仙崎佳純の場合
1-1 仙崎誠、双葉について
〇
仙崎家の朝は、意外にも静かだ。というのも、俺と妹たちの活動時間がズレているだけの話。私立高校で教鞭を取る俺の朝は早い。
眠た目を擦りながらコーヒーメーカーにマグをセット。トースターに食パンを突っ込んで、テレビのニュースに耳を傾ける。毎日毎日、この間のケーキバイキングのような騒がしさを繰り広げる我が家も、この時ばかりは心安らぐというものだ。
人の近づいてくる気配がして、一瞬身構える。が、この時刻に起き出してくる者といえば、
「おはようございます、誠さん」
「おはよう、双葉」
三女双葉。兄が言うのもなんだが、絵に描いたような美少女で、我が家の家事を切り盛りしてくれている働き者。朝が早いのも他の姉妹たちの朝食や弁当を作るためで、まったく頭が上がらない。
「学校の方はどうだ? そろそろ志望校も本格的に決まってきただろ?」
双葉は今年受験の高校三年生。受験先なんかの話はまだ聞いていないが、悩ましい時期に違いない。
「ええ、まぁ。あ、食パン焼けましたから、バター塗っておきますね」
歯切れの悪い返事。あまり成績が芳しくないのかもしれない。教師としても、兄としても、彼女の勉学の力になるのはやぶさかではないが、彼女の方から頼ってこない手前、俺から言い出すのもなんだか恩着せがましく、口をつぐむ。
「おはよ~誠ぉ……。ふああああああぁぁぁ、ねむぅ」
「ふふ。おはようございます、彩音さん。いまコーヒー淹れますね」
「わっ、双葉ちゃん! お、お、おはよう。朝、早いのね」
髪の毛は梳いてないわ顔も洗ってないわの、寝起き姿を慌てて取り繕うが、時すでに遅し。恨めしい視線を投げかけてくるのを、コーヒーマグで遮って無視する。
彩音は、その職業柄もあってか、妹たちに対して妙に恰好を付けようとする節がある。四年前、晶子と双葉が新しく家にやってきた時からのものだから筋金入りだ。血がつながっていないにせよ、兄妹なのだから、家族なのだから、そんな肩ひじ張る必要なんてないと思うのだが、あるいは長女として矜持なのかもしれない。そもそもそれを察知されている時点で、面目もなにもあったもんじゃないが。
「双葉は自分と晶子と志津香の弁当を毎朝作ってるんだよ」
「なにそれ! あたし知らないんだけど!」
「俺とお前は仕事先で買うからって断っておいた。ただでさえ家事押し付けてるんだから、少しでも負担を減らしてやらんとな」
「三人分も四人分も一緒ですから、彩音さんの分もお作りしましょうか?」
「え、ほんとに! あ、でもあたし食べないときとかもあるからなぁ……」
その時、くぅと小さな腹の虫が鳴った。顔を赤くする彩音、苦笑する双葉。見て見ぬふりはできるが、聞いて聞かぬふりは、さすがの彼女も難しいようだ。
「それより、お前こそ今日は早いな」
「今日は撮影場所まで朝から移動があるのよ。だから帰りも遅いと思う」
「それじゃあ彩音さんは晩ご飯大丈夫ですか?」
「いつもごめんね」
「いえ。私は、家事くらいしかできませんし」
「…………」
対面に座った彩音が、再び俺に恨めし気な視線を向ける。双葉には聞こえないように、小さく嘆息吐いてそれに応える。
三女である双葉は、まさしく品行方正、精励恪勤、妹妻系ヒロインの鑑と言ってもいい美少女だ。俺が主人公ならば真っ先に攻略する。非の打ちどころがないといっても過言ではない。
しかしそれは逆に言えば、俺や彩音に対して、ひいては仙崎家に対して、心を開いていないと言い換えることもできてしまう。彼女が年長者である俺や彩音に甘えたり、不平や不満を漏らしたり、あまつさえ、先日の志津香のように無礼をはたらくこともない。家事だって、俺が押し付けた訳ではなく、自分で手を挙げてのことだ。
この四年間、俺は彼女のだらしない姿を、妹らしい姿を、いちども見ていない。それが寂しいといえば、寂しい。彩音もきっと同じ気持ちに違いない。
俺と彩音の分のトースターにバターを塗って、テーブルまで持ってきてくれる。そして疲れひとつ見えない笑顔を寄越すと、そのままキッチンの方へ。弁当の仕上げに取り掛かるようだ。
「情けないお姉ちゃんなのかな……」
助けを求めるように小さくこぼした言葉に、俺は何も言い返せずに、空になったマグをあおった。
ご覧の通り、現在の仙崎家はやや不安定な情勢下にある。大げさな言葉遣いをしたが、いい年をした、必ずしも血縁関係にない人間が六人もいるのだから、さもありなん、ふさわしい単語だろう
更に、現在と時期を表したが、これもやはり正しくて、というのも、それは、佳純と志津香のふたりが、つい半年前に我が仙崎家の一員となったからだ。
ちなみに、晶子と双葉は四年ほど前に仙崎姓を名乗るようになったが、双葉はともかく、晶子が馴染んでいるとは言い難いのも頭が痛い。
こういうのをどうにかするのは、本来俺の父親と新たな義母であるはずなのだが、両人とも新婚旅行と嘯いて、半年前に向こう一年は帰らないと宣言して家を出ていったもんだから、ますます頭痛はひどくなる。
俺にも自分の仕事があり、生活がある。それは彩音にしたってそうだし、晶子も、双葉も、佳純も、志津香だってそうだ。
そんな中で互いが互いに妥協点をさぐり合い、円満な家庭を築いていくべきだと理解はしているのだが、果たして行動に移せているかといえば、未だ手付かず、達成率ゼロパーセントだ。
俺と彩音は仕事に忙殺され、晶子は部屋から出ることなく、双葉は家事を切り盛りし、佳純はそもそも家に寄り付かず、最年少の志津香にはちと重すぎる問題だ。
あれ、これって家庭崩壊の危機じゃね?
「ったく、あの父親と母親はどこでなにしてるんだか」
家庭内のことを憂うと、どうしても父と義母を恨まずにはいられない。父親が気ままかってな人間であることは、この二十七年間で痛いほど思い知っているが、それに同調する義母も義母だ。
「お父さんとお義母さんなら、この間エアメール届いてたわよ」
つまらなそうに口を曲げながら、彩音がトーストを頬張る。
「手紙の内容は読んでないけど、一緒に附いてきた写真には、イスタンブールって書いてあったわ」
そりゃあ彩音も頭に来るってもんだ。子供たちがやきもきしている一方、自分たちは新婚旅行とは。お気楽ここに極まれりだ。
「ところで、イスタンブールってどこ」
頬杖ついた顎が滑り落ちそうになる。
彩音はちょっとお馬鹿なのだ。専門学校の卒業の少し前にモデルとしてスカウトされ、そこからその業界で生計を立てているから仕方のないことかもしれない。
「暖かそうな名前してるから、私だって南半球ってことくらい分かってるわよ! でも、イスタンブールがどこかは知らないだけで!」
イスタンブールは、東欧はトラキア国家トルコの大都市だ。暖かそうな名前だとのたまったが、北緯四十度のかの地は、この時期Tシャツなんかで出歩こうものなら間違いなく風邪をひく。というか、写真に服装が写ってたろ。そもそも、南半球=暖かいという彩音の見当違いには頭を抱えたくなる。
この事実を彩音に対して正確に教えようか、それとも適当にオセアニアの島々のどこか、とでも嘯こうか悩んでいると、
「イスタンブールはトルコの観光都市ですよね。イスタンブールがどうかしたんですか?」
双葉が反応した。気の利くことに、二人分のコーヒーを手に持って、キッチンから現れるところだ。
素直に、父と義母の新婚旅行先だと答えようとして、言葉に詰まる。俺たちにとっては義理の母で、半年前にいちどだけ顔を合わせた程度の関係の女性でも、本来担うべき家事をすべて双葉に押し付け、ハギア・ソフィアやスレイマン・モスクを満喫していると教えたら、彼女はどんな顔をするだろうか。
「いや……彩音が、長期の休みが取れたら、そこに旅行に行きたいってさ」
「そうなんですかぁ。海外旅行、良いですね。いつもお仕事大変なおふたりには、ぜひ行ってもらいたいです」
それを言うなら、いつも家事を任せっきりの双葉にこそ、たまには羽を伸ばしてぱーっと遊んできてもらいたいところだ。再びキッチンに戻る彼女の背中を目で追いかける。
学校の友達と、ショッピングをしたり、カラオケに行ったり。彼女が、今日は学校帰りに友達と遊んで帰るので、晩御飯作れませんと言ったところで、誰も責める者などいないはずだ。
しかしながら、唯一の救いといえば、双葉がそれほど料理や掃除を苦に感じていないことだろう。傍から見る限りでは、鍋の前に立ちながら鼻歌をこぼしていることもあるし、献立本を楽しげに読んでいることもある。
以前、いちどほかの姉妹に夕食の調理を命じたときは、
彩音:なんとかやろうとするが、そもそも不器用なので見ていられず、たまらず双葉が手を出した。
晶子:ラボからの帰りの時間が遅く、志津香が腹減ったと喚き出し、結局双葉が作った。
佳純:家に帰ってこず、双葉が以下略。
志津香:包丁の握り方すら知らず、まな板の上に血を撒き散らしたところで、双葉が略。ちなみに、この場合のまな板は、やつの平らかな胸のことではない。
という有様だった。女子力皆無とか、もはやそういう次元の問題ではない。生活力の問題である。
実際のところ、双葉が家事を引き受けてくれなければ、我が家は回らない。仮に病床に臥すことにでもなれば、しばらくはコンビニ弁当が食卓に並び続けるだろう。
今日も軽やかな鼻歌がキッチンから聞こえてくる。
いかんともしがたい居心地の悪さを感じて、俺は出勤にはすこし早いものの、立ち上がってリビングを出た。
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