1-3 仙崎誠、ヤンキー怖い



 私立高校の理数教師として教鞭を振るう俺の一週間は、幸いにも週休二日制が遺漏なく遂行されていて、世にはびこるブラックな職場に比して、人間らしい文化的な生活を享受できていると思う。

 休みの配分は、日曜日と月~土曜日のいずれかが割り当てられる。もちろん学校行事などの特例があれば休日出勤と相成ることもあるが、その際には必ず代休を頂戴できる。一日の労働時間が裁量制であることだけに目をつむれば、理想的な職場と言えるだろう。


 平日の昼間の仙崎家のリビングは、さすがに静かだ。彩音は仕事、晶子はラボ、双葉と志津香は学校なのだから当然のこと。ふだんならば俺も本屋に繰り出したり、ひとり銭湯を満喫したりと、家を空けがちなのだが、今日は手持無沙汰のままリビングのソファに寝転がっていた。


「ふあぁ。専業主婦の昼下がりってのは、こんな気分なのかな」


 あくびを噛み殺しながら、お昼のワイドショーや教育番組を行ったり来たり。放っておけばこのまま眠りに落ちてしまいそうだが、それもまたよし。

 アジア諸国のお国事情に話題が移った時、いよいよ俺の瞼は鉛よりも重くなり、


「中東地域では……」


 コメンテーターや芸能人の口論を子守歌に、


「――内紛が……」


 うとうと、


「――師団の活動に……」


 緩やかに意識が睡魔に沈んでいく。……


 ガチャン、


 異質な音が鼓膜を叩いて、目を醒ます。時計の示す時刻は午後二時半を回ったところ。


 誰かが我が家の玄関の扉を開閉した音。


 ふつうなら、仙崎家のほかの誰かが帰宅してきたと考えるべき。しかし、いまは平日の真っ昼間。労働時間が特殊な彩音ならさもありなんというところだが、彼女は帰る際には必ず家族のトークルームに連絡を入れる。ので、否定。

 晶子がなんらかの事情で帰ってきたという線も薄い。彼女ならばもっとひっそりと気付かれないように扉を開け閉めする。

 むろん、双葉と志津香のふたりということも考えたくない。ならば、


 ――空き巣?


 全身の筋肉が強張るのを感じる。音を立てないように立ち上がり、隅っこで埃をかぶっていた父親のパタークラブを手に取る。いつもは邪魔だ邪魔だと思っていたが、感謝する日が来るとは思わなんだ。

 息を殺し、向こうの出方をうかがう。妹たちの部屋がある二階に向かってくれれば、いまは無人だし、後ろをつけていって急襲することもできるが、ひたひたと足音は近づいてくる。まるっきり人がいないと考えているのか、迷いがない。


 そして、リビングの前で一瞬だけ動きを停め、呼吸音ひとつ、ノブをひねった。


「どりゃーーーーーーーー!!!!」

「あん?」


 物盗りに人権はねぇ! 先制攻撃でふんじばって、警察に突き出してやる!

 ……のはずが、扉を開けた人影は俺の会心の一撃をひょいとかわすと、行き先を失ったクラブは廊下に突き刺さり、俺の身体もつんのめる。クラブを打ち付けた反動で動けない。そこに、


「シッ――!」


 鳩尾、水月、心窩、要するにみぞおちに、鋭く重く速い何かがめり込んで、そのまま膝から崩れ落ちる。息ができない。


「んだよ、お前か」


 それが猛烈な膝蹴りだと分かったのは、腹部を押さえ悶えながらも、辛うじて視線をその人影に向けたときだった。


「か……すみ」

「フンッ!」


 うずくまる俺の頭にフットスタンプ! 転がるように緊急回避。


「なんでいま俺って認識した上で攻撃してきたの!? 俺、お前の兄貴だよ!!」

「あたしに兄貴なんていねーよ」


 不機嫌そうに鼻を鳴らし、踵を返す佳純。その背中を見送りかけて、しかしそれではダメだと奮起する。いつもはどこにいるのかも分からない四女と膝を突き合わせ、話をする機会が転がり込んできたのだ。いや、膝を突かれたのは俺だけども。


「ま、待てよ。佳純」


 立ち上がり、その肩をつかみかかろうとして、


「チッ」


 振り返りざまの回し蹴り! 踵が鼻先を掠めていき、身の毛がよだつ。


「……別にお前が授業をエスケープしてようと、夜中出歩こうと、俺は何も言わん。 盗んだバイクで走り出したんなら、持ち主と警察に頭を下げに行ってやるし、深夜の学校の窓ガラスを割って回ったら、先生にも頭を下げに行く。でも、家には帰って来い。毎日じゃなくてもいいから」


 もちろん深夜に家の外へ出られるのは、佳純の性別や年齢を考えれば心配だし、損害賠償という話になれば我が家の財政を圧迫する。

 でも、なんど言い聞かせたって、聞かないやつは聞かない。これは俺が教師だから知っている訳ではなく、「兄」だからこそ経験した事実。

 それならば、時々安否報告がてらに、家族の誰かに顔を見せに来てくれるだけで十分だ。これが、精一杯の譲歩のライン。


「っせーな! 家族面するんじゃねえ!」


 しかし、あにの声は届かない。伸ばした手を振り払い、佳純は再び背を向け、歩き出す。

 玄関の扉が乱暴に閉められる音が聞こえて、ようやく俺は、停まっていた時間が動き出したように、ため息を漏らした。


 佳純は、俗に言う不良だ。それは振舞いや態度が粗暴というだけでなく、折々の担任教師からの連絡でも知れている。

 この内容が、学校でやんちゃをしている、という程度のものだったら、俺もさほど心患うこともなく、学校や先生方に平謝りに奔走するだけで済む。

 が、実際は、担任教師も足取りを掴めていないような現状だ。それでいて、前時代的にも他校の生徒が、お礼参りに来るというのだから、どこぞで恨みを買っているのだろう。


 そして、


「家族面すんじゃねぇ、か……」


 なによりも、彼女のあの言葉が突き刺さった。

 志津香、双葉はむろんのこと、口には出さないものの晶子だって、少なくともこの家を帰るべき場所とみなしてくれている。

 けれど、佳純は、俺を兄とは、家族とはまだ認めてくれていない。この家を、帰るべき場所と認めてくれていない。


 それが、なによりも、辛かった。


 誰が悪いという問題ではないのかもしれない。まだ半年だから馴染んでいないだけ、と言い繕えるかもしれない。俺ひとりが、責任を感じている風にするのは、傲慢なのかもしれない。


 それでも、自分が、やはり不甲斐ない。


 なにかと問題の多い仙崎家ではあるものの、その中でも危急で、取り返しのつかないことになりかねないのは、佳純の件だろう。俺が謝って済むならそれでいいが、ともすれば気付けば手の届かないところ、ということもありえる。


「よし」


 まだ佳純が家に帰ってきている内に、なんとかせねばなるまい。新しい家族に馴染めず居心地が悪く、かといって遠くへ出奔まがいのことをしている訳でもないとなると、彼女を引き留めている「絆」があるに違いない。そしてそれは――


「シヅカヘ。アニキトク。スグカエレ」


 実妹であり、境遇同じくする志津香だろう。以前からも彼女に佳純のことについて多少聞いていたものの、より詳しく解決の手がかりを求めよう。

 いまは授業中だから電話ではなく、インスタントメッセージを送ってしばらく、


「ソノママシンデ♡」


 ちっ、気を遣ってメッセージにしてやったというのに。そういうやつには……


「おらぁ! スタンプ連打ァ!」


 いかにマナーモードにしてようと、通知が途切れなく続けば、その振動音は教師の知ることとなるだろう。そのまま見つかって叱られちまえ。

 百件近いいやがらせのスタンプ爆撃で胸がすいたので、俺は再びごろ寝をしてお昼のワイドショーに視線を戻した。


 それから数時間後、またしてもうとうとし始めたときだった。


「こらくそ兄貴ーーーーーーーー!!!」


 志津香がリビングの扉を蹴破る音と声で意識が戻ってくる。


「なんだ、意外と早かったな」

「『なんだ』、じゃねえええええ! お前のせいで、危うく携帯見つかりかけたんだかんな!」

「ほう。よくあのスタンプ絨毯爆撃をしのいだな。どうやって言い訳したんだ?」

「『お腹のあかちゃんがお腹を蹴った音です……///』って」


 お前の腹の中の赤ん坊、北斗百裂脚でも使うのかよ。子宮破れるわ。


「そんな苦しい言い訳、よく通ったな」

「その教師、前の学校で教え子孕ませたのが発覚して転勤してきたから、むしろ気遣われちゃってさ。本当は教師も辞めて、その子と一緒になりたかったらしいけど、向こうの両親から猛反発受けて、泣く泣く別れたんだってさ」


 怖すぎるわその教師。なにが怖いって、その過去をいまの教え子たちに知られている上で、まだ教壇に立とうっていう精神が怖い。


「大丈夫。ちゃんと兄ちゃんとの子供だって、言っといたから」

「大丈夫なわけあるか」


 握りこんだ拳を志津香の腹目がけて放り込もうとして、手が止まる。


「そうか、この小さな体の中に、俺の……」

「うん……そうだよ。だから……」

「――んな訳あるか、このアホ」


 上方向にスライドさせて乳首をつねる。


「い゛だあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!! 出る、出る、母乳出る!」

「馬鹿な事やってないで話進めるぞ。お前、佳純について知ってることぜんぶ話せ」


 胸を押さえてうずくまる志津香をソファの上に座らせて、テレビを消す。


「すみねー? んだよ、兄ちゃんすみねー狙いかよ」

「ごまかすなよ。まじめな話だ」


 目で凄んで見せると、志津香はつまらなそうに唇を尖らせて、しばらく足をじたばたさせた後、観念したようにため息ひとつ漏らしてから、


「すみねーは繊細なんだよ。いまは、その、ちょっと慣れてないだけだから」

「繊細? 佳純がか? 今日、久しぶりにあったけど、頭踏み砕かれそうになったけど!?」

「それは兄ちゃんがしょうもないちょっかいかけたからなんじゃねーの。乳首つねろうとしたりとかさ」

「む……」


 確かに、泥棒と勘違いして先に手を上げたのは俺だった。


「平日の昼間に兄ちゃんみたいな変態に出くわしたら、そりゃわたしでもびっくりするよ。ま、冬眠明けのヒグマとでも思って、そっとしておいてやってくれよ」


 冬眠明けのヒグマて。


「佳純が神経質になってるのは、やっぱり『俺たち』のせいなのか」


 「俺たち」という言葉遣いが正しいのかどうかは分からない。晶子なんかは勝手に巻き込むなというかもしれないし、俺だってそう思う。けれど、下の妹が悩みを抱えているというのなら、手を差し伸べてやるのが、やはり兄や姉の役割ではないだろうか。


「まぁ、元を辿れば、私たちのお母さんのせい。もっと遡れば、死んじゃったお父さんのせい、ってことになるのかな」


 志津香たちの母親、すなわちいまの俺の義母にあたる女性は、未亡人であるところを俺の父親と再婚したと聞いている。が、逆にいえばそれ以上のことは一切知らされておらず、その顔すらも、半年前にいちど見たばかり。


「すみねー、お父さんのこと大好きだったから、お葬式んとき、すんげー泣いてたなぁ」


 大切な人を失くした気持ちは痛いほど分かる。俺でこそもう高校生ながらに自分の気持ちを整える術を身に付けていたが、彩音は違った。しかも、父親が父親だもんだから、母親に懐くのも道理。

 母親の通夜では、夜が明けるまで泣いていた。


 そして、グレた。


 中学には行かなくなり、かといって家にこもって喪に服しているでもない。女だてらに喧嘩に明け暮れ、俺はいろんな場所に何度も頭を下げに行った。


 だから、


 佳純のそんな話を聞いて、これ以上放っておける訳がなかった。


「すみねーはさ、たぶん、怒ってるんだと思う」

「怒る? 悲しんでるんじゃなくてか?」

「もちろん、悲しいのは悲しいと思う。でも一番は、怒ってるんだと思うぜ。『お母さん』に対して。それから、わたしにも」


 一瞬、話が繋がらないと訝しんだが、続く志津香の説明を聞いて納得する。


「わたしたちのお父さんが死んだのって、今日でようやく一年だったんだよ。それで、お母さんが再婚したのは半年前だろ? しかも、すぐどっか行っちゃったし。だから、お母さんはお父さんのこと、なんとも思ってなかったのかー! って風にさ」


 そうか。今日、佳純が珍しく家に帰ってきたかと思ったら、母親の姿を探しに来ていたのか。亡き夫の一周忌、法要を挙げないにしても、帰っては来るだろうと。

 しかし母親はいなかった。だからあんなに荒れていたのか。我が家に来た当初や口論の際に、暴れて物に当たることはあったものの、直接手を出されたのは今日が初めてのことだった。

 佳純を繋いでいた絆は、志津香ではなく、父親の幻影だったということか。


「すみねーも、ちょっと前まではあんなじゃなかったんだぜ? 中学生にもなって、たまにお父さんが帰ってきたら、パパ、パパ、つってさー。しっぽ振ってはしゃぐ犬みたいに。まぁ、わたしはボコスカ殴られてたけど」


 彩音が非行に走った時は、ある不幸な事件をきっかけになんとか改心の機会を得た。時間はすべての記憶と感情を風化させるというが、それがいつになるかは分かったもんじゃない。

 志津香が放っておけと言ったのも、むろん彼女なりの気遣いと方策なのかもしれないが、それとは別に、佳純を置いて仙崎家に迎合した後ろめたさもあるのだろう。

 やはり、俺がなんとかしなければならない。

 そう決意して、しかしどうしようもない胸の悪さを感じて、ひとつため息をこぼした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る