第4話 猫のウンコ
草食、雑食、肉食のウンコの中でも断トツで臭いのは肉食だ。
これは肉に含まれるタンパク質が腸内細菌によって分解されたあと、「インドール」「スカトール」というガスがでるからだ。
このスカトールはギリシャ語で糞を意味するskatoに由来しているが(wikiperiaより)、香水に詳しいヒトはおや?と思ったかもしれない。
どちらも香水の成分表示でよく見かける単語で、香りに奥行きを持たせるために使われる。
2つとも通常では不快な臭気だが、低濃度ではジャスミンやスミレのような香りになる。トイレの消臭剤にジャスミンの香りがよく使われているのは同じニオイをぶつけて消臭するためだとかなんとか。
香水の香りと同じ成分を持つウンコだが、コーヒーになるウンコもある。
インドネシアではコーヒー豆の生産が盛んだが、ときどき栽培している豆を野生のジャコウネコに食べられる。
果肉にあたる部分は消化されるが、種子にあたる部分は消化されずに排泄される。この豆を洗って乾かせ、炒れば世界一高価なコーヒー豆のできあがりだ。
ジャコウネコのおなかでコーヒー豆のタンパク質が分解され独特の味わいになるらしい。
一度飲んでみたいが一杯数千円と聞くと二の足を踏む今日この頃。
肉食のウンコのなかでも巷でよく見かけるのは猫のウンコだ。公園や路地でたわら型か丸い棒のような形が連なっているものを見たことがあるヒトは多いと思う。猫のウンコにハエがたかっているところに木の棒でつついたことがあるのは私だけではあるまい。
そんな猫のウンコを集める羽目になったことがあった。
あれはウンコ研究室に入ってそろそろ1年の頃ぐらいたった。
「猫のウンコを拾いに行こう!」
カラオケに行こう!と同じノリで誘ってきたのは同じ研究室の先輩であった。
「丁重にお断りします」
私は即座に返答した。
他の研究室では先輩の命令は絶対のところがあるが、ウンコ研究室は気ままでマイペースな人間の集まりであり、上下関係などないに等しかった。
「そんなこといったら、今度何かあっても見て見ぬふりするかも」
「う……」
先輩の不適な笑みを浮かべ言ったセリフに私は言葉に詰まった。
彼女は、例の豚ウンコ1000個耐久検査で私が若干ノイローゼになりかかっていた時に、唯一手伝ってくれたヒトであった。
「とりあえずさ、これも人生経験だと思ってやってみようよ。少し経験値あがるよ」
「何の経験値ですか?」
「ウンコ探知能力かな? あ、あそこにウンコがありそう、みたいな」
心の底からいらねぇ。
けれど、助教授の横暴がまたないとは限らない。
これで貸しも返せるし、いざという時のためにポイントを稼いでおいた方が良い。
そう思っていたら、いつの間にか眼鏡助教授が隣にいた。
「私からもお願いします。今度、寄生虫学実習で使うための猫のウンコが欲しかったところです。いくらあっても足りませんから」
あ、これはだめなパターンだ。
今更ながら頭の警戒音が鳴り響くが、時すでに遅し。
「ちょうど良いですね! じゃあ、後輩と一緒に集めてきます。どれくらい必要でしょうか?」
「そうですね、とりあえず再来週までに100個ほど準備お願いします」
いつもの笑顔で彼は言い放った。
私の猫ウンコ探しは決定した。
ウンコ探索者の朝は早い。
朝5時には家を出て、先輩との待ち合わせ場所に向かう。
なぜかというと、誰もいない時間じゃないと視線が痛いからである。
想像して欲しい。
よく晴れた空の下。
子供の頃、公園で友達と遊んでいたところへ、突如手袋とマスクをつけスコップ片手にもつ大人が現れ、おもむろに公園の砂場を掘り出したら、どう思うか。
変質者が来たと思うに違いない。親がいたら通報ものだ。
現に公園で朝のランニングをしているお姉さんやおじさんは、こちらを見るなりあからさまにルートを変更する。
何が起こるか分からない時代で、こういうご時世だから仕方がないとは思う。私も逆の立場なら確実にUターンする。
けれど、やっぱり傷つくよね。
「そういえば猫のウンコと犬のウンコってどうやって見分けるのですか? 道に転がっていたらどっちか分からないですよ?」
朝のひんやりとした空気の中、公園の砂場にてスコップで猫ウンコを掘り出している先輩に尋ねた。
「嗅げば分かるよ。猫は肉食っぽい臭い、犬は肉食に近い雑食っぽい臭いがする。これは猫のウンコの臭い」
先輩はスコップでウンコを割って手で仰ぐ。
嗅いでも、臭い以外の感想しかない。
「いや、絶対分からないです」
「嗅ぎ続ければ分かるよ。経験、経験。とりあえずウンコを見つければ拾ってビニール袋に入れとけば良いから」
彼女はそう言うと、背負ったリュックからウンコ回収用のビニール袋を取り出した。
先輩は野良猫の寄生虫感染状況を調べるために猫のウンコを集めていた。
猫のウンコで問題になる寄生虫は猫回虫だ。
また回虫かよ、と思われるかもしれないがそれだけポピュラーな寄生虫なのだ。
なにが問題かと言うと、ヒトに害をなす点だ。
基本的に猫回虫が猫に感染していても、免疫機能があまり発達していない子猫でなければ症状はほとんどない。
けれど、猫回虫がヒトに感染すると、本来とは違う動物に寄生したばっかりに幼虫は成虫になれないため体中あちこち迷子のように動き回る。
脳にいけば脳炎、眼にいけば網膜炎を引き起こす。これを幼虫移行症と呼ぶ。
野良猫の猫回虫保有率は都道府県ごとに異なる。古いデータだが、東京都では30%を超える。そして感染した猫たちが、公園の砂場でウンコすることで猫回虫卵で汚染される。
砂場で遊んだあとはきちんと手を洗いましょう、と口うるさく言われる理由の一つが、手についた猫回虫卵が口に入らないようにするためだ。
20年ほど前に砂場での猫回虫汚染が問題になり、自治体が対策に右往左往したことがあった。ただ幼虫移行症の感染ルートは主に肉の生食からであり、砂場からの感染例はほぼないため、現在はあまり問題になっていない。けれど、用心するに越したことはないし、免疫疾患がある場合は注意した方がよい。
「じゃあ、レクチャー終わり。あとは二手に分かれるよ」
先輩は1つ目の公園でのウンコ捜索が終わると言った。
彼女の言葉に私はあんぐり口を開けた。
まじで?
一人で?
ウンコを拾っていくの?
「え……2人で集めるのではないのですか?」
「ウンコを拾うだけだから2人いてもしょうがないでしょう。これ、ピックアップ予定の公園ね」
彼女は地図を渡すと、さっさと次の公園へ向かってしまった。
1人と2人では、寂しさは段違いである。
鳩たちがクルッポーと背中越しで鳴く中、1人で黙って公園の砂場を掘っていると、私は何をやっているのだろうという感傷がこみ上げる。
豚ウンコの時は、手伝わないが茶化しにくる先輩や同じ時期に研究室に入った同級生がいた。
けれど、ここは野外。
話し相手がいないまま、公園から公園を猫のウンコを求めて渡り歩かなければならない。
なにが辛いって、折角公園に行っても猫のウンコが見つかる確率が100%ではない点だ。
あちこち砂場を漁っても収穫ゼロの時は涙がでてくる。
やれば確実にウンコの数が減っていた時とは違い、達成感がない。
見つかった時は、「見つかったー!」とテンションがあがるが瞬時に、猫のウンコ1つでどうしてここまで自分は喜んでいるのかと、悲しい気分に襲われる。
そうして時間が過ぎていくうちに、活動を始めるヒトたちがあたりに増えスゴスゴ退散せねばならない。
次の日に同じ場所にあるとは限らなく、朝の時間帯で計3個ほど見つかればかなりよい方だった。
これを100個? 到底無理だ。あの眼鏡は何を考えているんだ。
2週間後、2人で集めたウンコの数は正確には覚えていないが100個には届いていなかった。
「先輩……猫のウンコ、実習までに必要数間に合わないです」
報われない結果にうなだれる私に、先輩はカラカラ笑った。
「ああ、その点なら大丈夫だよ。2日前に取りに行ったばかりだから」
彼女は私を手招きし、研究室の冷蔵庫を開けた。
ひょいとのぞくと、そこには大量の猫ウンコが詰まっていた。実習分は確実にある。
「なんですか、この量……。全部先輩が見つけたのですか?」
「それは流石に無理無理。実はあちこちの団体に見つけたら拾ってくれるようにお願いしているの」
彼女は、色々な動物病院や野良ネコ保護を目的とするNPO法人に声をかけ、猫のウンコを集めていた。それを先日回収してきたとのことだ。
「ということは、わざわざ私たちが探す必要がないと思うのですが……? 黙っていても集まるんでしょう?」
「みんなに集めてもらっている手前、私だけが研究室に引きこもっているのはだめだし、たまにはどれだけ大変か知っておかないとね。こういうのは信頼関係が大事だし」
当時の私は、先輩の言っていることが分からなかった。
楽が出来るなら越したことがない、と思っていた。
けれど今なら彼女の言っていたことが、そうだったのかと頷ける。
研究者は、自分の研究テーマに没頭するあまりに、サンプルくれくれ人間になりがちだ。
頼まれる側としては研究のためだからと言われれば断ることはあまりしないが、メール1つだけよこし、顔ひとつ見せないどころか会ったこともない研究者のアレコレ細かい催促に良い気分はしないし、このヒトのために頑張って集めなきゃという気持ちはあまりわき上がらない。その研究にどんな大儀があってもだ。
その点、彼女は現場である動物病院やNPO法人によく顔をだし、その都度結果を報告し、拾ったばかりの子猫の寄生虫検査が依頼されたら快く受け入れていた。
研究と現場。
どちらも大事にする彼女の姿は、様々な情報伝達手段が発達した今でも研究者のあるべき姿だったと思う。
ちょっとしたことのひとつひとつが信頼関係を構築する。
それが円滑に物事を進めるための第一歩。
ウンコ研究室の先輩に教えてもらった大切なことだ。
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