第3話 豚のウンコ

 豚のウンコはどのようなものかと聞かれても、なんとも言えない。

 どんなウンコになるかは何を食べるかによるが、草食の牛と違い豚は雑食でなんでも食べる。主に植物を食べるが昆虫や爬虫類や哺乳類も食べることがあり、アメリカや中国やロシアでは豚にヒトが食べられたという事件もある。


 そのため豚のウンコには色々な形態があり、ヒトのようなバナナ型であったり、丸くてころころしていたり、ブドウのように丸い粒々が固まっていることもある。

 

 図書館の子供コーナーで動物のうんちの本を3冊ほど調べたがどれにも豚のウンコについて載っておらず、どれが一般的か分からなかったが、かわりにウォンバットのウンコは四角いという新しいウンコ知見を深めることが出来た。

 

 形のみならず匂いも様々だが、臭いことに変わりはない。

 2009年には悪臭対策にオバマ大統領は豚のウンコから良い匂いがすべく研究に数百万ドルをそそぎ込んだそうだ。2012年に援助は打ち切られたようだから、おそらく上手くいかなかったのだろう。


 豚は不潔なイメージがあるが、そんなことはなく綺麗好きだ。ウンコをする場所は食事する場所や眠る場所から遠いところときっちり決まっており、群のみんなでそこにする。豚小屋なんて言葉は言いがかりに近い。


 けれど、豚のウンコについてはこれまた良い思い出がない。

 あれは研究室に慣れ始めた時のこと。

 すべては眼鏡助教授の無茶ぶりから始まった。


「○○さん、時間はありますか?」


 その日、私は研究室当番であった。

 研究室当番とは、いわゆる電話番である。

 研究室にかかってきた電話をとり、助教授や教授につなげる係だ。

 あとは給湯器のお湯を足したり、タオルを干したり、実験器具を洗ったりなどの役割がある。

 空いた時間は何をしていてもよく18時になれば帰って良いのだが、先生方や先輩たちが手伝いを欲しい時はこのように声がかかる。

 

 そのときは明後日が締め切りの授業レポートをやっている最中であった。出来ればこのレポートを片づけたいなぁとちらっと視線を向けたが、助教授はいつもの笑っていない目でやんわりと牽制する。有無を言わさずというやつだ。レポートは諦めるしかなかった。


「あー……はい。ありますが」

「では検査室に来てもらって良いですか? ちょっと手伝って欲しいことがあるのです」

 そういうと、彼はすたすたと研究室へ歩き去っていった。


 本日の睡眠時間よ、さよなら。

 心の中で別れの言葉をつげ、私はこっそりため息をつきながら椅子から立ち上がった。

 


「では様々な農場から集めた豚のウンコ1000個の寄生虫検査を行います」


 どんと目の前に置かれたパッキングされた1000個の豚のウンコを、私は直視することができなかった。

 ちょっと、というレベルじゃない。

 どう考えても今日中には終わらない。 


 ウンコ検査は大抵、寄生虫本体ではなくその卵を探す作業になるが色々と下処理が必要で、1検査1個あたり20分以上の時間はかかる。


 それを1000個である。単純に考えて333時間以上かかる。流石に一人で全部やれという話ではないだろうが、この時点でもう、毎日研究室に通って時間が許す限り手伝ってくださいと宣言されたものだ。

 本日より、日々、豚のウンコと向き合う生活スタートである。

 定時までに終わればと良いなという希望的観測は粉砕された。

 

 誰だ、この研究室が暇だと言ったやつは。

 研究室の中でもベスト3に入るぐらい暇であるという前評判には嘘偽りがあった。


 もしかしてウンコ研究室という名では学生が誰も入ってこないため、どうにか雑用をゲットするために誰かがそんな噂を流したのではないだろうか。そして目の前の助教授にはやりかねないところはあった。


 果てしない作業に目がくらむ思いだったが、何もしなければウンコは1000個のままだ。1個片づければ、999個になる。文句を垂れていても始まらないため、早速手を付けることにした。


 まず最初にやることはパッキングウンコの色・臭い・形状を記載することだ。

 たとえば、茶褐色の少し酸っぱい香りのブドウ状の便、といった内容を検査用紙にどんどん書き込む。

 なんてことはない作業に思えるが、数が多いとただひたすらに辛い。

 

 ウンコを嗅ぎ続けるうちに鼻が麻痺し始め、臭いとは何か分からなくなる。

 ウンコを見続けているうちに果たして私は何をやっているのだろう、私はどうして生きているのか、私はどこへ行ことしているのか、と脳が哲学的な問いをし始める。

 けれど、ただただ黙々とやらねばならい。 

 

 記載が終わればウンコを特殊液に溶かして下処理後、顕微鏡でどのくらいの寄生虫卵がいるか調べる。

 見える卵の数が多ければ当然、寄生している虫の数は多く、どれだけいたかを数え結果を記載してようやく1個分のウンコ検査は終了だ。

 

 たいていのウンコからは寄生虫卵は見つからないが、ゼロという訳でもない。

 ちょいちょい見かけるのは豚回虫卵だ。楕円形の周囲にひらひらのフリルがついており太陽に似ている。

 

 豚回虫は豚回虫卵の入ったウンコが口に入ることで感染する。

 成長して成虫になると大きさ20cmほどになり腸管に寄生するが多数寄生すると、腸管が大変なことになる。

 詳しい描写は避けるが、気になるヒトはグーグ○先生あたりに教えてもらって欲しい。目黒にある寄生虫館に行くと実物を見ることができる。


 そうして検査を続け、幾数日。 


 「今日も豚ウン?」

 「うん……豚ウン」


 女子高校生のような略式会話で友人の誘いを断り続け、初めは手伝ってくれた眼鏡助教授が、やがて豚ウンそっちのけて他のことをやりだす中、ひたすら検査し続け半分が片づき残り500個となった頃。

 

 ウンコを見れば、「あ、このウンコには寄生虫がいるな」とだいたい分かるようになっていた。


 ころころ粒だと感染していることはほぼない。

 下痢便だからといって寄生している確率は意外にそう高くない。

 けれど、糞便によく分からない白いものが付着し、嫌な酸味のある匂いがしているときはほぼ確実に感染していた。白いものが多ければ、その確率は上昇する。

 

 この白いものはなんなんだろう。

 厚みがありプニプニしており、水にいれると浮くが溶けない。

 粘膜かなと考えていたが、どうも違う気がする。

 タイミングが良いところで、何食わぬ顔で助教授が現れた。

 

 「先生、時折白いものがウンコについているのですが、これはなんでしょうか?」

 「ああ、脂肪便ですね」

 「脂肪便?」

  

 脂肪便。

 読んで字のごとく、過剰な脂肪が便に含まれたものである。

 あの白いものは、脂であった。

 どおりで水に浮き、なかなか溶けない訳だ。

 

 豚同様、ヒトも脂肪便を出す。

 原因は膵臓の疾患の場合があるが、脂肪分の多い食べ物を食べ過ぎてなることもある。

 偏った食事は栄養不足を引き起こし免疫が低下する。

 健康体であれば寄生虫卵が口にはいっても、感染に至らない場合の方が多いが、免疫力が下がっている状態では感染リスクは跳ね上がる。

 あの白いウンコたちはその事実を物語るものであった。 

 

 1000個の豚ウンコ検査を終えるころには、食事のバランスを考えカップラーメンだけで食事をすませたり、ラーメン通いを控えるようになっていた。


 バランスの良い食事は大切。

 ウンコ研究室に入って身をもって体験したことだった。

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