第5話 隣に住むオバケと美少女。


「…あの…何かお茶でも出しましょうか?」


目の前で思いっきり固まってしまっている俺に反して、小さいながらもぷっくりとして柔らかそうな彼女の桃色の口唇からは俺に向かってそんな優しい言葉が投げかけられた。


「…あっ!いや!全然!すぐ帰るんでおかまいなく…」


そう言って、二人の間に流れ始める静かな沈黙。


何故か英語の教科書を握りしめて、何故か壁から俺の部屋へと悪霊を放出しまくっていたこの部屋で、これまた何故か全身びしょ濡れの彼女の家へと上がり込み、そして何故か俺は今その子と向かい合って座っている。


ふと目を落とせば、自分の目の前に鎮座している机の中央が、これまた何故だか黒く焦げてしまっていた。


そういえば室内も何だかほんのり焦げ臭い。


「…えっと…これは…?」


思わず指をさしながら尋ねる俺に、彼女は慌ててこう答えた。


「あっ!それは、最近なんかやたらと疲れやすいから、ラベンダーのお香でも炊いてリラックスでもしようかな~と思って火をつけてみたトコまでは良かったんだけど、いつの間にかそのまま寝ちゃってたみたいで。…で、あなたがドアを叩く音でやっと目が覚めたんだけど、その時にお香から結構な火が出ている事に気がついて…で、咄嗟に目の前にあった水をかけたんだけど、なんか間違って頭からお水をかぶったりしちゃって…」


そう言って顔を赤らめる彼女。


一体何をどう間違えたら頭から水をかぶるというイベントが発生してしまうのか。何だか謎が深まるばかりだが、とりあえずこれで彼女の全身がビシャビシャだった理由が分かった。


「…あの…そういえばさっき…何か玄関のところで確か『幽霊の巣窟』とか何とか言ってらっしゃいませんでした…?」


今度は俯き加減からの上目遣いで俺にそう尋ねる彼女。


…やっぱ聞かれてたか――――…!!


そう確信した俺は、すぐさま手にしていた英語の教科書を彼女に見せながら、


「…い…いやあれは!ほらっ!俺、今毎日英語の勉強ばっかしてるんスよ!だ…だから時々会話の中に英単語が混じっちゃって混じっちゃって!このお部屋がすごくいいカンジのお部屋だったモンで、思わず『YOUの家、So cool!!』とか言ってしまったんですよ!あはははは!!」


そう言ってわざとらしく頭を掻きながら、ひきつった笑いで無理矢理会話の軌道修正をかける俺。


『幽霊の巣窟』=『Youの家、So cool!!』


…さすがに厳しいか!!


そう思ったりもしたが、当の彼女は全然気にも留めていなかったようで、意外にもキョトンとした表情をしながら、


「…そうなの?なんか急に『幽霊』とか『巣窟』とか言い出しちゃうから、私ビックリしちゃって…。」


とか言い出しちゃう始末。


「いやいや!僕は今まで幽霊とか巣窟なんていう物騒で恐ろしい言葉、生まれてこのかた一度も口にしたことないですよ!いやだなぁ~!ちょっと発音がネイティブすぎちゃったかなぁ~?あはは…あははは…」


そう言って俺のわざとらしい笑い声が終わると同時に再び俯きはじめる俺と彼女。


二人の閉口と共に再び室内は静寂の中へと包まれた。


「…あ!あの!」


その重苦しいほどの静寂を打ち破ったのは、意外にも彼女の方だった。


「は、はい!な…ななな…なんでしょう!?」


再び投げ掛けられた彼女の声に、俺は一瞬体をビクン!と揺らしてから、慌てて答えた。


答える途中に、めちゃくちゃ変なタイミングで声が裏返ってしまったりもしたが、今はそんな事を気にしている場合ではない。


思いっきり彼女の口から『幽霊』という単語が飛び出てしまった以上、決して油断はできないのだから。


そう思った俺は、無意識に自分の姿勢を整えながら、彼女の話を聞き入れる事にした。


「…あの、ちょっと寒くなってきたんで、服を着替えて来ても…いいかしら?」


とても言いにくそうにモジモジしながらそう呟く彼女。


濡れた髪のせいか、彼女の可愛らしい瞳が

より一層潤んで見えた。


「…はっ、はい!どうぞ!…ってか、俺もう帰りますんで!」


…助かった…!!


そう思った俺が、何とかこの場から立ち去ろうと、机に両手をついて立ち上がろうしたその瞬間――――…


俺に向かって、彼女は慌ててこう言った。


「ま、待って!あの時あなたがこの部屋のドアを叩いてくれなかったら、きっとあのまま火事になっていたと思うの!…だからちゃんと…ちゃんとお礼がしたくて…。」


そう言って俺の横でちょこんと正座をしながら、先程よりもより一層とその瞳を潤ませて、俺の袖口を握る彼女。


ちょこんと座る事で、もともと細身で華奢なイメージが強かった彼女の体を、さらに弱々しく映らせる。


「…分かりました。別に急がなくてもいいんで、しっかり髪まで乾かしてから戻って来て下さいね。」


そんな彼女の姿にすっかり根負けしてしまった俺は、彼女のその願い通り、もう少しこの場に留まっておく事で了承をした。


「ありがとう。さっさと済ませてくるね!」


そう言ってとびきりの笑顔を浮かべながら、嬉しそうに洗面室へと向かう彼女。


寮とはいえ一人暮らしの女の子の部屋の中で、自分の袖口をギュっと握りしめながら、潤んだ瞳で「…お礼がしたいの…」とか言われたら、世の中の男性達は一体どう思うのだろうか。


ちなみに俺は…


冷静になって、今自分がいる空間をゆっくりと見渡す。


ピンク色の可愛いシーツに身をくるんだシングルサイズのベッドに、よく整頓されている化粧水類。そして飾りすぎず、適度に置いてあるぬいぐるみや小物。


それらのどれをとってもこの空間には、俺の部屋には決してないような『女の子らしさ』というモノで溢れかえっていた。


…だが、そんな一見完璧な女の子の部屋のように見えるこの可愛らしい部屋の中にも、一つだけとても似つかわしい物が存在している。


…それは…


俺は思わず鋭い眼差しでソイツの事を強く睨み付けた。


そう、俺の視線のその先にあったのは、例の黒い物体達の集合体。


ヤツは、相変わらず奇妙に蠢きながら禍々しいほどの重たい霊気を放っている。


…はぁ…早くこの場から立ち去りたい…


俺はうんざりとした表情を浮かべながら、こちらも負けじとソイツに向かって重たい空気とため息を放つ。


どうやら彼女が住むこの404号室は、すでに幽霊の巣窟となっており、集まってきた霊達の影響で体に疲れを感じやすくなっていた彼女が気分転換にラベンダーのお香を炊いた事で、その匂いを嫌った霊達が一斉に俺の部屋へと逃げ込んで来たというのが今回の事件の発端であり真相ってところだろう。


例えこの先あの美少女と、うっふんたわわなドッキュンイベントが待ち受けていようとも、俺はそんな事よりも早く霊のいるこの場所から逃げ去りたい…!


美少女との急接近よりも、とにもかくにも霊との遠距離!!


俺はとにかくこの場から逃げ出したい一心で、自分の足を小刻みに震わせ続けた。


…その前にとりあえず…


ふとあることを思い出した俺は、すぅっと静かに深い息を吸い込むと、自分のポケットの中からクシャクシャになった数枚の紙を取り出した。


そしてそれをさらに無造作に自分の手でクシャクシャと小さく丸めると、思いっきりその黒い物体に向かって投げつけはじめた。


『…悪霊退散ッ!悪霊退散ッ!』


小さく口パクでそう唱えながら、黒い物体に豪速球で投げつける。


俺に紙を投げつけられるその度にボフン!ボフン!と乾いた音を立てながら、少しずつ千切れて小さくなっていく黒い物体。その姿はまるで胞子を飛ばすキノコのようだった。


俺が奴に向かって投げつけているモノこそ、俺が先程習字で書いた『悪霊退散!』の書き損じ!


実はあの後も何枚か半紙にこの文字をひたすら書き続けてはいたのだが、結局上手くできたのは現在壁に掲げてあるあの一枚だけであり、あとは微妙にバランスが崩れていたり、文字の周りを墨で汚してしまったようなイマイチすぎる作品ばかりだった。


それでもこんな事もあろうかと、ポケット一杯に詰め込んでいて本当に良かった!


例え書き損じでも、こんな低俗霊達には十分に効果がある。


「ふははははーッッ!!どうだー!思い知ったか!これでもくらえッ!これでもくらえーッッ!!」


まるで日頃のうっぷんでも晴らすかのように、我をも忘れて奴にその紙を投げつけ続け、何だかだんだんとテンションが上がってきてしまった俺は、ここが隣の美少女の部屋だということもすっかり忘れて、まるで何かの悪役かのような台詞を吐き捨てながら、ただひたすらにその黒い物体に向かって丸めた半紙を投げつけるという所業を繰り返していた。


おかげでようやくその黒い物体がかなり小さくなって来た頃…


「…一体何を騒いでいるの?」


背後からそう彼女に声を掛けられた。


思わず見事なピッチャーフォームのままその場で固まってしまう俺。


もちろん彼女には、この黒い物体の姿など絶対に見えてないはずだ。


…と今は思いたい。


「…い…いやぁ~!これからの高校生活で、もし甲子園に行けたなら、試合でこんな風に投げてみたいなァ~と思って…今から4番ピッチャーになる為のイメトレを…」


…って、これまた厳しいか!


とりあえずふと頭によぎった苦しい言い訳で、何とかその場を取り繕うとする俺に向かって、彼女はまじまじと俺の顔を覗き込みながらこう呟いた。


「…あなたまさか…」


だんだんと彼女の顔が俺へと近づいて来る。


心なしかその表情は先程に比べてかなり険しい。


…やっぱ霊が視える事がバレてしまったか…!!


「…じ…実は…」


彼女のそんな強い気迫に、俺がついに覚悟を決めたその瞬間…


「…あなたまさか、野球部に入るつもりじゃないわよね?」


「…え?」


険しい表情のまま、俺にそう投げかけてきた彼女が大切そうに手に持っていたのは…


『オバケ部』と大きく書かれた、一枚の入部希望の紙だった。

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