめて大きなため息ひとつ。いろいろと付き合いもあるらしい。


「あら、お兄さん。ご無沙汰しております」

「原田さん。お久しぶりです」


 再び扉が開いて現れたのは、彩音の付き人でありマネージャーでもある原田さんであった。女性ながらにスーツを着こなし、日々の彩音のスケジュール管理から鞄持ち、モーニングコールまで、なにくれと業務をこなしてくれている。彼女がいなければ、彩音なんて朝もまともに起きられない、底辺モデルだったに違いない。


「原田さんは、こいつの付き添いですか?」

「ええ、まあ。よろしければお兄さんも一緒にタクシーに乗って行かれますか? 経費で落ちますよ」


 それはたまらなく魅力的な提案に思えた。ふだんなら、一も二もなくそのお言葉に甘えているところだが、今夜はちと事情が違う。

 頭をかきかき、彩音の手を引きながら、


「ありがたいお誘いですが、たまには兄妹水入らず、電車にでも揺られながら帰ろうと思います」

「ちょっ、なんで私まで……」


 原田さんをじっと見つめていると、なにかしらを了解してくれたのか、


「分かりました。お兄さんとご一緒でしたら私も安心です。では、お疲れ様です」


 そのまま会釈ひとつ、踵を返して速やかに立ち去った。

 一方、彩音は俺の方を恨みがましくねめつけ、挙句足まで踏んでくる始末。ひとしきり踏み抜いた後、多少は溜飲が下がったのか、不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「で、なによ。なにかあるんでしょ」

「ん。まあな」


 さすがにあけすけな態度だったか。立ち話もなんだから、ゆっくりと歩きながら、駅まですこし遠回りの道を選ぶ。

 大通りからずいぶん離れて、街頭も人気も少なくなったところで、おもむろに切り出した。


「……佳純のことだ」


 その言葉を口に出した時、彩音はどんな表情だっただろうか。二、三歩進んで、灯りの真下で見たその顔は、しかしうつむいていて分からない。ただ、ぎゅっと唇をかみしめる仕草だけが見て取れた。


「なにか、したの。それとも――」

「したほうだ。他校の、それも高校生と喧嘩したらしい。幸か不幸か、のしたみたいだけど」

「でも、怪我してるかもしれないじゃない! 連絡は……!」


 首を振る。俺も彩音も、おそらく晶子や双葉だって佳純の連絡先を把握していない。知っているとすれば志津香だけ。しかしその志津香は、いますこし佳純を放っておけと言う。あるいは、ふたりで詰め寄れば、なんとか聞き出せるだろうか。


「なにかあってからじゃ遅いのよ!」


 酒も入っているせいか、珍しく強い語気で以て詰め寄られて、たまらず面食らう。悲しみ、怒り、後悔、そこに同情や思いやり、姉の矜持……いろんな感情をないまぜにして、しかしそれをぎゅっと押し殺した表情は、パンパンに膨らませた風船みたいに、軽くつつくだけで、容易に破裂してしまいそうだ。

 彩音が、こんなにも佳純を心配している理由。いまにも泣きそうなくらい必死な理由。それは――


 ガタンッ!


 その時、物陰の方で何かの倒れる音。驚いて振り返すと、倒れて中身の散乱したごみ箱。そしてその隣には、


「佳純!?」


 制服のまま、しかしその身形はボロボロで、壁に寄りかかって体を支える姿は痛ましい。素肌の露出している部分は、遠目にも生傷だらけ。


「チッ……」


 舌打ちひとつ、立ち上がって、再び暗闇に溶け込もうとするその背に、


「待ちなさい!」


 伸ばした腕は、届かない。

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